目覚めよ!

文明批判と心の探求と

目覚めよ!-5

 
 
今世の中は非常に不安かつ見通しの立たない様相を呈して来て居る。

特に我が国の先行きについては全く見通しが立たない。

だから本当はそれこそ藝術どころの騒ぎではない。


それで世の中のことを少しは考えたいのだが、そこで幾ら考えてももはやどうにもならないこともありで、また実際考えれば考えるほど現在の精神的な意味での平穏が減じられるのでむしろ何も考えず藝術のことだけを考えてそこに逃避していたいところなのだがそれだけでは矢張りダメだ。


超訳 ニーチェの言葉 II』白取春彦編訳

ところで今こんな本がベストセラーになっているのだそうだ。

ここでの『超訳 ニーチェの言葉』の方がこれまでに哲学関係の本としては異例の110万部も売れたのだそうだ。

なぜ今、ニーチェに関する本がここまで売れるのだろうか。

それは今誰もが生きる上での不安を感じているからなのだろう。

事実私も不安なのだし、アナタだって不安な筈である。


不安は不安ながら、毎日を生きていかなくてはならないからその不安には蓋をして日々を頑張って来て居る。

結局庶民である我々にはそうした生き方しか出来ないのである。


何にせよ、今は大変な時だ。

何が大変かというと、社会システムをも含めた現代文明の方がもう本当に大変なのである。

だから幾ら金持ちで健康で長生きが出来そうな人でもそこに大きな心配のタネが残ることになる。

そして金が無くて病気がちでいつ死ぬるものか分からんような人にはその心配のタネがダブルパンチでやって来ることになる。

社会的な不安と自分にまつわる不安の両方が襲って来る。


無論後者はその分余計に苦しい訳だが前者の方も結構苦しいのかもしれない。

なぜなら自分の方には心配など何もないというのにいつのまにか社会の方が滅茶苦茶になって仕舞い、その結果結局シアワセな暮らしが出来なくなるのだとしたらそれはかえって余計に苦しいことなのかもしれない。

つまり、現代人は本質的にはみな不安であり苦しい状況に追い込まれている。


ところでかってニーチェはその苦を引き受けろと言って居た筈だ。

苦難を引き受けて苦難や障碍を自分なりに越えていけというようなことを述べていた筈だ。

そしてそのことは現実に即した正しい方向性のように見える。


苦そのものを滅する方向性を持つものが仏教の教えなのだとすると、このニーチェの教えは苦そのものは滅することなく苦に馴染んでいけという考えのように思える。

実際現実的には苦に馴染むほかはない。

この世は理想郷などではなくむしろ苦しみだらけのところである。

そこに産み落とされている我々は苦から逃れようがないのであるから苦に馴染んで生きていくしかない。


そうして苦難にたちむかう人は強くなるのだし自己を変えていくことも出来る。

それは現実的な意味での強く正しい生き方を示していることだ。


だが苦の根本から抹消して仕舞いたい人は出家して坊さんにでもなるしかない。

つまりニーチェの哲学では解脱することは出来ない。

が、ニーチェはかって超人という概念について述べて居る。


ニーチェはその著「ツァラトゥストラはかく語りき」の中で、まず「永劫回帰」という概念につき述べているが、是れはこの世のすべてのものは無意味な無限の繰り返しであり、人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしているというニヒリズムの徹底した形式を言ったもののことである。

しかしながら、「超人」とは、その永劫回帰に耐えつつ、あらゆる運命を必然的なものとして積極的に愛し、現にあるものと違ったものであればよかったなどとは決して思わない運命愛の生き方をする人物のことなのである。

