目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

九相図


名古屋市博物館 特別展 福岡市博物館所蔵 幽霊妖怪画大全集
http://yurei-yokai-nagoya.com/

名古屋市博物館 特別展 福岡市博物館所蔵 幽霊妖怪画大全集ー展覧会概要
http://yurei-yokai-nagoya.com/outline/


さて本日私はこのような催しを観て参りました。
この催しは13日の日曜日まで行われて居ります。


其処で色々と幽霊、妖怪の類の画を観て、何を思ったかと言うとむしろ其処に人間らしさのようなものを感じました。
幽霊や妖怪の存在、或は其の非存在について見たり感じたり考えたりすることは一種非常に人間的なことです。


だから幽霊や妖怪の画を見て怖がって居る必要などはどこにも無い訳です。
其処には生きて居る側である人間の心理なども多分に投影されて居るのですから本当は全然怖いものでは無い訳です。


然し、本当の本当に怖い画もまた其処で観て来ました。
其れは九相図と呼ばれるもので、これが二点展示されて居ましたので食い入るようにして確りと観て参りました。


Wikipedia-九相図 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E7%9B%B8%E5%9B%B3


何故、わざわざそんな汚れた死体を最後まで克明に観察し、また其の様を描いておく必要があるのだろうか。


  1. 脹相(ちょうそう) - 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。
  2. 壊相(えそう) - 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。
  3. 血塗相(けちずそう) - 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。
  4. 膿爛相(のうらんそう) - 死体自体が腐敗により溶解する。
  5. 青瘀相(しょうおそう) - 死体が青黒くなる。
  6. 噉相(たんそう) - 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。
  7. 散相(さんそう) - 以上の結果、死体の部位が散乱する。
  8. 骨相(こつそう) - 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。
  9. 焼相(しょうそう) - 骨が焼かれ灰だけになる。  ー上記より引用ー

死体の変貌の様子を見て観想することを九相観(九想観)というが、これは修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと知るための修行である。九相観を説く経典は、奈良時代には日本に伝わっていたとされ、これらの絵画は鎌倉時代から江戸時代にかけて製作された。大陸でも、新疆ウイグル自治区アフガニスタンで死屍観想図像が発見されており、中国でも南宋の時代に死屍観想の伝統がみられ、唐代には九相図壁画の存在を示唆する漢詩もある。
仏僧は基本的に男性であるため、九相図に描かれる死体は、彼らの煩悩の対象となる女性(特に美女)であった。題材として用いられた人物には檀林皇后小野小町がいる。檀林皇后は信心深く、実際に自身の遺体を放置させ九相図を描かせたといわれる。ー上記より引用ー

ーとのことである。

まさに其の通りのことで、現世の肉体は不浄なものでありかつ無常なものなのである。
人間の肉体または命は限定的に存在するものであり、ゆえに其れは本質として浄いものではなくまた常住であるべきものでもない。

それならば何故、あらゆるものに拘る必要があるのだろうか。
本質的には其れ等に拘る必要など何処にも無いのである。

我々現代人はまさに其の本質面を見ないことにして居るがゆえに、其の自分の肉体が不浄で無常のものとしてやがては消え去っていくものであることに対して相当に不感症である。
然しこのように情けない死後の自身に起こり得る凄惨な様を見るにつけ、この自身の肉体の持つ本質的な性質にようやく気付くことが出来るのである。

いや、肉体ばかりではなく精神もまた塵芥に帰するのである。
宗教により、または宗派間によっても死後の人間の精神のあり方は様々な解釈がなされて居るのではあるが、ひとまず此処では精神もこの死体の分解の如くに分解されるものと考えておきたい。

よって死は人間を本質的に破壊する作業そのものの過程ということになる。

だからもし肉体や精神に必要以上に拘って居ると実際に死ぬときに苦しい思いをしなくてはならぬことだろう。

ならば拘らない方が良い訳である。ーあくまで仏法の上ではー

実際命ある美しいものを見つめて生きて居る瞬間ほど心が高鳴ることもない。
嫁に貰う綺麗な女、高級な我が物、愛する家族たち、やり甲斐のある仕事、等等。
そうした人生の上での美果に接して居ることほど楽しいことはない。

だがそれらも所詮は幻のようなものなのだ。
現代人が与えられて喜んで居る其の価値の正体は幻想の産物であることがほとんどだ。

そして人間の肉体と精神への最終的な、本質的な価値の顕現がいつかは必ず行われる。

其れがこの九相図のことなのである。

其のようにこの画を正しく観ずれば、人間存在が様々な欲に突き動かされて日々を送って居ること自体が空しく思えて来ることだろう。


ただし欲の否定ではなく、欲の調節であり調教が大事なことであるだけなのである。
特に大きな欲を捨て去ること、これがまずは肝要なことである。
もっとも其の大きな欲とは人間の置かれた社会的な立場によっても異なって来る。

でも私の場合は、自己保存欲と自己否定欲のこの二つを自分にとっての大きな欲の発現だろうとそう見て居るのである。
この二つの欲を抑え込んでいくことこそが、現在を生きる私としての最大にして最終の目標なのである。
 

 
九相観図 http://www2q.biglobe.ne.jp/~kamada/kyusokanzu.htm

第2 膨張の相 http://www2q.biglobe.ne.jp/~kamada/danrin2.htm

第3 血塗の相  http://www2q.biglobe.ne.jp/~kamada/danrin3.htm



獺祭書屋ー九相図人道不浄相図ー六道絵 人道不浄相図
http://dassai.p2.weblife.me/scrap0048.html



盛りなる花のすがたもちりはてて
あはれにみゆる春の夕ぐれ

花もちり春も暮行(くれゆく)木の本(もと)に
命つきぬるいりあひのかね

 
浅からず死なば友にと契りつる
人も稀なる蓬生(よもぎう)のやど

散やすき秋の紅葉の霜枯て
見しにもあらぬ人の色かな
 

皆人(みなびと)の我物がほにおしみにし
その身のはてのなれる姿よ


日にそへてかはるすがたも黛(まゆずみ)も
消て跡なき露の身ぞかし
 

何とげにかりなる色をかざりけん
かヽるべしとは兼てしらずや
 
恨みても甲斐なき物は鳥べ山
まくずが原に捨てらるヽ身を


はかなしや朝夕なでし黒髪も
蓬がもとの塵とこそなれ

おもひきや鳥べの山に捨てられて
犬のあらそふ身なるべしとぞ


鳥べ野にあらそふ犬の声きけば
兼ねてわが身の置きどころなし

 
是を見て身はなき物と思いしれ
なにの情かたれにあるべき
 

かはにこそ男をんなの色もあれ
骨にはかはる人形もなし


かはりつる此の身は野べに朽はてて
残るかばねのなれるすがたよ
 

露の身の消えにし跡を見よやとて
尾花が本に残るかばねよ


吾が思ふ身は皆野辺に朽果てて
蓮が本の塵と成りけり

ー上記より引用ー