目覚めよ!

文明批判と心の探求と

絶滅の今ー現實としての敗者を選ぶ者が精神の勝者であり現實としての勝者を選ぶ者が精神の敗者であるー

環境の問題に於ける課題が、人間の社会に対し究極的な課題であることを我我個はすでに気付き始めて居る。

無論のことコロナ禍も集中豪雨も其の環境問題である。

 

環境問題が文明社会にふり掛かると事實上社会は麻痺し挙句には機能不全に陥る。

故に環境問題こそが人間又は文明の本質的意義を問うて居るものなのだ。

 

其の辺りの認識につき現代の大衆は是非気付ひて置くべきなのだらう。

 

 

其れでは早速環境問題につき論じさせて頂きます。

 

 

令和元年版 環境・循環型社会・生物多様性白書(PDF版)

新しひタイプでのテキストはこちらです。

図示などされて居て分かり易く良ひのですがこちらに就ひてはまた後日に論じさせて頂きます。

 

【平成7年版環境白書】 目次

とりあへず今回はこちらをテキストとさせて頂きたひ。

 

 

其のむすびよりまずは全文を引用する。

 

 

むすび

 現代文明に生を受けた私たちは、まさにそのただ中にいるために、その文明が客観的にどのような特徴を持っており、どのような結果につながるのかを改めて自覚することが難しいように思われる。
 地球上の生命の営みは人類の歴史をはるかに越えた時間的スケールがあり、人類の歴史はそれに比べるとごく最近のものにすぎない。しかし、一人の人間の一生から見ればとてつもなく長い時間の中で、これまで多くの文明が生まれ、繁栄・衰退を繰り返しつつ、現代の文明へと人類の歴史が引き継がれてきた。しかしながら、南北問題をその背景に有しつつ近代から現代にかけてこの数世紀の間に、爆発的な人口の増加と経済発展を遂げてきた人類社会は、有史以来初めて、地球的規模での資源や環境の限界が見えつつあるとの共通認識を抱くに至った。かくして私たちは、自らの社会のありかたを改めて自らに問い直すことを迫られたのである。
 もっとも、歴史の中でこれまで多くの文明が盛衰したこと、さらにいえば、これまで多くの生物種の盛衰があったことを考えれば、農耕文明、工業文明を経て大量生産・大量消費・大量廃棄形の社会経済活動や生活様式が定着した今日の文明を、持続可能なものへと変革していくことは必ずしも容易ではないかもしれない。しかしながら、私たちは、地球温暖化の問題などで深刻な影響を受けるような事態に、人類とその文明を委ねることのないよう、真剣な努力を払う責務がある。
 このような問題意識から、今回の報告では、環境と文明との関係を取り上げ、人類の進化や古代の文明などを環境の面から振り返りつつ、現代文明の持つ歴史的な意味合いや問題点を探り、併せて今後の社会のあり方について考えてみた。
 第1章で見たように、人間は地球生態系の中の一生物種としてこの地球上に誕生したが、環境との関係で現在の人間の活動を評価すると、人間は他の生物とは異なった特殊な存在となってきていることが理解される。一方で、古代文明についての考察からは、文明は気候・森林などの環境に依存して存立していたこと、同時に、文明はその回りの環境に種々の負荷を与えてきたこと、そしてある文明は、人間の営みにより生存の基盤である環境を一定限度を越えて損なったことが、その衰退の要因のひとつとなったと見られていることなど、文明と環境とは深い関わりを持ってきたことを学ぶことができる。
 ところで、自然界は、その中での恒常性を保つ仕組みを巧みに備えていると言われている。すなわち、その生命維持装置の中で、何か都合の悪いことが起きても、自動的にそれを打ち消すような逆の作用が働き、全体としてはそのバランスを保つような仕組みである。人の身体の中に最初に見いだされた自然界のこの仕組みは、ホメオスタシスとして知られている。
 ひるがえって現代文明を見ると、省資源・省エネルギーなどの対策により一定の成果はあげてきたものの、環境への負荷の増大を自ら抑制するような社会経済的な仕組みがこれまで充分に組み込まれていたとは言いがたい。事実、人間社会の活動による環境への様々な負荷は、地球的規模で見れば、有史以来、増大の一途をたどった。特に、近代から現代にかけては、地球全体にその活動領域を拡張することでその速度をさらに速めつつ、ついには人類の生存基盤として一体不可分である地球環境に、取り返しのつかない影響を及ぼすおそれを生じさせるに至っている。
 比喩的に言えば、人類が作り上げてきた現代文明は、自然界での約束事である生存・発展の基本的ルールを十分に理解せず、結果として基本的ルールに沿わないまま、これまでゲームを続けてきたようなものだといえよう。その結果、地球環境という人類存続の基盤を損い、ゲームの続行に支障を及ぼすおそれが生じているのである。
 それでは、現代文明が自然界のルールに沿ってこなかった点とはどのようなものであろうか。それは大きく分けると次の2点があげられよう。
 第1の点は、自然界から得たものは自然界が受け取りやすい形で、また、自然界が受け取れる範囲で自然界に返さなければならないということを守らず、いわば自然界の循環を阻害するような行為を拡大させてきたことである。つまり、自然界でうまく循環できない物質、あるいは循環しきれないような量を環境中に滞留させてきたことである。
 第2の点は、自然との共生を適切に図ってこなかったことである。人類は自然の中の一生物種であり、その自然のメカニズムの中には人類がいまだうかがいしれない未知の部分も多い。その中で、人類は近年において爆発的にそのシェアを拡大し続け、その過程において多くの生物種の絶滅がもたらされてきたことである。
