現代人はストレスを多く抱える生活を強いられており、そのせいなのか兎に角そこで受ける疲労の度がはなはだしい。
ところがこの疲労、放っておくと大きな問題を引き起こすことにもなりかねないのだそうである。
私もつい先日ここ40年来で一番疲れたのではないかと思う様な時があって、そうした時はまともに道を歩くことすらままならない位でおそらくはフラフラとした放心状態のような態でその辺を歩いて来た筈なのである。
そうして歩いて居てどこぞの穴に落ちたりあるいは車に轢かれたりするのは別に構わないと言えば構わないのではあるが、車で人を轢いたり自転車で人にぶつかるのはマズイので矢張り疲れている時は歩いておくに限るのである。
さて最近は医学的、科学的に疲労のメカニズムが解明されつつあり、一体どうやったらその疲労を除くことが出来るのかということが色々と考えられているようである。
が、疲労と言ったって、そんなものは文明力がストレスを過剰に溜めて人間に強いて居る部分が大きいのであって、従ってその余分な疲労の根源の部分とは現代文明社会が自分で自分の首を絞めているような行為そのものなのであろう。
江戸時代かもう少し前位の生活をしていればきっとここまで過剰に疲労が蓄積する筈もなくもう少し楽な筈なのである。
それと、そもそも疲労する、ということは当たり前のことなのである。
人間は動物だからどうしたって疲労するのである。
そこを神の如くに疲労することなく常に目的を完遂させよといったってそんなものはどだい無理な話なのである。
だから神と人間は違うのだし、いつもトップスピードで走れるわけではないのだし時に病気にもなれば疲労もたまる。
そうした社会的には負の部分としての休息サインの部分を現代社会はまともに取りあうことなくこれまで突き進んで来たのではなかろうか。
人間にも社会にも休息サインというものがある筈なのにそこを無視してただひたすらにいつもトップスピードで走り続けているのが現代社会の素の姿なのである。
で、その反自然であるところの現代社会の歩み方に合わせているとどうもそのうちにとんでもないことに巻き込まれてしまいそうな予感がする。
その重要な問題のひとつが環境問題なのであり、あるいは資本主義社会の矛盾の拡大なのであり、その他諸の大問題なのではあるがそういうのは哲学者でもない限り問題解決のための方策を探ることは難しいことだろう。
それでその社会の疲労の部分から個人の疲労へと話を戻すことにしてみよう。
社会の疲労などというと全くつかみどころの無い話ながら、自分の疲労ということになればそれは誰しも実感的にそのクルシさが良く分るものなのである。
たとへば地球の疲労などといわれても全く分らないが、ワタシの疲労というレヴェルの話となれば誰しも実感的にそのクルシさが良く分るものなのである。
たとへば今地球では多くの生物種が絶滅の危機に瀕しており、それがまさに地球の疲労ということなのだがそんなことを言われても我々はただ一個人としてこの文明生活を続けていくだけのことでありそちらの方がよほどに大問題なのである。
ほんたうは絶滅の危機の方こそが本質的な問題なのだがそれはその文明力維持のための諸の遮断システムによって盲目化されてゆく。
ところが我々は必ず疲れる。
疲れることが出来るということは実は幸せなことなのである。
それは自然を自らの内側に持っているということの証である。
なんとなれば、いつも神の如くに目的に突き進むことが人間に出来るのであればそれは人間が動物ではないという証拠なのである。
その証拠が欲しくて欲しくて仕方が無い現代文明はその倒錯の思想を掲げつつ個々人に必要以上の疲労を強いているのである。
だからその余分な疲労を除くことは実はカンタンなことで、その倒錯の思想を掲げ続けることを止めることだけで済む筈である。
人間は神ではなく神の子でもなくただの動物君なのであり、動物君は根が下品だから兎に角良く疲労するのだし病気にもなればウツ状態にも陥る。
だからそれがありのままの人間の姿であるのにそこをしかと見据えることなくつい妄想みたいなことを考えて人間は神の如くになるためにこそ突き進むのだと考えてしまう。
とのことから、私の考えでは現代の本質的な疲労とは現代という時代が人間が動物であるという真の姿を隠蔽して進むそのあり方にこそある。
