目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

七つの大罪

 
Wikipedia-七つの大罪
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%BD%AA

所謂キリスト教で云うところの罪という概念につき屡考察を進めて来て居るここ数年来の私である。

私がキリスト教に興味があるのだとすれば、まさに此の罪という概念が其処に何かしら真実を含んだものではないかと思われるのでそうして来て居るまでのことなのである。



さて、罪という概念であるが、此れは一種複雑な問題を孕む概念のことで門外漢の私には正直なかなか理解が及ばないというところもある。

だが、罪という概念自体で人間存在を括っていこうという宗教的な試みには私個人として共感出来る部分も多い。


元々仏教にも無明という概念があり、人間は生まれながらにして其の心性の方が汚れて居て世の諸々が明らかに見えて居ないとそう教えられるのである。

とは言っても、現代日本では戦後民主主義に於いて宗教教育が否定されて来たという経緯があり、また仏教も形式化、儀式化された真の意味での仏教とかけ離れたものであるに過ぎないのであるから、そんなことは此処で初めて聞きました、などと思われて居る方々も居られるのかもしれない。


要するに現代人は宗教に関しては無知で、しかも無知どころか逆に何か悪いものであるかのように思い込んで居る始末なのである。

現代では宗教絡みのテロや紛争なども屡起きて来て居るので其れが至極鬱陶しいもののように我々には捉えられて来て仕舞うのである。


然し、本当の本当は宗教自体が問題なのではなく、其のように宗教が何か悪いものでもあるかのように感じられて仕舞う時代に至って仕舞ったこと自体がむしろ一番ヤバいことなのである。

しかも其のヤバさを、精神の上での不感症に陥りつつある現代社会の大衆は自覚することが出来ない。


勿論宗教を熱心にやって居られる方々は私の周りにも常に居られる。

そうした方々は確かに真面目な人々も多く、あくまで一般的には物事の捉え方の方も真剣である。


そうかと云って其の真剣さ、真摯さが様々な宗教上の対立を引き起こすことにもなりかねない訳でそうした部分が大衆的見地からすれば不必要であるということにもなろうかと思う。


然しながら、それでも私は訴えたい。

宗教を生活から遠退けて生きて居る現代人ほどキケンなものは実は無い。


むしろそちらの方こそが最も危険な精神の上での状態なのである。

なんとなれば現代社会の奉ずる人類の物質的な進歩や経済的な成功は本当の本当に大事な価値なのではない。


其処に浸り切って仕舞うからこそむしろ本当のもの、真の豊かさが見えて来ないのだ。

また其の事は、現代人がたとえば死という本源的な価値の発現を自らに得た時におそらくはすべてが分かって来ることなのであろう。


然し、凡人は哀しいかな、生きて居るうちには其の真の様が全く見えて来ないものなのである。


もっとも私も其の哀しい凡人ながら、其処でさらに哀しいかな、色々と考えるところが多い精神の性質なので物事をあっちから見たりこっちから見たりということだけは生きながらにして出来て居るのかもしれない。




四世紀、八つの「枢要罪」ー「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢


カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』日本語版(2010年)

日本語 ラテン語 英語[4]
傲慢superbiapride
物欲(貪欲)avaritiaavarice
ねたみ(嫉妬)invidiaenvy
憤怒irawrath
貪食gulagluttony
色欲(肉欲)luxurialust
怠惰pigritia seu acediasloth or acedia



1925年10月22日 「七つの社会的罪」(Seven Social Sins)  マハトマ・ガンディー
  • 理念なき政治 (Politics without Principle)
  • 労働なき富 (Wealth without Work)
  • 良心なき快楽 (Pleasure without Conscience)
  • 人格なき学識 (Knowledge without Character)
  • 道徳なき商業 (Commerce without Morality)
  • 人間性なき科学 (Science without Humanity)
  • 献身なき信仰 (Worship without Sacrifice)