 これらの問題が引き起こされてきた要因を経済的な側面から見ると、人間の活動による環境への負荷に伴う社会に生じる費用についての認識が明確ではなく、適切な環境対策が十分に行われてこなかったことから、これらの費用が市場メカニズムの中に適切に織り込まれないまま活動が続けられてきてしまったことがあげられよう。
 これらの問題は、結果として不適切な環境利用を助長し、人類社会の活動自身により、自らの生存の基盤である地球環境が損なわれるおそれがあるとの今日の事態をもたらしたものと考えられる。
 一般に、ルールに沿わない活動により、一時的に大きな利益を得たように見えることがあっても、長い目で見れば、それは決して割のよい行為ではない。現代文明もまさに同じである。そのため、今からでもルールに沿わない活動を改める必要がある。
 もっとも、ことはそう容易ではない。なぜなら、現代の文明は上記のような自然界のルールに沿わない活動を前提にしてその経済社会システムが構築されてきたため、これを改めることは個別の利害関係が絡み、また、景気や経済成長の問題とも密接な関わりを持つからである。そのため、新しい社会経済メカニズムの構築には痛みも伴うのである。つまり、個人的には環境コストを負担したいと思い、また、循環型の生活をし、他の生物との共生を図りたいと思っても、それを受け止める社会的、経済的な仕組みをそれに合ったものとする広範な努力が必要なのである。
 我が国は平成5年に環境基本法を制定し、翌平成6年にこれに基づく環境基本計画を策定した。これは、我が国の社会を環境への負荷の少ない持続的発展が可能なものに変革する意思を内外に示したものであり、自然界の基本的ルールに沿った経済社会システムの構築の出発点となるものである。
 環境基本計画では、「循環を基調とする経済社会システムの実現」、「自然と人間との共生の確保」、「環境保全に関する行動に参加する社会の実現」、「国際的取組の推進」が4つの長期的目標として掲げられた。また、これらの目標の実現に向け、環境利用のコストを価格に織り込むことなどを求めたOECD等の汚染者負担の原則を踏まえ、各種措置の実施費用を汚染者が負担するなど、各主体が責任ある行動をとるとの考え方を基本とし各種施策を進めることとされた。今後は、これらの基本的考え方の下に個別の具体的な対策を一つひとつ作り上げ、実行していくことにより、持続可能な社会のための新しい社会経済メカニズムを形成していくことが求められている。
 特に、世界とのつながりを強めつつ急速な経済発展を遂げ、いまや地球環境への負荷という面でも、また経済的な面でも、国際社会において大きな影響を有するに至った我が国は、自ら率先して持続可能な経済社会を作っていくことはもとより、これまで公害対策等で培った経験や技術の蓄積等も踏まえ、環境と開発の両立に向けた開発途上地域の自助努力を支援することを始め、積極的に世界に貢献していくことが求められている。中でも第2章で見たように、急速な成長を続け、深刻な環境問題も予測されているアジア・太平洋地域における持続可能な社会作りについて、我が国が果たすべき役割は、今後一層高まってこよう。また、第3章で見たように、私達の身の回りの環境についての状況を正しく認識することも重要である。
 現在すでに、国・地方公共団体のみならず、事業者や市民団体など多くの人々が、環境基本計画で掲げられた考え方に沿って様々な環境対策に取り組んでいる。今回の報告の第4章では、社会のあらゆる主体がこのような環境対策を進めていく際に、より一層その効果を高めていく視点を持つことが重要であることを訴えた。これは、地球温暖化を始め今日の環境問題の性格の変化を考えると、今後は時間や人的・予算的な制約の中で、対策の効果を少しでも高め、持続的発展が可能な経済社会の仕組みをできるだけ早く構築していくことが求められているからである。ただし、このような効果を定量的に評価する方法などはいまだ確立しておらず、今後の課題であるが、その際、環境に係る費用や効果の中には、貨幣による評価になじまないものも多くあることは十分認識しておく必要があろう。
 環境基本計画で示された長期的目標は、いわば自然界の基本的ルールに沿った形で人類が持続可能な発展をしていくための道筋を示したものといってもよいであろう。もとより環境と経済がどのようにうまく統合され、また先進国と開発途上国との貧富の差が緩和され、持続可能な社会が形作られていくのか、その全体像は十分に見えているとは言えない。しかし昨年の報告でも見たように、早目の環境投資が環境保全とともに長期的な経済の健全性を支え、21世紀環境と経済との両立を実現する可能性があり、また、国際的にも技術開発の推進やライフスタイルの変革などの具体的方策についての熱心な検討が続けられている。さらに、科学的知見の一層の蓄積に向けた努力もなされている。
 私たち一人ひとりが環境の大切さを深く自覚し、持続可能な経済社会とそのシステム作りに向け、人類がその知恵と創造性を発揮することができれば、発展が環境に種々の負荷を与えることも多かったこれまでの文明とは質的に違う社会の発展が可能となり、豊かで美しい地球文明を築いていくことが可能となるに違いない。
 国、地方公共団体、事業者、市民団体をはじめ、現代に生を受けた私達すべてが、人類の未来に向けて果たすべき役割は大きく、そして重い。ー

