目覚めよ!

文明批判と心の探求と

理研 笹井 芳樹氏の自殺に思う

 


理研の笹井氏は大変優秀な研究者で再生医療にお ける日本最高の研究者の一人であったとされて居る。
其の優秀な自然科学者の一人が何故死を選ばなければならなかったのだろうか。

思うに死を選ぶということは、其れは内面の否定であり同時に外面の否定でもあることなのである。
おそらく厳密には此の両者の面を否定していかない限り自殺という行為は完遂出来ないものではないかと観念的にはそう考えられるのではあるが、現実には人間は感情生物でもあり得る訳でそんな小難しいことを考えて居たりはせずにただ辛いから死ぬ、苦しいからこの世から逃 れたい、という其の一心から決行されて仕舞うものなのだろう。

然し観念的にはあくまでそういう風に捉えられるものであるから、むしろ其のように論理的、哲学的に死を概念として規定して置いた方が安易に死を選ぶことが少なくなりある意味其れが抑止力となることだろう。

感情的にはもう今すぐにでも死んで仕舞いたいと思って居るのだとしても、概念的な部分、観念領域のことがまだ働いて居るのだとすれ ば、其処で少し考えるだけで自ら死を選ぶことを回避出来る筈だ。
何故なら観念的に内面と外面のどちらも否定して仕舞いたいという心理をした人間が存在して居るだろう可能性はかなりに低くなること だろう。

普通人は私は自分の内面は好きだがー認められるがー他人としてのアイツの腐った根性が嫌いなのだ、とか、矢張り自分の心は好きだが社会の心性の方が悪くて大変気分が悪い、というように自分自身の心を否定するところまではなかなか至れないものなのである。

また其の逆もあり得ないことではないのかもしれない。
其処では外側は正しく良いものであり、自らの内側は全くダメなものだと思い込んで居るのかもしれない。

特に現代人の場合は自我意識がより大きくはっきりして来て居る手前、そうして自分を頑なに信じ込んで居る様は決して悪いことではなかろうと個人的に私は考えて来て居るのである。
其れは自分を信じ込んでいなければ明日という日を生きてゆくことさえままならぬのが現代という厳しい時代の掟のようにも見受けられるからなのである。

勿論真理の領域に於いては、近代的自我というものは幻想に過ぎないものなのであり、従って其のような幻想に与して生きていくほかはない我我庶民は近代的自我に飼い慣らされた家畜、畜群として其の幻想の枠組みの中をただ流されて行くばかりなのである。
然し近代的な自我というものは結構自殺の予防策として役に立つ部分もあるのかもしれないなと今はそう思う。

最終的に自分を捨てることがなくばたとえ乞食になったとしても人は生きていけるのではないだろうか。
いや、其れは物質的な側面の話では無く観念的、精神的な領域での自殺の予防の話をして居るのである。

自殺は何より自己否定欲の成就に繋がるから本当はそれも欲望の否定ではなくマイナスの欲望の肯定のことであるにほかならない。

其れで其のようなプロセスでもってこの世から逃れていったにせよ、欲望を滅したことにはならず従って死した者の心が死後に聖なる心の段階へ至るということでは決して無い。

だから結局損なのである。
何が損かというと、真理への探求のプロセスを自らの手で断ち切って仕舞うという意味に於ける損なのである。

死んだら終わりでもはや女にも触れないのだし美味いものも食えずでまたウンコやオシッコももう出ない。
然しそういうのを損だとは、観念領域の方ではそう考えない。
あくまで真理への道が閉ざされて仕舞うという意味での観念的な断絶を自ら選んで仕舞う事が死のマイナス面でのことなのである。

だから笹井氏も結局は其の真理への道を自ら閉ざしたという点に於いて其れは明らかなマイナスであり悲劇であったことだろう。

 

尚現代科学に於ける真理ということと、宗教や思想に於ける真理という概念には本質的な違いがあることを此処で考えておかねばなるまい。
現代科学に於ける真理とは、基本的に倫理観や道義心などとは関係の無いところで展開されるだろう物的な関係性、物理的な法則性により規定されし唯物論のことなのであるし、宗教に於ける真理とはそうした唯物的な流れとは一線を画した精神世界の流れのうちから汲み取られた精神性のことなのである。

