目覚めよ!

文明批判と心の探求と

両義的な認識こそが其処に多様性を認めさせ且つ個をして幸福へと導く話

両義的な認識こそが其処に多様性を認めさせ且つ個をして幸福へと導く話

 

 

 

 

旧統一教会系の炭酸飲料「メッコール」は今でも手に入る? 安倍元首相銃撃事件で再び話題 (msn.com)

 

其のメッコールを昔何故だか分からないのだが屡飲んで居た覚えがある。

 

ひろゆき「人生の意義は考えなくていい」断言の訳 富と名声が「不幸を招く」可能性だってある (msn.com)

 

「自信に根拠は必要ない」ー以上よりー

 

さう自信はあくまで自身で決めるものだ。

自信はあくまで自分のもので他人に評価されるやうなものには非ず。

 

 

「自分にとって楽しいことを5個ぐらい見つけて、毎日それをやっていると、満足感があります」ー以上よりー

 

仰るやうに「満足感」を得られるやうな生き方をすることは自己に取り大事なことです。

其れが反社會的な価値で無い限りむしろ目壱杯に樂しいことを追及することこそが生きる上での歓びを得ることに繋がる。

 


『それなのに、その欠けた部分まで「すばらしい」と無条件に思い込んでしまうと、その人が間違ったときにも、指摘することができなくなってしまいます。で、そのままついていけば、自分まで間違った道に進んでしまいますから大変です。やっぱり、誰かを無条件に信じるのは、やめたほうがいいと思います。』ー以上よりー

 

現存在ー人間ーはそも不完全なので信ずるに足るやうなものでは無くよってむしろ信ずるに足るものは神佛以外には無い。

 

 

「この世にある生死のすべてに意味はありません。当然、僕が生まれてきたことに意味はないし、死ぬことにも意味はありません。

だから、人生の価値や意義とか、考えなくてもいいんじゃないでしょうか。

世間に何かの価値を残すこと、人類に貢献することができた人が、生きる幸せを実感していたかというと、そうでもなさそうです。 人類に貢献することと、その人自身の幸せは、まったくの別ものじゃないかと思います。」ー以上よりー

 

人生の価値や意義は仰るやうに本質的には空であり無である。

ところが其れを意味化するのがむしろ現存在の癖なのである。

 

生きる幸せもまた本質的には自分の心がさう定めるものであり人に与えられてさうなるものでは無い。

人類に貢献するかどうかでは無く自分に正直で居られたかどうかの方がどちらかと言えば生きる幸せを實感し易いのだと思う。

 

其の価値を残す残さぬに関わらず自分に正直で居られた人がおそらくは幸せである。

 

 

『だから、価値のありそうな人のことを見て、うらやんだり落ち込んだりしても仕方ないですよね。そもそも自分の生に意味は「ない」と考えて、気楽に生きたほうが、ずっといいんじゃないでしょうか。』ー以上よりー

 

其の価値の有る無しは本質的には世間體が決めるものでは無い。

価値を自己決定して居る人は其の価値を他人と比べたりはしないものだ。

 

他人と比べるから自信も無くまた世の価値観に常に惑わされある意味では心の核が安定しない。

 

また気樂に生きることこそがある意味では現存在の心理としての理想である。

逆に世の為人の為に生きたにせよ其れが自己を抑えてさうする場合にはなかなか幸せにはなれない。

 

 

以上個人的にはほぼ完璧な認識をされて居ると思います。

 


『人生が好転する100の言葉 頑張らずに楽しく生きる』ー以上よりー

 

尚「頑張る」のが良いことだとさう思って居る人が多いことかと思うが其れは其の逆の「頑張らない」方を選んだにせよ其れが「頑張る」ことより劣って居るとは言えないのである。

 

頑張る⇔頑張らない

 

個人的にはどちらを選んでも良いのだと思う。

 

重要なことは常に両義的に価値認識を成り立たせることに努めることだらう。

まさに其れが理性的な努力だと云うことなのだと思われる。

 

 

 

「人間の価値」は何で決まる? オードリー・タンが見つけた人生で「稼ぐこと」よりも大切なこと (msn.com)

 

ー2005年、外見と自己意識を一致させるために、名前を変更するなどの女性への性別移行を始めた[8]。性別移行を開始した後、唐はブログ上において「私の脳は私が女性であると認識しているのに、社会的にはそうでないことが要求されるので、私は長年に亘って現実世界を遮断し、ネット上で生活をしてきました。」と述べている[8]。ー唐鳳 - Wikipediaより

 

個人的には🚺には決してなりたくは無いが我もまた壱面では両性具有的ではある。ー主に感性的な面でー

 

「このことから、学校の成績が良いとか、知的能力が高いということだけが人生の道ではないと気づきました。社会から認められるにはさまざまな方法があるのです。」-以上より-

 

其の知的能力がそも所謂知識と知恵の弐分野とに分かれて居る。

知識⇔知恵

 