であるから、ニーチェにとって「超人」とは、どのような過酷な運命であってもすべて受け入れて肯定するというたくましい意志を持った人間のことを言うのである。

そこではつまるところ完全な楽天主義のことをいっている。

この実にアホらしい世の中と人生をなんと肯定して生きよとまでいっている。


もっともこの部分を仏教は脱していく訳だ。

無意味な無限の人生の繰り返しのことを肯定も否定もしない。

その丁度真ん中を歩んで、むしろそのことにより人生そのものを脱していくのである。


だから仏教は理想としての究極の人生の生き方を述べたものだが、ニーチェの思想の方は現実としての究極の人生の生き方を述べたものだと思う。

そして俗人にはニーチェの思想の方がより役に立ちそうだ。

なぜなら誰もが坊さんになれる訳ではないのだ。

現代人は食ひとつ、あるいは家ひとつ、あるいは妻子ひとつ捨てられないというのが通例である。


さて、どうも詩人の生き方というのはどちらかといえばニーチェの思想的なものではないかと個人的に思う。

なぜなら詩人にとっては美と美のありかのことが常に大事なのである。

美とは少なくとも人生を受け入れて肯定していないと感じ取れないものなのかもしれない。

解脱者にはもはや美は必要がないような気がしないでもない。


つまりニーチェの思想はどうも詩的である。

あらゆる運命を必然的なものとして積極的に愛するなんて、たとへば病気や貧困のことでさえ詩のネタとしてしまう詩人魂に匹敵するすげえ根性だ。

ところが仏教の方はもっと突き抜けて仕舞っていて、そこではもはや詩も文学もなく法という言葉の極みだけがそこに光っているだけの感がする。


それからニーチェの思想はどうも現実的である。

永劫回帰」だの「超人」だの大言壮語のようなことばかり語っているように見えるが至極現実的で実践的な人生との格闘の方法についても数々を述べて居る。


ただ、ニーチェの考えではいかにも詩人哲学者らしく一般性すなわち大衆性というものをバカにしている部分もある。

そうした大衆のひとりとして流されていくのではなく自分の頭で考え自分で判断して高みへと昇るというようなことも屡語って居る。


現実の人生は常に流されている。

今あり余る程の金があっても、また今幾ら元気でもそのまま安定してその状態が続くことなどありえないのである。

そのことに真に気付いた時にほんとうの苦をひとつ人間は与えられるのだ。


だが、ニーチェはその苦をも受け容れて生を創造し自己超克せよと語って居る。

この部分は至極現実的で今の世相にも即した分かり易い思想の断片である。
 
 
 
 
 
一日一日を始める最良の方法は、

目覚めの際に、今日は少なくとも一人の人間に、

一つの喜びを与えることができないだろうかと、

考えることである。

 


人は、常に前へだけは進めない。

引き潮あり、差し潮がある。

 


人間のみがこの世で苦しんでいるので、

笑いを発明せざる得なかった。

 


悪とは何か。

弱さから生ずるすべてのものである。


善も強ければ、悪にも強いというのが、

いちばん強力な性格である。




高く登ろうと思うなら、

自分の脚を使うことだ。

高いところへは、他人によって運ばれてはならない。

ひとの背中や頭に乗ってはならない。




自分を破壊する一歩手前の負荷が、

自分を強くしてくれる。




あらゆる人間は、いかなる時代におけるのと同じく、

現在でも奴隷と自由人に分かれる。

自分の一日の三分の二を自己のために持っていない者は奴隷である。




あなたにとってもっとも人間的なこと。

それは、誰にも恥ずかしい思いをさせないことである。





ここに挙げたようなニーチェの言葉は、なる程と思わせるものであると同時に強烈な自我意識に貫かれているものでもある。

ところがその自我意識とは所謂近代的な自我意識、近代的な価値観とは少々異なるものであるように見受けられる。


他人を蹴落としてでも前へ前へと進もうとする直線的な近代的自我意識の方向とはそれは異なっているのだ。

それは謂わばポストモダン的な自我意識の持ち方なのである。


それと、ニーチェは根本的に隷属して生きる人間をよしとはしていないのである。

自分で強い意志を持ち、自分の足で高みに登れと言って居る。

そうした類の人々が大勢生じて来るのがそれこそポストモダン的な超人の時代だと考えて居たのだろうか。



いずれにせよニーチェポストモダン的な自我意識を持つ超人の時代の到来により脱近代は成し遂げられ得るとそう考えていたのではなかろうか。


それはようするに理想論のようなもので、ニーチェが哲学者でなければ其れはただの夢想家の詩人の考えだと一蹴されて仕舞いかねない、それこそ夢物語のようなものなのである。