それがまさに反自然ということで、それは科学万能主義による脱自然を目指すうちにそうした魔境のようなところに入り込んでいくのである。
翻れば個人レヴェルでの体内魔境の方もきっちりと用意されており、それによると疲労の蓄積は生活習慣病と大きく関わっていることがはっきり分って来たそうである。
つまり疲労を溜めたままで頑張り続けているとやがては病気になる可能性が高くいつかはそれでもって死んでしまう。
だが、そんなことは科学者が解明する以前に誰だって分っていることだった筈である。
これはカラダの方がヤバいな、兎に角休もう、と誰でも屡そう感じられるものだ。
その感じられるということこそが大切だ。
感性、直感、第六感、そうした感覚は全体性を把握することに役だっている。
対して現代社会は全体性を把握しようとはしない思想(感性)の持ち主なのである。
全体性の把握は、自然に近しい存在であればあるほどそれがしっかりとしてくる。
今日ワシは疲れた、兎に角休もう、なぜなら休まぬときっとこの心臓か脳がぶち壊れる。
そういうのが直感であり第六感なのである。
科学や医学なんていうのはそれを後から分析的に説明しているだけのことなのであり、無論それらだけで生命の全体性を把握することには繋がらない筈なのである。
結局私が言いたいことはそうした当たり前の実感というものをすべてに対してもっと大事にしておいた方が良いということだけなのである。
実感というものはどうも全体性に関わるであろう認識なのである。
それで、実感として、いまわれはとても疲れておりこのまま現代社会に奉仕し続けるとヤバいと思ったとしてみよう。
無論そんな時は休めるだけ休んでやるだけなのである。
周りからお前はアホだ、バカだ、ナマケモノだと言われようがどうしようがワシの体の中の自然がそう叫んでいるのだからその声に従いワシは 5月一杯は休ませて貰いますよー。
それで良いのだ。
普段はそれでは良く無いが命がかかったらそれも致し方ない。
またその位の根性が無いと世界の全体性などは把握出来ない。
終始部分的にこき使われて現代社会のために殉死させられるのがオチなのである。 2012/04/27
ところがこの疲労、放っておくと大きな問題を引き起こすことにもなりかねないのだそうである。
私もつい先日ここ40年来で一番疲れたのではないかと思う様な時があって、そうした時はまともに道を歩くことすらままならない位でおそらくはフラフラとした放心状態のような態でその辺を歩いて来た筈なのである。
そうして歩いて居てどこぞの穴に落ちたりあるいは車に轢かれたりするのは別に構わないと言えば構わないのではあるが、車で人を轢いたり自転車で人にぶつかるのはマズイので矢張り疲れている時は歩いておくに限るのである。
さて最近は医学的、科学的に疲労のメカニズムが解明されつつあり、一体どうやったらその疲労を除くことが出来るのかということが色々と考えられているようである。
が、疲労と言ったって、そんなものは文明力がストレスを過剰に溜めて人間に強いて居る部分が大きいのであって、従ってその余分な疲労の根源の部分とは現代文明社会が自分で自分の首を絞めているような行為そのものなのであろう。
江戸時代かもう少し前位の生活をしていればきっとここまで過剰に疲労が蓄積する筈もなくもう少し楽な筈なのである。
それと、そもそも疲労する、ということは当たり前のことなのである。
人間は動物だからどうしたって疲労するのである。
そこを神の如くに疲労することなく常に目的を完遂させよといったってそんなものはどだい無理な話なのである。
だから神と人間は違うのだし、いつもトップスピードで走れるわけではないのだし時に病気にもなれば疲労もたまる。
そうした社会的には負の部分としての休息サインの部分を現代社会はまともに取りあうことなくこれまで突き進んで来たのではなかろうか。
人間にも社会にも休息サインというものがある筈なのにそこを無視してただひたすらにいつもトップスピードで走り続けているのが現代社会の素の姿なのである。
で、その反自然であるところの現代社会の歩み方に合わせているとどうもそのうちにとんでもないことに巻き込まれてしまいそうな予感がする。