其処に相関関係はあるが其れはあくまで別物である。

知識とは情報の集積のことであり知恵とは物事を正しく捉え考える能力のことだ。

 

眞理方面のことはむしろ其の知恵の有無の方にこそ関係が深い。

で、眞の意味で知恵のある人は社會から認められるやうな価値を生きたいなどとはむしろ思わないものだ。

 

先のひろゆき氏などはさうした意味である意味突き抜けた価値観の持ち主だとさうお見受けする。

 

 

『多様性とは、特定のグループの人々を大切にするだけではなく、多くのサービスが常に多様な価値を持っていることです。

振り返ってみると、ドイツでの経験が、「異なる状況にある人々すべてを包み込む」ことに目を開かせてくれたのであり、それが後に「多様性」を学ぶことに繋がったのです。』-以上より-

 

現存在の認識は其の多様な価値に触れることでむしろー外側へ向かいー開かれるのである。

 

同質性や同壱性ばかりを基軸に価値を構築すると必然として違う価値観がまるで認められなくもなる。

でもって其処で自分は「正しい」認識の所有者であるとさう思い込むのだが其の正しさには常に根拠が無く要するに単なる思い込みなのだ。

 

 

「これは、私にとってまったく新しい考えでした。私は漢字文化圏の中で育ちましたので、この文化圏では、教育システム全体が文字での表現に固執しています。まるで、最後に文字にならないものは存在せず、力を費やして学ぶ価値がないかのようです。しかし、タイヤル族の場合はそうではありません。口から耳を通して伝えられていく経験も同様に貴重なものであり、実践的な知恵として伝えられることも多いのです。」-以上より-

 

其のやうに言語以前での知恵と云うものもまた有る訳だ。

其処からしても知恵の有り方は基本的に言語に頼っては居ないのやもしれぬ。

 

例えば禅宗にせよ所謂「不立文字」としての眞理のあり方が常に謳われて居る。

同時に文明世界以前の段階にも勿論そんな知恵の世界は展開して居るのである。

 

よって、

 

知識⇔知恵

の部分で知識ばかりを偏重する必要などは何処にも無い訳だ。

 

 

「つまり、人の経歴や社会的地位は、どれだけの財産を持っているかではなく、何を与え、何を分かち合い、地域のために何を創造し、どれだけ多くの人を世話する能力があり、どれだけ多くの命を養うことができるかで決まるのです。資源を持っている人は、それを自分のために溜め込むのではなく、共有することで、部族内での評価を高めていきます。

 その時から、人の価値は蓄財の多さではなく、その財産をどれだけ人に分け与えたかにあると思うようになりました。」-以上より-

 

 

物質的な溜め込みはむしろ人の取り分を制限しつまりは盗んで居ることと同じである訳だ。

即ち過分な資本の蓄積などはむしろ窃盗と同じことである。

 

でもってコレクターもまた我自身の如くに溜め込む癖があるがあくまで其れは理性を生きんが上でのこやしのやうなものだと個人的には思うのだ。

だが資本の上での溜め込みーよりデカい溜め込みーは必ずや何処かで酷い搾取を生じせしめて居ることだらう。

 

其処からしても資本主義の上でのCEOが沢山金を貯め込んで居るので偉い人だと云うことにはむしろならない訳だ。

また野球やサッカーの有名選手が大きく才能を持つが故に偉いと云うことにもまたならぬのである。

 

 

其れとひろゆき氏流に言えば必ずしも社會的地位に拘る必要などは無い訳だ。

どだい還暦を過ぎれば社會的地位など消え去るものなのだ。

 

社會的地位はあくまで抽象的価値なので有ったりまた無かったりする。

金などもまたさうであるが有ったりまた無かったりする。

 

個人的にはさう云うのを我は決して信用して居ない。

其れと社會的地位とは社會の評価なので其れもまた良かったり悪かったりするものだ。

 

わたくしが述べて居る価値認識とはさうした不安定な価値では無く自分でもって築く堅固な価値即ち本質としての価値であり価値観のことだ。

 

1.価値は自己本位でもって築く

2.揺らぐ社會的評価に左右されぬ實質としての価値認識に生きること

 

其の知恵の世界を標榜して行くと社會的価値に振り回されぬむしろ堅固な価値観が醸成されて来るものだ。

概ね其処では遠くを見据えた上で価値判断を行うこととなり其れ即ち利己的な領域からはむしろ離れて行くものなのだ。

 

要するに其処に於いて初めて「小欲知足」なる精神の次元が仄見えて来ることとなる。

即ち其れこそが己が理性に於いて限定されし壱つの価値観の成就となるのである。

 

逆に申せば限定せずば価値其れ自體の有難味が分からぬこととなるのである。

其の意味では大金持ちは金其れ自體の有難味が分からぬこととなり易いが故にむしろ可哀想である。

 

 

金持ち⇔貧乏人

 

個人的にはどちらを選んでも良いのだと思う。

重要なことは常に両義的に価値認識を成り立たせることに努めることだらう。

まさに其れが理性的な努力だと云うことなのだと思われる。