目覚めよ!

文明批判と心の探求と

自己家畜化されし無痛文明に就いて

 
 
宗教というものは其のように規定なのであるから、人間存在にとって其れは本質的に必要なものだ。

なぜなら人間存在というものはそのままでは根の方が馬鹿ばかりなので望むこと、やりたいと思って居ることがすべからく低級である。


もっとも現代人はそう思っては居ないのかもしれないが、実は我々も其のほとんど全員が其の馬鹿であり低級な人間であることはまず間違いない。

然し我々は一部には高等教育をさえ受けて居り、だからこそ大変に利口つまり理性的で知性に溢れ輝いてさえ居る。

とそのようにいつもそう思って居るのではあるが、其の実は大変感情的にまた非論理的に生きて居り其の根の方は低級そのもの、動物そのものの生き方をして来て居るのだと言えなくもない。



だからそうした自らの低級さの様が見えないのが我々凡夫の心理的な性質ということなのであり、其の事は時代が移り変わって一見人間の頭の中身が高級になったように見えて実はほとんど何も変わって居ないということでもあるのだ。


其の我々が創り出した文明の諸問題というものは、そも其の根の方でほとんど何も見えて居ないのであろうからー真理領域のことがー元々自己矛盾性を孕んだお粗末で厄介なものとなって仕舞うこと必定である。



個人的に、以上の如き自己批判力、内省力を持った上で基本的に人間存在は生きていくべきだと常常そう思って来て居るのである。

ところが実際にはあくまでそうはなって居らず人間存在は今皆自らの行いが悪いことをして来て居るだなどとは全く思って居ない状態にある。


悪いどころか、いや悪いも何も、我々庶民は日々を生き抜くことに懸命でそれどころではないのである。

無論のこと我我は毎日飯を食っていかねばならず、その上に何かと金もかかるので兎に角稼いでおかなければならず、それに加えて子供の世話や親の介護がまた実に大変で、そんな理念、観念領域の話などは実際どうでもよろしいのであって、それも人よりも少しは豊かであれば欲しいモノもすぐに手に入り、また海外一周の旅行なども其処で出来る訳で、そんな身分に是非なりたいなどと強く願いつつ日々を生きて居る。

だから我々はそうした現代社会の用意した価値観の檻のようなものの中で家畜として飼われて居る一種の人間奴隷のようなものなのである。

謂わばそうした近代生活教の信者が其の我々なのである。


そうした様を大阪大学
村岡正博教授は「自己家畜化」の過程であると述べて居られるが其の考えに私は基本的に賛成である。

あのニーチェが語ったように、宗教という精神の大枠の本質的な意義を見失いつつある現代人に対して其の
「自己家畜化」の過程が引き起こされて来て居るのであり、其の様こそがニーチェの語った言葉で云う畜群という人間性が疎外された概念のことなのである。

対して畜群ではない生活を目指す為には、其処に是非とも内省力、自己批判力が必要なこととなって来る。


然しながら、皆同じ様な檻ー近代的な制度ーの中に閉じ込められて、かつ皆同じ様な価値観でもって同じ様な夢ーつまりは小金持ちになりたいということーの実現を目指して行動して居る現代人にはなかなかそうした

自己批判力を持つことが出来ない。

そりゃ、同じように家畜の舎の中で育てられて居るのだから、同じように皆家畜としての価値の夢を追い求めて生きて居るのに過ぎないのさ。

その様を外側から見つめられるのはこうした学者や知識人、或は藝術家や宗教家に限られて来て仕舞うのである。


ちなみに自然科学者は脳天気な頭の構造になって居る人が多く、ゆえに
内省力や自己批判力といったものを彼等のうちに求めることは少々お門違いということにもなることだろう。


ところで世に動物園というものがあり、其処へ行くと様々な動物が見られるが彼等は一様に人工的な環境の中に囲い込まれて居て其処に本質的には自由が認められて居ないのであるが、どうも私は最近この人工ドレイのショービジネスの世界のようなものが、本当の本当は我々自身にも与えられつつあるのではないかといった懸念が日増しに大きくなって来て居るのである。

つまり我我は近代的な価値に染め上げられし人工的楽園幻想の中に閉じ込められて居り、其処で其の人間性までもが奴隷化、家畜化され見世物のようにさえなって居る。

いや、勿論人類はそんな見世物になることなど寸毫も望んで居らず、逆に自分の方だけが偉い存在でありドンドン面白い見世物を見て居たいという実際そんなものなのではあろうが、ところがいつしか自分達自身が奴隷化され見世物化され、または商業化され脱精神化され骨抜きにされ、其れでもってそんな情けない様に気付くことも出来ずにただ見られ、商品にされ、獣舎の中で洗脳されるままに流されていく。


さらに
村岡正博教授は「無痛文明」という概念を提示され其れが現代文明の根本的な病理を示すものであると語られて居る。


私の場合は学者でもなんでもなく、それこそ元塾の社会科の先生で今はタダのサラリーマンであり自称詩人であるというだけなのであるから、半年位前だったかにとある掲示板で現代文明は今病んでいる、などと盛んに書いて居たこと自体が物凄く心細い気持ちで其れを行なって居た事であった。