その重要な問題のひとつが環境問題なのであり、あるいは資本主義社会の矛盾の拡大なのであり、その他諸の大問題なのではあるがそういうのは哲学者でもない限り問題解決のための方策を探ることは難しいことだろう。
それでその社会の疲労の部分から個人の疲労へと話を戻すことにしてみよう。
社会の疲労などというと全くつかみどころの無い話ながら、自分の疲労ということになればそれは誰しも実感的にそのクルシさが良く分るものなのである。
たとへば地球の疲労などといわれても全く分らないが、ワタシの疲労というレヴェルの話となれば誰しも実感的にそのクルシさが良く分るものなのである。
たとへば今地球では多くの生物種が絶滅の危機に瀕しており、それがまさに地球の疲労ということなのだがそんなことを言われても我々はただ一個人としてこの文明生活を続けていくだけのことでありそちらの方がよほどに大問題なのである。
ほんたうは絶滅の危機の方こそが本質的な問題なのだがそれはその文明力維持のための諸の遮断システムによって盲目化されてゆく。
ところが我々は必ず疲れる。
疲れることが出来るということは実は幸せなことなのである。
それは自然を自らの内側に持っているということの証である。
なんとなれば、いつも神の如くに目的に突き進むことが人間に出来るのであればそれは人間が動物ではないという証拠なのである。
その証拠が欲しくて欲しくて仕方が無い現代文明はその倒錯の思想を掲げつつ個々人に必要以上の疲労を強いているのである。
だからその余分な疲労を除くことは実はカンタンなことで、その倒錯の思想を掲げ続けることを止めることだけで済む筈である。
人間は神ではなく神の子でもなくただの動物君なのであり、動物君は根が下品だから兎に角良く疲労するのだし病気にもなればウツ状態にも陥る。
だからそれがありのままの人間の姿であるのにそこをしかと見据えることなくつい妄想みたいなことを考えて人間は神の如くになるためにこそ突き進むのだと考えてしまう。
とのことから、私の考えでは現代の本質的な疲労とは現代という時代が人間が動物であるという真の姿を隠蔽して進むそのあり方にこそある。
それがまさに反自然ということで、それは科学万能主義による脱自然を目指すうちにそうした魔境のようなところに入り込んでいくのである。
翻れば個人レヴェルでの体内魔境の方もきっちりと用意されており、それによると疲労の蓄積は生活習慣病と大きく関わっていることがはっきり分って来たそうである。
つまり疲労を溜めたままで頑張り続けているとやがては病気になる可能性が高くいつかはそれでもって死んでしまう。
だが、そんなことは科学者が解明する以前に誰だって分っていることだった筈である。
これはカラダの方がヤバいな、兎に角休もう、と誰でも屡そう感じられるものだ。
その感じられるということこそが大切だ。
感性、直感、第六感、そうした感覚は全体性を把握することに役だっている。
対して現代社会は全体性を把握しようとはしない思想(感性)の持ち主なのである。
全体性の把握は、自然に近しい存在であればあるほどそれがしっかりとしてくる。
今日ワシは疲れた、兎に角休もう、なぜなら休まぬときっとこの心臓か脳がぶち壊れる。
そういうのが直感であり第六感なのである。
科学や医学なんていうのはそれを後から分析的に説明しているだけのことなのであり、無論それらだけで生命の全体性を把握することには繋がらない筈なのである。
結局私が言いたいことはそうした当たり前の実感というものをすべてに対してもっと大事にしておいた方が良いということだけなのである。
実感というものはどうも全体性に関わるであろう認識なのである。
それで、実感として、いまわれはとても疲れておりこのまま現代社会に奉仕し続けるとヤバいと思ったとしてみよう。
無論そんな時は休めるだけ休んでやるだけなのである。
周りからお前はアホだ、バカだ、ナマケモノだと言われようがどうしようがワシの体の中の自然がそう叫んでいるのだからその声に従いワシは 5月一杯は休ませて貰いますよー。
それで良いのだ。
普段はそれでは良く無いが命がかかったらそれも致し方ない。
またその位の根性が無いと世界の全体性などは把握出来ない。
終始部分的にこき使われて現代社会のために殉死させられるのがオチなのである。 2012/04/27