地元のTV局が制作した古田 織部に関する番組を視た。
ここからも、文化力とは矢張り幻想である。
所詮は文化力も其の幻想の域を出ないものである。
何故ならそもそも文化とは余剰である。
科学的に記載される人間の生存の要件が充たされて初めて実現出来得るであろう何かだ。
第一こんな熾烈な競争原理の支配する時代に文化力なんてちゃんちゃらおかしい。
世界にはまさに食うや食わずで人生と格闘して居る人々が大勢居るというのに其の余剰の部分への物的または精神的な投資を考えることは逆に無粋といえようものだ。
ひょっとすると、文化なんて要らないものなのではなかろうか?
とすれば、私はもう詩人でも何でもなくタダの仏教庶民なのである。
然し評論家の山田 五郎氏は番組中であの過酷な戦国時代に於いてこそ織部好みと屡語られるような所謂へうげものの文化が生じたのだろうと語られて居た。
即ち文化とはひとつの精神性でもあり得る訳だ。
人はパンのみにて生くるにあらず、とは屡語られて居る言葉ながらまさにそうしたことなのであろう。
人間は精神性のようなものを常に欲しつつ歩んでいくものだ。
戦功やら成功やらそんなものばかりを追い求めて生きて居るだけのものではないのである。
然し其の精神性はたとえば宗教の方で充分間に合うものなのではなかろうか?
宗教があれば藝術は不要なのではなかろうか。
然し其れはどうも質が違うように思われるのである。
宗教に於ける精神性の規定は創造ではなく維持の為に為されることだ。
其の維持とは制度及び人間の維持である。
他方で藝術に於ける精神性とは創造的領域への精神の解放のことだ。
其のようにベクトルが異なるので元来別物である。
然し共に同じくして精神を対象とする格闘であり進化でもある。
ただし、文化には作為性が常に問題として含まれて居る。
例えば織部焼を作る時に陶工はわざと陶器を曲げたりしていびつな形に作る。
釉薬などもわざとかけ外したりして其処に偶然の景色を盛り込んだりもする。
然し其の作為とはやり過ぎるとむしろいやらしくさえ感じられるものとなる。
いざそうなると形式の世界に捉われた大量生産の普通の茶碗の方が美しくさえも見えて来るものだ。
其のようにへうげることとは実はある種の危険性を孕んで居ることでもある。
たとえば私は自らの感性に基づいてたまには詩なども書きそしてこれまで様々な文物、藝術の世界にも接して来たのだったが、そして常識外れのことばかりを述べ時には社会の秩序を乱すようなことさえ述べることさえもあったが其の事により私が本質的に癒されていたという訳ではないのだ。
藝術に於ける作為は、そしてへうげ者として世を紗に眺め精神的悦楽の世界に浸り切ることは、本当の本当はそうした一種虚しいものさえをも含んで居るものでもある。
かって太宰 治が藝術とは豚の鼻です、と作品の中に書いていたがこれがまさしくそうしたことなのであろう。
藝術とはあくまで豚の鼻のことであるに過ぎず、其れ自体が香り高いものなのではなくまた特別なものだという訳ではないのである。
ただ其処には何かを感じ取る能力があり、しかも世の諸の香って居ることが良く分かるから媒介者として其の香りを移して何かを常に生み出し続けてい くばかりなのである。
だから其のようにいつまでも人間の余剰の価値の為にヒーコラして作品を生み出しつつ所謂へうげ者を続けていくばかりなのである。
そして其れが万人に受け入れられるものであるか否かということとはほとんど関係のないことなのである。
藝術家とはまず其のように余剰の卑しいことを行うべき存在である。
ただし豚の鼻に成りきらなければ世の諸の芳香を嗅ぐことは出来ない。
優れた宗教家でも学者でも、また他の何であれ豚の鼻が備わって居なければ風流、粋狂の類を解することは出来ない。
太宰 治はその後を続けて、豚の鼻は花の香りを知って居ます、とも述べて居る。
ゆえに其の部分にこそ藝術の香り高さが存して居るのである。
ここからも、文化力とは矢張り幻想である。
所詮は文化力も其の幻想の域を出ないものである。
何故ならそもそも文化とは余剰である。
科学的に記載される人間の生存の要件が充たされて初めて実現出来得るであろう何かだ。
第一こんな熾烈な競争原理の支配する時代に文化力なんてちゃんちゃらおかしい。
世界にはまさに食うや食わずで人生と格闘して居る人々が大勢居るというのに其の余剰の部分への物的または精神的な投資を考えることは逆に無粋といえようものだ。
ひょっとすると、文化なんて要らないものなのではなかろうか?