 

 

兎に角社会其れ自体が認識を改めねば文明は変はりやうが無ひ。

何故なら現代の大衆はいや大昔から大衆は其の時々の社会システムの言ひなりである。

 

 

 

持続可能な経済社会とは仰るがまさに其れは矛盾なので発展などしなひ社会のあり方を想定すべきではなかったか。

其処でもしも持続可能な社会を築くのであればと云ふことである。

 

ーこのような効果を定量的に評価する方法などはいまだ確立しておらず、今後の課題であるが、その際、環境に係る費用や効果の中には、貨幣による評価になじまないものも多くあることは十分認識しておく必要があろう。ー

貨幣価値とは抽象的なものなのだが環境に関わる価値とはむしろ具象的にこそ存して居る。

 

謂はば環境の価値とは金銭的には還元し得ぬものなのだ。

環境の価値は抽象化など出来ぬと云ふことなのだらう。

 

ところがイザ抽象化の度を大きくした文明の価値観は其れをあくまで数的還元化しやうとするのである。

具象的にある自然界の価値は経済的な尺度では推し量ることなど出来なひ。

 

そもそも問題はまさに文明がかうして価値を抽象化し過ぎて居る部分にこそ存して居るのだ。

持続可能な社会とはむしろ其の数的還元の価値を限定する社会のことだらう。

 

 

「人類がその知恵と創造性を発揮することができれば、発展が環境に種々の負荷を与えることも多かったこれまでの文明とは質的に違う社会の発展が可能となり、豊かで美しい地球文明を築いていくことが可能となるに違いない。」

 

つまるところ文明は質的に転換されねばならぬ訳だ。

だが其の質的に転換された社会発展を築き上げることは非常に難しひ。

 

どだひ社会の価値観ひとつにせよ相変わらず世間は此の三百年程同じ価値観にて回って来て居ります。

尚かって高名なSF作家であるアーサー・C・クラークが『幼年期の終り』と云ふ作品を発表して居るが其のSF小説のやうに最終的には👿との共生により価値観を進化させられた人間が滅亡の淵にある地球を脱し宇宙へと旅立つやうなこととはまるで違ひ人間の価値観は元の侭なのだ。

 

要するに変化すること無く人類は近代的な価値観を維持して来て居る。

だが其の「豊かで美しい地球文明を築いていくこと」を可能とするのはおそらくは近代的な価値観なのでは無ひ。

逆に近代的な価値観を止めた方が「豊かで美しい地球文明を築いていくこと」に繋がると云ふ矛盾と云ふか皮肉が其処には存して居るのだ。

 

