目覚めよ!

文明批判と心の探求と

不元気という健康


考えることこそが生きないことで

考えないことこそが生きることだ


考えない分だけ女は純粋に生きられるが

一方男はこんなにまで考えてしまうので

誰だっていつだって彼は悲惨である


現実性は確かに此の世を

うまく回す為の最後の原理だ


其の原理によりこうして此の世はグダグダと

或はデロデロと回り続ける

其の子宮そのものの原理でもって



半ば腐りながらも

回り続けていくのだ


だが大きな部分に対して

其れは常に無力である


のみならず有害であり破壊そのものなのだ


其の愛こそが有害であり破壊そのものなのだ


小さなところでは紛れもなく其れは愛で

でも大きなところでは其れこそが破壊であり魔そのものなのだ


だからそうした自己矛盾の様こそが


此の世界の実相なのである


天使が悪魔に変わり神仏が死神に変わり得るところが


此の世での本当の本当の苦しみの相だ


たとえば考えることの無力さは

其の巨大な子宮に対する抵抗でもある


存在としてより現実化されることの空しさに対する抵抗なのだ


そんな風にスケールが異なると

言葉の意味の全てもまた逆転する


スケールが異なるからこそ

其れ等観念の意味と本能の意味とが逆転し得るのだ


ゆえに現実化されない観念こそが清い


いや

現実化されしものに観念も本能も無く

ただ其れ等は等しく穢れて居るのである


穢れて居るもののパラダイスであることこそが此の世界での実相である





という訳で此の世とは元々穢れたものなのだと考えるほかはない。

穢れて居るので我々は今こうして生きて居るのです。


あくまで観念上はそうした結論しか導き出せないのである。

むしろ考えれば考えるだけそうしたことになっていくのです。


つまり論理で捉えられ得る現実には限界があるということだ。

論理つまり言葉は現実の上での矛盾性に突き当たり、其処で立ち往生して仕舞うということだ。


この
立ち往生をほどくのが、かの子宮力である。

謂わば考えない生命力そのものが、此の矛盾に充ちし現実を推進させるのである。


然し
生命力そのものはむしろ悪魔のようなものなのだ。


生命にとっての天使だからこそ其れはむしろ悪魔なのである。

ーそう云えば悪魔とは堕天使のことである。元々は天使だったものこそが悪魔となるのだ。ー


生命にとっての母とは元々そんな風に矛盾化して居る。


其の母こそが矛盾なのである。


其処にエゴが含まれて居るゆえの矛盾なのである。


対する父の観念力はどうなのだろうか。


此の矛盾性を乗り越える力が其処にあるのだろうか。


否、観念力には現実を乗り越えるだけの力が無いのである。

観念とは元々そうしたものなのである。


其処にパンが与えられずば、観念は餓死するよりほかはない。


ところが子宮が全的にパンを求めると、
観念が餓死するより先に此の世 は滅んで仕舞う。


極めて現実的にかつ物理的に、諸の限界が突き付けられ
此の世は滅ぶ。


まさにこの辺りが観念と本能の限界であり二元的対立の様なのである。

母と父の意味とはまさにそうしたことである。


ゆえに母が強過ぎると世界は物理的な破局へと向かい、父が強過ぎると世界は観念的に自決する方向へと向かう。

共に自滅の方向へと向かうということだ。


この父性原理と母性原理が絡み合い、かつ相対する様を軽々しく見て居てはならない。


どちらかが強くなり過ぎると世界は次第に壊れていく。




近代に於いては、まず
、父性原理が強く働き科学技術を発展させた。

ところが戦後は母性原理の方がむしろ強く働き今世界にはエゴの巣窟的な様相が強まりつつある。


元より母には限界があり、父にも限界がある。

母の限界は本能的エゴイズムのことであり、父の限界は観念的閉塞のことである。


観念的閉塞とは、観念が本質的に生命力を持ち得ないということが指し示されしものだ。


観念はより純粋には非現象界の属性であり其れを不完全な形で象りしものなのだ。


純粋な観念を現象界に無理に当て嵌めて仕舞うと
観念は生命力を失った形でのみ存在し得、其処で謂わば弱くなって仕舞うのである。


近代に於いては、此の父と母の原理のアンバランスが二度起きて居たことになる。


此の父と母の原理のアンバランスをなるべく排し、両者の良好なバランスを取り戻しましょうというのが今回のわたくしの提案である。





さて先日瀬戸内 寂聴さんのドキュメンタリー番組を視たので其れにつき書いてみます。




瀬戸内 寂聴さんは今「いのち」という小説を執筆されて居るのだそうだ。


おそらくは其処でいのちというものに対する思考として最後の纏めをなさって居るものと思われる。

でもいのちというものは常に生臭いものである。


生臭くないいのちというものはなく、ゆえに清廉潔白ないのち、純粋なる観念であるいのち、謂わばエロースの穢れを背負って居ないいのちなどこの世には存在しないのである。

要するに我々は父と母の肉の交わりから此の世に生まれ出て居る何らかの不純な者、なのである。


そして
寂聴さんもまた実に生臭い方だ。

其れは出家する前も旺盛に生臭く、出家後もまた存外に生臭いのである。


ただし、
寂聴さんは真の意味で作家となるべく出家されたのだという。

おそらくは其処で女であることを捨て、其処で謂わば子宮思考を超える純粋な作家体験を形作ろうとされたのだろう。


其れでも尚
寂聴さんは生臭い。

元より生命力とはエロースのことであり、寂聴さんは其れを強くお持ちなので万事に生臭いのである。


尚わたくしは生まれつきなのか観念力が強くあり其れでなのか生命力の方が結構弱い。

そうした人間には生命力の強い人が余り快く見えないのである。

あくまで生臭くしか見えないのである。


ただし人間には自分とは正反対のものを求めるといった部分もまたある。

其の意味では生きることに対し貪欲なのは時折だが眩しく感じられることさえもがある。



番組中で寂聴さんが自分のことを「元気という病気です。」と述べられて居たことが印象に残った。


確かに生きるということは病気であり其処に大きな罪、負債を背負うことでもあるのだ。


逆に言えば「不元気という健康」もまたあり得るということなのだ。

たとえば悩んで居るという其の観念は不健康なようで居て実は健全なのである。


なんとなれば、此の世に生きるということ自体が何か不健全なことなのであろうから、其の
不健全なことを生きる時に悩まなくなったら人間もうお仕舞だ。




出家する前に、所謂愛欲の世界にまみれし寂聴さんは、所謂子宮でもってものを書くような作家だった訳である。

然し今「いのち」を執筆されて居る寂聴さんは其の時とは別の清澄な空気を纏われて居るように見える。


其の
清澄さは仏教の僧としてのものではなく、あくまで寂聴さんの作家としての魂から発せられて居る何ものかである筈なのだ。

寂聴さんの法話をTVなどで視聴して何か感じ入るといった部分は正直言って無いのだけれど、作家としての寂聴さんのお話にはひどく説得力があり、小説の執筆を終え机の前で遠くを見つめるようにして居られる寂聴さんの表情が何かとても美しいものにも見えた。


言うまでも無く其の美しさとは
根っから生臭い存在としての寂聴さんの根っからの美しさなのである。

或は腹を据えた作家としての精神の美しさのことだ。


美しく見えるものとは
エロースに封じられしもののことなのであり、まさにあの枯れ木のような修行僧や観念に疲れ果てヒイコラ言いつつ生きて居るような詩人の守備範囲ではないのである。