だが、どうもニーチェの言葉は間違っていることを言って居るようには思えない。

特に今のような先の見えない時代となるとニーチェの言葉はそのところどころが心に食い入ってくる部分がある。



名言集及び格言集ーニーチェ
http://www.oyobi.com/maxim01/01_312.html



ニーチェはつまりは孤高の哲人だと言えるがその思想の中には反宗教の立場もありその意味では徹底した自力救済の未来を思い描いた人であった。

そこでは隷属しない超人としてのポストモダン的な自我意識が新しい世の中には是非必要だと考えていたのだろう。

だがその自我意識の持ちようが早すぎて、己を持ちこたえられず結局自らが狂人となって仕舞ったのではなかったか。



が、ニーチェが生きていた頃と今とではまた時代が違う。

ひょっとすれば隷属しない超人としてのポストモダン的な自我意識が真に必要とされているのは今まさにこの時であるのかもしれない。



尚、以下は『超訳 ニーチェの言葉』の著者の白取 春彦氏と、『媚びない人生』の著者のジョン・キム氏との対談の後編だそうである。


打算や思惑のない言葉こそ、伝わる
【(『超訳ニーチェの言葉』)白取春彦×ジョン・キム】(後編)
http://diamond.jp/articles/-/24605


この対談は読んでみると極めて面白い。

『精神的な貴族を目指す』などというニーチェの思想に関する言葉が盛り込まれて居る点等も実に興味深い。

なぜなら、これ、私も是迄に屡言っていたことである。

私の場合日頃から精神上のことに限り自分の頭で考えて何ものにも隷属しない人間になろうとしていることからも元々ニーチェ的な考えの人間であるのだしアナーキストであることなどもニーチェと同じなのである。


ただ、『精神的な貴族を目指す』ことであらゆる権威、しがらみのようなものから完全に自由になるということは実はこれ以上なく怖いことなのでもある。

その時にはまさに自分が真っ暗な真空の宇宙空間を浮遊しているかのような心元なさを感じるものなのである。

そしてその孤独と自己閉塞の回路の切なさの中に精神のバランスを崩して仕舞わないとも限らない。


私が宗教の意義に気付いたのはまさにその時のことだったのであり、さもなくばニーチェのように精神崩壊していた可能性だってあった筈なのである。

神はとうに死に絶え、仏はどこにおわすのかもはや分からぬことだろう現代に於いてもなお宗教への方向性だけはどうしても必要になることに私はそこでハッキリと気付いたのである。


ちなみにこのベストセラーとなった『超訳 ニーチェの言葉』 については様々な批判的な意見も寄せられているそうだ。

確かにニーチェの思想をこうした著者の解釈が含まれた言葉で平易化して仕舞うことには抵抗がある。つまりそこはニーチェの思想が誤解されて仕舞ったりするのではマズい訳である。

でもそんなことを言う前に深く埋もれている筈のニーチェの言葉を発掘してこの不安な時代の読者に提供した白取氏の哲学への熱意は大いに評価出来るのである。

もっとも個人的にはこうした洒落者作家振った哲学者は嫌いなのではありますが。

ただし上での対談にある『打算や思惑のない言葉こそ、伝わる』という部分には全く同感である。
本当は表面的には「打算や思惑のない言葉こそ、伝わらない」のだが本質として伝えなければならない言葉が打算や思惑のないものとなることは必定であり、しかも最終的にはそれだけが伝わるものだと信じたいのである。                                                                                                                       2012/09/22