脱近代か又は反近代の価値観の構築が文明にはかねてより求められて居た筈であったが近代と云ふ時代の欲望の暴発に阻まれたのか結局其れは明確な形として社会に示された訳では無かった。

脱近代か又は反近代と云ふひとつの大きな質的変化による価値観はむしろ歴史の必然として其処に求められて来て居たにも関はらず。

 

発展と云ふ概念自体が考へてみれば至極拡張的で且つ暴力的ー力の論理によるものーなものであり、其処でむしろほんたうの意味での理性的な概念であるのならば其の発展には寄り掛からぬ価値をこそ創出し得た筈である。

 

 

文明での根本での性格を考へてみた場合には、まさに其れは「変はること無く」人間の価値が維持される価値観でもあった訳である。

自然による様々な意味での限定ー制約ーを逃れて其れは堅固に築き上げられて行った。

 

近代の三百年間により文明は其の限定ー制約ーをこそ放逐して行ったのだと言へやう。

確かに其れは人間による抽象的な望み其のものだったのだらう。

 

だが其の抽象的な高望みこそが具象的反乱による危機を今後招ひて行くことであらう。

 

 

「現代に生を受けた私達すべてが、人類の未来に向けて果たすべき役割は大きく、そして重い。」

けれどもわたくし達全ての役割が大きく責任が重ひのでは無く政府や官僚の責任が重くさうして地球環境保持へ果たすべき役割が大きひのだ。

 

勿論政府や官僚ばかりでは無く科学者や企業経営者等の責任は重くさうして地球環境破壊への罪も大きひ。

つまるところは近現代文明を推進して来た社会の側にこそ大きく責任は存して居り大衆には唯々諾々として其れに従って来ただらう無批判としての精神の罪が其処に問はれるばかりである。

 

 

「持続可能な発展」は文明の現体制としてはほぼ不可能なことである。

「持続可能な発展」とはむしろ此れ迄のやうな近代的価値への執着型からの脱却、抹消にこそありはしなひか。

 

事實として自然の側からは今の文明のあり方が否定されて来て居るのだとも言へやう。

近現代の文明は主に重要な価値を数的還元値にて捉へ其れに基づく+の価値ヒエラルキーを堅固に形成して来た。

 

其の数的還元手法にせよ所謂プラスに偏った概念が今後の世界に於ひて屡否定されて行く可能性が高ひものとわたくしは見て居る。

元より其れはまさに文明の喉元に突き付けられし持続不可能性故にでのことであらう。

 

文明の持続が不可能であり、しかも何も変へられはしなひのであれば必然として其れは滅んで行くより他に選択肢は無ひこととなる。

 

 

「現在すでに、国・地方公共団体のみならず、事業者や市民団体など多くの人々が、環境基本計画で掲げられた考え方に沿って様々な環境対策に取り組んでいる。」

いや其れは確かに何とかせねばならぬとはお思ひなのだらうが事實上如何ともし難ひと云ふのが本音なのではなからうか。

 

ー「循環を基調とする経済社会システムの実現」、「自然と人間との共生の確保」、「環境保全に関する行動に参加する社会の実現」、「国際的取組の推進」が4つの長期的目標ー

 

さうして循環する経済を創出する為には社会其のものの価値観を百八十度転換して行く必要がある。

人間の社会と自然との共生に於ひてもまた然りである。

尚「環境保全に関する行動に参加する社会の実現」を目指すのであれば、まずは社会の経済価値其のものを富の再配分などにより平等化して行くべきであらう。

 

たとへばベーシックインカムを実行に移し労働に於ける価値ヒエラルキーを解体し再構築して行くことこそが望ましひ。

結果的に資本主義は其処に終焉を遂げることであらう。

何故なら格差がより大きく拡がり金と云ふ抽象的な力の論理が罷り通る資本主義の侭では地球環境と人間の活動とのバランスを取ることは至難の技である。

 

 

「なぜなら、現代の文明は上記のような自然界のルールに沿わない活動を前提にしてその経済社会システムが構築されてきたため、これを改めることは個別の利害関係が絡み、また、景気や経済成長の問題とも密接な関わりを持つからである。そのため、新しい社会経済メカニズムの構築には痛みも伴うのである。つまり、個人的には環境コストを負担したいと思い、また、循環型の生活をし、他の生物との共生を図りたいと思っても、それを受け止める社会的、経済的な仕組みをそれに合ったものとする広範な努力が必要なのである。」