従って現代科学、特に自然科学には基本的に心が無く科学的な成果が其処に認められるのであれば其れでよしとされるのであるが、宗教に於ける真理とはそのような即物的、無機的な成果のようなものとは全く異なりむしろ精神の領域の方から発せられていく普遍的真実のことなのである。
だから宗教とは其のように精神界、つまりは心のあり方の方をまず問題とすることだろう、何より其れをまず第一義的に捉えなければならない分野のことなのである。

其れが我我大衆は戦後民主主義の世に於いて宗教を正しく学ぶことなく大人になり其の精神の大世界のことに関しては全くの無知だったのである。
其れで庶民の多くは科学技術には大きな価値があり宗教はインチキで怖くて何されるものか分からないなどと思い込んで居る始末なのだが、サテ、今回のようなこの結末を我我はどう捉えて置いたら良いのであろうか。

私が前々から語って来て居る様に科学技術ないしは科学技術による人類の発展などということにはさして大きな価値があるということではない。
現在の文明にとって、或は人類の前途にとって最も必要なこととは内面の充実のことであり其れは精神の世界というより大きな非即物的な世界に与することでしか得られないものなのである。

細胞を、其の神が与えし完璧な秩序にあえて挑み人知による改変、組み換えを行うこと、其の諸々の欲望のうちでも最も抑制に欠けた生命に対する冒涜、倫理観の欠如に対して我我庶民は何故こんなに平気な顔をして其の大罪を見逃して来て居るのだろうか。
勿論誰が悪いという段になれば科学者個人が悪いわけでもなく近代科学という一見人類の生み出した叡智の結集の場のように見えるが実はドロドロの欲得感情で動く世界、確かに中には客観的な真理を追求する真摯な研究者も大勢居られることかと思われるが、そうした理念的な世界とは別に存在する有象無象の世界、金と名誉と保身の為にだけ動いて居ることだろう世界こそが其の我々が信奉して来たところでの科学技術の世界の実態なのである。


尚、死ということは個として別に選んでも構わないことなのである。
どういうことかと云うと、例えば原始仏教では必ずしも自殺することをすべて否定して居た訳ではなかったということなのである。

ただし其れは先に述べたような真理に対する可能性を閉ざすという意味に於いて大きな損失なのではある。
だが当初の仏教に於いては自殺の全部をダメだと云って居た訳ではなかったのである。

今日のように自殺が全部ダメだと云う事になったのは宗教にこの世をより良く生かす教えという側面が強調されていった後代に於いておそらくそうなっていったのではないだろうか。
然しあくまでやむを得ない場合には釈尊自身が門下の自殺者を認め丁重に葬ってやるようにという具体的な指示さえ出されて居たのである。

多くの宗教では自殺を禁じて居るものが多い中で、初期の仏教では逆に生に執着することが甚だしい場合のことを最も非難し、また其の逆に生に執着することが無い行為については自殺をも含めてそれほど非難したりはして居ないのである。
左様、仏教では生きたいと強く願い諸々の生の場面に精力的であることこそが逆にいけないこととなるのである。
だから本当の仏教では女に触るのもダメ、此の世に子供を残すのはさらにダメ、飲酒を含めた暴飲暴食も勿論ダメ、金を沢山稼ぐのも当然にダメ、物に多く囲まれてニンマリとして居ることなども無論のことダメ、まあ我我の常識からすれば現代の常識として形作られる行動のほとんど全部がダメということとなる。

此の点からも分かる様に、現代社会に於ける我我の常識というものは案外いい加減なものなので其処を個々人のレヴェルで良く吟味、精査した上で誤りを是非正して置かなくてはならない。

尚個人的に理研の笹井氏の自殺はやむを得ない部分もあったのではないかと感じて居る。
彼は自然科学の増長振り、脳天気振り、心無き様の部分にむしろ殺されていったのではなかったろうか。

本当に頭の良い人は不器用でもあり、また誤魔化しも効かず、すべてに一途で理念、理想に生きて居ることが多い。
彼は確かに打たれ弱かったと言えるのだけれど、これまで本当に頑張って科学者としてのエリート人生を歩んで来たのだ。

ゆえにどうも仏法の上からも彼の自殺は非難されるべきものではないような気がしてならない。