2008年3月、ローマ教皇庁 ー遺伝子改造人体実験環境汚染・社会的不公正・貧困・過度な裕福さ・麻薬中毒

以上、Wikipedia-七つの大罪より抜粋して引用



さて、いずれにせよ罪ということは此の世に在ると考えて置いた方がより良いであろう気が私はして居る。

そして宗教というものは其の罪の内容を大枠で規定していくものである。

ただし、其れは其の罪の内容を文学的、哲学的に捉え直していくものではないのである。


ゆえに宗教とは其のようなあくまで具体的、現実的な価値ではなかろうかと私は捉えて居る。

其の点では宗教は藝術とは一種対立する世界のことで、其の本質とは精神の規定なのである。


藝術は其のような規範の存在の縛りからの、精神の不自由さからの脱出をむしろはかっていくものであろうが、あくまで宗教はそうした創造的な自由な価値に重きを置くのではなくして、縛りとしての大元での精神の規定に終始する。

宗教は其のように一種不自由なものだが、其の限定性の中にこそ良い部分があるものなのである。


だから本当は何でも自由というのではダメなんである。

何故なら人間存在は本質的に限定されし存在で、其の本質的諸価値の顕現はやがては必ず自分の身にふりかかって来る。


人間は誰しも其の限定性から逃れようとしても何処にも逃げられないのである。

そういうのが人間存在の本質的問題である。

其の本質的な問題につき考え、かつ語るのが宗教の根本の意義なのである。


さて、上にも挙げられている貪食、色欲、物欲、などということは現代人の典型的な生きる上での価値の体現なのであります。

全く何でこんな低級な方の欲の成就の為に我々は振り回されて居なければならないのでしょうか。



よしんば其れ等の欲を捨てたにせよ、たとえば「憂鬱」とか「憤怒」とか「怠惰」とか「傲慢」というものにこの私の場合などは特に引っかかって来て居るようです。

つまり現代人はどんな性質の人でも宗教の提示するところでの根本の罪のようなものに必ずや抵触して仕舞うものなのである。


ならばどのように自分を治す、つまり自己を整えて諸の欲を抑え込んでいけるのであろうか。

いや、そりゃ、ま、無理なことでしょうな。


現代社会とは貪食、色欲、物欲の三毒欲でもってむしろ円滑に回されて来て居るであろう世界なのですぜ。



あのマハトマ・ガンディーの思想東洋の叡智の体現であると考えられなくもない訳です。

ガンディー仏教徒ではなくジャイナ教徒であったが、印度の宗教ないしは思想には共通項が多々有り根は同じものと考えることも出来る。


其のガンディーがかって規定したところでの「七つの社会的罪」を見てみたところまさにビックリだ。

其処で曰く、理念なき政治、労働なき富 、良心なき快楽、人格なき学識、道徳なき商業、人間性なき科学、献身なき信仰 、とある。


最後の献身なき信仰という部分は一応除外しておくとして、他の6つは現代社会が今まさに犯しつつある罪の克明な描写であると言っても良いことだろう。



さらに2008年3月にローマ教皇庁が発表したとされる以下の罪についても同じようにビックリした。

遺伝子改造人体実験環境汚染・社会的不公正・貧困・過度な裕福さ・麻薬中毒


無論のこと是等も現代社会が今まさに犯しつつある罪の克明な描写であるということは間違いないことだろう。


だから遺伝子を勝手に弄ることは罪、環境を汚したり軽視したりすることも罪、一方で過度に金持ちで他方には貧困を生んで居るようなことも罪、脱法ハーブを吸ってラリって居ることなどは勿論罪、こんな風に貴方も私も皆罪の中、現代人は勝手に罪の激流のただ中を流されていきます。

罪の自覚も無く、ドロドロの欲の海の中に浸り続け、気付いてみたらもはやボロボロだ。

さて一体何がボロボロなのでしょうか。


其れは我々の精神こそがもうボロボロなのですよ。

カトリックだって、仏教だって、こんな風に其の人間の罪のあり方こそを問題として捉えて来て居る訳でしょう。

だから其処ではもはや何教や何派だという問題ではないのだ。


すでに現代社会の罪に対する自覚自体が失われて来て居るのである。

其の様を正確に見通し、批判するのが文学の役割であり、其の誤った様を正し精神を大元で規定していくことこそが宗教の役割であると私は述べて来て居るのである。