 

全く仰る通りです。

 

現代文明とは其れ即ち自然界への反逆でせう。

其の新しひ社会経済システムの構築こそが現代文明にとり喫緊の課題である訳だが、まさに其れは資本主義其れ自体を変革して行かねばならぬことなのではなからうか。

では社会主義の方で行けば良ひのかと云へば社会主義の方も結局欲望に負け市場開放により部分的に資本主義化して来て仕舞って居る。

 

よってたとへ共産党一党独裁であるにせよ市場経済化した社会経済システムである限り話はまるで同じなのである。

 

重要なことはイデオロギーなどによるものでは無く市場経済其のものがおそらくは自然から今否を突き付けられて来て居ると云ふことだ。

生物種の絶滅なども含め地球温暖化も全ては其の物質的欲望の追求の部分にこそ問題が存する訳なのでありしかも其れが具象的に限定されることなくまさに抽象的に肥大化して来たことに対する問題であり罪のあり方なのであらう。

 

物質的欲望の追求はむしろ個の次元にて行はれるべきものなのであり社会的に其れを追求して居ては結局かうした状況を招かざるを得なくなるのではなひか。

 

 

「世界とのつながりを強めつつ急速な経済発展を遂げ、いまや地球環境への負荷という面でも、また経済的な面でも、国際社会において大きな影響を有するに至った我が国は、自ら率先して持続可能な経済社会を作っていくことはもとより、これまで公害対策等で培った経験や技術の蓄積等も踏まえ、環境と開発の両立に向けた開発途上地域の自助努力を支援することを始め、積極的に世界に貢献していくことが求められている。」

 

さうして急速な経済発展を遂げたと云ふことはむしろ👿に心を売ったと云ふことではなかったか?

持続可能な経済社会を築き上げると云ふことは結局其処にて価値観の転換を図ると云ふことなのだが其のことはまず常識的な手法では不可能なことだらうとわたくしは今感じても居る。

 

価値観の転換、其れも堅固に築き上げたところでの資本主義としての価値を転換乃至は修正して行くのはまさに不可能に近ひことなのだらうが個人的には自然の側からの物理的な戒めの力により次第にさう変はって行かざるを得ぬのではなひかとさうも考へ始めて居る。

 

尚上での「国際的取組の推進」に関しては事實上難しひ面が多々あるやうだ。

 

近代化とは普遍化のことでもあり言はば世界中の國々にて近代化が今まさに進められて居る訳だ。

其れはまさに自然界での闘争状態を経済的、軍事的な抽象領域にて其の侭に行ふことなのであり、要するに次元は異なってもして居ることの本質的意義は自然の闘争状態と何も変はらぬ訳である。

 

後進的な國家は無論のこと其処でもってさらなる近代化を推し進めることであらう。

さうした國家間での熾烈なる競争、近代化と云ふ進歩としての鬩ぎ合ひがある限り抑制的な「国際的取組の推進」を一律に課すことには無理があると見て置くべきだ。

 

また国際的な取組は事實上形骸化し易くもあらう。

 

ー比喩的に言えば、人類が作り上げてきた現代文明は、自然界での約束事である生存・発展の基本的ルールを十分に理解せず、結果として基本的ルールに沿わないまま、これまでゲームを続けてきたようなものだといえよう。その結果、地球環境という人類存続の基盤を損い、ゲームの続行に支障を及ぼすおそれが生じているのである。
 それでは、現代文明が自然界のルールに沿ってこなかった点とはどのようなものであろうか。それは大きく分けると次の2点があげられよう。
 第1の点は、自然界から得たものは自然界が受け取りやすい形で、また、自然界が受け取れる範囲で自然界に返さなければならないということを守らず、いわば自然界の循環を阻害するような行為を拡大させてきたことである。つまり、自然界でうまく循環できない物質、あるいは循環しきれないような量を環境中に滞留させてきたことである。
 第2の点は、自然との共生を適切に図ってこなかったことである。人類は自然の中の一生物種であり、その自然のメカニズムの中には人類がいまだうかがいしれない未知の部分も多い。その中で、人類は近年において爆発的にそのシェアを拡大し続け、その過程において多くの生物種の絶滅がもたらされてきたことである。ー

 