でも其の時に昔からお世話になって居たとある大学の先生が矢張り私も現代社会は今病んでいると思うとそう書き込んで下さったのである。

確かに自称ではあっても詩人として此の世に立って居るのであれば、そんなことを述べる位のことで怖がって居ては全くいけないことなのではあったが、それでも世の趨勢とは逆のことを述べるということは矢張り大変なエネルギーを要し大変心細くて辛いことでもあるのだ。


それでも学者の方々はこうして批判力、内省の力、自己批判能力を失って居ないのである。

良く言われるが如くに学者は世間知らずで了見が狭く常識に欠ける部分も無いでは無いが其のように真実や真相を見極めていこうとする知力の方は常に純粋なものを持って居られるものだと私は思う。



尚この「無痛文明」という概念に近い内容のこともこれまでに私は様々に掲示板の方で書いて来て居たのである。

現代の価値観とは一体何であろうかということにつき考えることが私には屡有り、其の折にまず典型的に考えられるのが現代とは自分自身を家畜化して人口楽園に閉じ込めて居るということと同時に、其処でなるべく快適に其のドレイ生活を送りたいとそう何よりも願って来たということなのである。

つまり、根本の方の奴隷化、精神の方の奴隷化については逆に不感症になって仕舞って居るのに、こと暑さ寒さ、快不快、といった一種原始的かつ動物的な身体感覚の領域に於いては実は至極敏感になって来て居り、つまりちょっとした不快や不衛生といったことには現代人はもはや我慢がならないようなそんな状態になって来て居るのである。


要するに大事な方のこと、根本の領域の方の危うさには気付くことがなく、それこそ昔ならばどうでも良かったような感覚的な側面にばかり気を遣い惑わされて来て居るのである。

この現代社会に於ける我我自身の白痴化振り、或は倒錯振り、価値の逆転現象、などにつき今私は屡考え及んで来て居る。


村岡正博教授が言われる様に、苦痛を避け、快適さを追い求め、人工環境で家畜のように生存する人間という視点から見えてくる世界こそがまず現代文明に於ける病理を描き出すという点に於いて重要なのである。

ちなみに苦痛を避けて生きるということは至極当たり前のことのように見えて実は当たり前のことではないのである。


なぜなら本来人間の生には快適さだけではなく苦痛の方も色々と備えられて居た筈なのである。

特に近代以前の世界観に於いては其れは顕著に存在して居たことだったろう。


其れが、近代に至って以後はまさに
「無痛文明」の方へと舵が切られることとなる。

然し其処で良く考えてみればすぐに分かることながら、生きるということはそも其処で自分にとってはより望ましいだろう快の方の感覚のみを追い求めて行くことであってはならないのである。


そうした野放しの欲望に規制をかけて居たのが宗教や道徳による精神の規定の世界なのであり、或は封建的な共同体に於ける諸の縛りであった訳である。

そういうのを取り払って仕舞った近代以降の人間の精神は限りなく自由にはなっていったが、反面限りなく不安で限りなく孤独な状況へと自らを追い込んでいったのである。


ところで人間存在の感ずる苦痛には二種有り、其れは精神に於ける観念領域での苦と肉体つまり即物領域での苦痛ということとなる。

宗教は前者に於ける苦痛を取り除く為に人類が考案せざるを得なかったものであり、対する肉体の苦痛は近代以降の人類の科学上の発明により成し遂げられたものなのである。

もっとも両方共まだ完全に取り除けては居ない訳で、現在は主に肉体の苦痛をいかに完全に取り除くかという部分に焦点を合わせて諸の努力が積み重ねられて来て居る筈だ。


ところが精神に於ける苦はむしろ前近代に於ける苦のあり方よりもより深まりまた錯綜し複雑化して居るようにも感じられるのである。

ということは、いずれにせよどこかバランスが悪いのではなかろうか。

精神に於ける苦の解消をどこかないがしろにした形で歩み続けていく現代社会に於ける苦の配分のバランスはどうも崩されて来て居るようだ。


のみならず、其れ以前のこととして肉体の苦痛を取り去ってしまえば人類は皆幸福となれる、或は経済的に小金持ちになったなら
人類は皆幸福となれる、などというまさに唯物論的に流された考え方に対しては疑問を呈さざるを得ないのである。


だから「無痛」だから幸せなのではなく、またたとえば宗教のような精神的に厄介で面倒なことに縁しないようにして生活して居るということも幸せなのではない。

本質的には精神の苦楽はセットで存して居り、また肉体の苦楽も本来ならばセットで存しているべきものなのである。


だからそうした一種の一方通行性と云うか、はたまた自己中心的に人間存在にとっての楽ばかりを無限に追求していく様というか、そうした部分が何か物凄くアンバランスかつ奇矯なものとして前々から私には感ぜられて来て居る。