とすれば、私はもう詩人でも何でもなくタダの仏教庶民なのである。
然し評論家の山田 五郎氏は番組中であの過酷な戦国時代に於いてこそ織部好みと屡語られるような所謂へうげものの文化が生じたのだろうと語られて居た。
即ち文化とはひとつの精神性でもあり得る訳だ。
人はパンのみにて生くるにあらず、とは屡語られて居る言葉ながらまさにそうしたことなのであろう。
人間は精神性のようなものを常に欲しつつ歩んでいくものだ。
戦功やら成功やらそんなものばかりを追い求めて生きて居るだけのものではないのである。
然し其の精神性はたとえば宗教の方で充分間に合うものなのではなかろうか?
宗教があれば藝術は不要なのではなかろうか。
然し其れはどうも質が違うように思われるのである。
宗教に於ける精神性の規定は創造ではなく維持の為に為されることだ。
其の維持とは制度及び人間の維持である。
他方で藝術に於ける精神性とは創造的領域への精神の解放のことだ。
其のようにベクトルが異なるので元来別物である。
然し共に同じくして精神を対象とする格闘であり進化でもある。
ただし、文化には作為性が常に問題として含まれて居る。
例えば織部焼を作る時に陶工はわざと陶器を曲げたりしていびつな形に作る。
釉薬などもわざとかけ外したりして其処に偶然の景色を盛り込んだりもする。
然し其の作為とはやり過ぎるとむしろいやらしくさえ感じられるものとなる。
いざそうなると形式の世界に捉われた大量生産の普通の茶碗の方が美しくさえも見えて来るものだ。
其のようにへうげることとは実はある種の危険性を孕んで居ることでもある。
たとえば私は自らの感性に基づいてたまには詩なども書きそしてこれまで様々な文物、藝術の世界にも接して来たのだったが、そして常識外れのことばかりを述べ時には社会の秩序を乱すようなことさえ述べることさえもあったが其の事により私が本質的に癒されていたという訳ではないのだ。
藝術に於ける作為は、そしてへうげ者として世を紗に眺め精神的悦楽の世界に浸り切ることは、本当の本当はそうした一種虚しいものさえをも含んで居るものでもある。
かって太宰 治が藝術とは豚の鼻です、と作品の中に書いていたがこれがまさしくそうしたことなのであろう。
藝術とはあくまで豚の鼻のことであるに過ぎず、其れ自体が香り高いものなのではなくまた特別なものだという訳ではないのである。
ただ其処には何かを感じ取る能力があり、しかも世の諸の香って居ることが良く分かるから媒介者として其の香りを移して何かを常に生み出し続けてい くばかりなのである。
だから其のようにいつまでも人間の余剰の価値の為にヒーコラして作品を生み出しつつ所謂へうげ者を続けていくばかりなのである。
そして其れが万人に受け入れられるものであるか否かということとはほとんど関係のないことなのである。
藝術家とはまず其のように余剰の卑しいことを行うべき存在である。
ただし豚の鼻に成りきらなければ世の諸の芳香を嗅ぐことは出来ない。
優れた宗教家でも学者でも、また他の何であれ豚の鼻が備わって居なければ風流、粋狂の類を解することは出来ない。
太宰 治はその後を続けて、豚の鼻は花の香りを知って居ます、とも述べて居る。
ゆえに其の部分にこそ藝術の香り高さが存して居るのである。