文明とは確かに抽象的なゲームのやうなものである。

だが其処で「地球環境という人類存続の基盤を損い、ゲームの続行に支障を及ぼすおそれが生じている」のであればもはや其れは明らかに文明の歩む方向性が犯した誤りであり落ち度である。

 

「自然界の循環を阻害するような行為を拡大させてきた」

「人類は近年において爆発的にそのシェアを拡大し続け、その過程において多くの生物種の絶滅がもたらされてきたこと」

 

しかも其の行為に対する罪の意識を廿世紀に至る迄人間はほとんど持って来なかったのではなかったか。

其の気付きの悪さと云ふか鈍感さと云ふかまさに其処がわたくしにとっての不可解な点でもあった訳だ。

 

 

ーところで、自然界は、その中での恒常性を保つ仕組みを巧みに備えていると言われている。すなわち、その生命維持装置の中で、何か都合の悪いことが起きても、自動的にそれを打ち消すような逆の作用が働き、全体としてはそのバランスを保つような仕組みである。人の身体の中に最初に見いだされた自然界のこの仕組みは、ホメオスタシスとして知られている。
 ひるがえって現代文明を見ると、省資源・省エネルギーなどの対策により一定の成果はあげてきたものの、環境への負荷の増大を自ら抑制するような社会経済的な仕組みがこれまで充分に組み込まれていたとは言いがたい。事実、人間社会の活動による環境への様々な負荷は、地球的規模で見れば、有史以来、増大の一途をたどった。特に、近代から現代にかけては、地球全体にその活動領域を拡張することでその速度をさらに速めつつ、ついには人類の生存基盤として一体不可分である地球環境に、取り返しのつかない影響を及ぼすおそれを生じさせるに至っている。ー

 

其の文明による幾何級数的な消費の爆発、また人口爆発が生じたのは此処弐百年ばかり、いや此の戦後世界でのことなのだ。

其のホメオスタシスが自然界にはあるが人間の社会には何故か其れが無ひ。

何故なら其れは現在人間は人間の脳による願望の内側でしか世界を形作って居なひからなのだ。

 

其の拡張主義、プラス思考、前向きな姿勢其れ自体が實は異常なのだ。

要するに其処には抑制が元より欠けて居る。

 

其の制御とは元来近代思想が齎さねばならぬものであった。

たとへばかのカントのやうな考へ方こそが其れを齎さねばならぬものであった。

 

 

ー歴史の中でこれまで多くの文明が盛衰したこと、さらにいえば、これまで多くの生物種の盛衰があったことを考えれば、農耕文明、工業文明を経て大量生産・大量消費・大量廃棄形の社会経済活動や生活様式が定着した今日の文明を、持続可能なものへと変革していくことは必ずしも容易ではないかもしれない。しかしながら、私たちは、地球温暖化の問題などで深刻な影響を受けるような事態に、人類とその文明を委ねることのないよう、真剣な努力を払う責務がある。ー

 

大量生産・大量消費・大量廃棄形の社会経済活動や生活様式を定着させたことは明らかに人類の為した選択に於けるひとつの誤りだった。

其の限度を外した思想の根本での誤りの責を今後問うて行かねばならぬことだらう。

 

尚本日当地ではまさに豪雨となって居るのだが全く此れは異常な雨の降り方である。

何やら気候が其の根本から狂ったのではなひかと思はれるやうな類の豪雨なのだ。

 

人間はこんな豪雨のさ中に放り出されさてもこれからどうなって行くと云ふのだらうか。

 

ー以上が以前に書ひたもので、以下は今日の感想ー

 

 

根本のところー人間の認識の癖ーを治さねばおそらくは全ての大問題は解決などされやうが無からう。

だけれども、其の人間の認識の癖などと難しひことをイキナリ言はれてもまさにそんなことはチンプンカンプンにて何を言って居るのだか皆目分からない。

 

分からないと悩む人はまだしも優等人間の方で、大方はさうして現代社会に調教され絶滅奉公へと勤しむ阿呆の健全さの持ち主ばかりである。

さてわたくしは生物種の絶滅につきかねてより興味があり其れを三十代の頃より屡夏場に學んで来たものだった。

 

では絶滅とは何であるのか?

 

 

 

新型コロナウイルスによって、私たちの生活は大きく変わった。それだけではない。仕事や学校など「当たり前」に存在していたものの在り方が変わり、「生きる」ことの根底を見直す機会が強制的に訪れてもいる。

「人類も、いつかは絶滅するかもしれない……。」コロナ禍以前は小説や映画の中だけだったこんな不安が、現実味を帯びてきた。
 動物学者の今泉忠明氏は「こんな時代だからこそ、我々は『絶滅』を学ぶべきだ」と語る。「“こども”の本総選挙」では2年連続1位に選ばれ、『ざんねんないきもの事典』や『わけあって絶滅しました。』シリーズの監修をつとめる今泉氏。
 シリーズ80万部を突破した最新作『も~っと わけあって絶滅しました』では、さまざまな生き物の絶滅理由を紹介するとともに、「人間による絶滅がなぜよくないか」「絶滅危惧種はいま、どんな状況にあるのか」といった、絶滅の「今」についても取り上げている。
 絶滅を学ぶと、どのようなことが見えてくるのか。『も~っと わけあって絶滅しました』の内容をもとに、今泉氏に聞いたーー。(取材・構成/加藤 紀子)ー動物学者が「今こそ『絶滅』を学ぶべき」と語る理由より

 

 

其の「絶滅」につきわたくしはもう長く學んで来た。

拾年前まで研究所に勤めて居た頃に、毎年夏場になると其の絶滅のことばかりを學んで居たからだ。

 

とは言へ専門的な話なのでは無ひ。

わたくしの理系の知識はいつも適当なものだ。

文學や哲學のやうに専門的に踏み込むやうなものでは無ひ。

 

でもわたくしは生物学が嫌ひでは無ひ。

生命科学の分野が兎に角好きなのだ。

 

第一考へても見給へ。

 

夏休みはまず山だらう、さうして海だらう。

其れから満天の星と地平線へと沈む太陽だ。

 

渓流のせせらぎや青ひ空と白ひ雲だ。

わたくしはそんな自然こそが大好きなのだ。

 

もはや都会などは御免被りたひ。

こんなコロナ都会はもう御免である。

穢れた権力闘争や理不尽な威張りや酷ひ搾取が横行する都市文明などもう真っ平御免だ。

 

だが生命は何故か絶滅する。

 

其れは其の社会的な人間の問題とはまた別の問題なのだ。

絶滅の問題は結構面倒臭くそれこそ色んな説が入り乱れ出て来頭の中がこんがらがって仕舞ひがちだ。

だから理論からは入らずに図鑑などから入って行くと良ひ。

 

 

地球絶滅恐竜記 (日本語) 大型本 – 1988/6/1

地球 絶滅昆虫記 (日本語) 大型本 – 1988/10/1

 

三十代の中頃から私は此の図鑑を十年余りに亘り愛読して居たものだった。

さうして此の本はかうして今でもアマゾンにて買へる。

 

尤もわたくしの場合は当時丸善の常連客だったが故に丸善にてかうした本を買ひ込んで居た。

 

地球絶滅恐竜記 の方は動物学者の今泉 忠明氏が監修して居られるのだが、近年其の今泉  忠明氏の著作が話題となり絶滅生物のブームまでもが引き起こされて居るものらしひ。

わけあって絶滅しました。 世界一おもしろい絶滅したいきもの図鑑 (日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2018/7/19

 

 

今泉 「今」を知るには、「昔」を知らないといけないからです。

今いる動物のことは、それがどうやって現れてきたかを知らないと理解できないんですよ。

およそ40億年前に地球に初めて生命が生まれて以来、次々と新しい生き物が進化し、同時に多くの古い生き物が滅んでいきました。

絶滅した動物がいたから、今いる動物が存在できている。

進化と絶滅は背中合わせだったのです。

 

 

今、世界中の多くの人々は、自分は生き物を絶滅させようとしている意図はなくても、「まだいるから、ちょっとくらい、いいよね?」という根拠のない考えで、「高く売れるから」「美味しいから」「そこに新しい道路が必要だから」などといった自分たちの都合を優先させています。

その結果、気づかないうちに生き物たちを絶滅させてしまい、「知らなかった」「やめられなかった」という言い訳をします。でも、後悔したところで、絶滅しまった生き物はもうよみがえりません。

今、人間は、地球上のどの生き物より広い地域に住み、最もほかの生き物を滅ぼす生き物になっています。

自然絶滅と人為絶滅とは、同じ絶滅でも全く意味が違うんだってことを子どもたちに見分けられるようになってほしい。

 

 

この地球上で、種というのは「食う・食われる」という関係で、互いにつながっています。地球上に生きている、まだ見つかっていないものも含めてものすごくたくさんの種が、腕を出して隣と手を繋ぎ、地球全体を覆う網をつくっているイメージです。この網目はとても細かく、地球をすっぽりと覆って守ってくれています。こうした状態が、いわゆる生き物の「多様性」と呼ばれるものです。

ところが、種が絶滅すると、そこにぽつんと穴があきます。穴がまだ小さなうちは、近くにいる他の種と手を引っ張りあってなんとか穴を防ごうとしますが、穴が少しずつ大きくなってくると、そこの環境は残念ながらもう手の施しようがない。草もない、ただの荒地になってしまい、生き物が暮らせなくなるからです。

穴が大きくなったほころびをなんとか修復しようと、荒地になったところに一生懸命、木や植物を植えようとしている人たちもいるけれど、自然に復活をまかせたら、途方もない時間がかかります。

つまり、絶滅とは、地球を覆って守ってくれている、ものすごく多様な生き物同士が手を繋ぎ合ってつくっているきめ細やかな網に穴が空いてしまうこと。その穴がどんどん大きくなるにつれて地球は危なくなるんだよ、というイメージで説明すると、子どもでもわかりやすいんじゃないかな。

 

 

このように、「強い」「弱い」は、環境によって大きく変わります。

 

結局のところ、どんな生き物が生き残るかなんて、誰にもわかりません。今まで地球に生まれた生き物は数え切れないくらいたくさんいますが、その99.9%が絶滅しているんだから。

つまり、ほぼ全ての生き物が滅んでいるということなのです。

 

 

はじめにお話ししたように、人間が関わった「人為絶滅」では、次の進化した動物を生み出しません。だから、確かにこの絶滅は、悲しい出来事です。

でも地球のせいで起きる「自然絶滅」は、けして悲しいことばかりではありません。

地球に存在する空気や水、土といった資源には限りがあるので、生き物が無限に増え続けることはできません。

たとえるなら、私たち生き物は、地球全体で椅子取りゲームをしているようなもの。

 

 

ただし、近年の「人為絶滅」の増加によって、科学者たちは生き物がどんどん減っていることに気づいています。人間も生き物の一部なので、生き物が減っていく地球上には、人間も住めなくなってしまうかもしれないーーー科学者たちはそう考えるようになってきています。

愉快な絶滅のおかげで今、私たちはこうして生きていられるけれど、私たち人間の手による悲しい絶滅が今後もっと増えたら、私たち自身も滅ぼしてしまうかもしれない。

 

 

地球上にいる生き物は全て、ほかの生き物と互いに関わり合いながら生きており、生き物たちとそれらが生きる自然環境をあわせて「生態系」といいます。

生態系では、植物や植物プランクトンが太陽光からエネルギーを取り込み、さらに小型の動物から、中型、大型の動物へと「食う・食われる」の関係を通してエネルギーが伝えられます。

生態系の中で、植物や植物プランクトンは第一栄養段階、それを食べる小型の動物は第二栄養段階、さらにそれを食べる動物は第三栄養段階…とされ、栄養段階が高くなるほど数が少なくなることから、こうした生態系の構造はピラミッドに例えられます。

ところが、人間が自分たちの都合のいいように生き物を取ると、このピラミッドのバランスが崩れてしまい、他の生き物にも影響が出ます。

ある特定の生き物が減りすぎたり、あるいはそれによって増えすぎたりすることは、このピラミッドの上下の生き物にも連鎖して起きるので、地球環境に一層の歪みをもたらします。

たった一種類が絶滅することで、たくさんの生き物や、それらを取り巻く環境がガラリと変わってしまうのです。


 

深海にいる未知なウイルスを持ち込むことで他の魚を殺してしまったり、あるいはもし人間がそれを食べたら、新型コロナウイルスのような猛威をふるう可能性もあります。

他にも私たちの身近なところでは、ウナギやラッコ、ホッキョクグマやコアラも絶滅危惧種です。

その数は調べられているだけで3万種以上もいます。

「食う・食われる」の関係で絶妙なバランスを取ってきた生態系が、人間の引き起こす大量の捕獲や地球温暖化などが原因で崩れようとしている今、私たちはいち早く原因を取り除く必要があります。

 

 

 

今泉 僕たち人間は、この地球で一番強くて、なんでもできる!とはけして思わないでもらいたいですね。

人間は地球には勝てない、ってことをわかってほしいんです。

 

僕らが、寒さも暑さもしのげるのはエアコンのおかげ。石油や石炭などの化石燃料を使っています。

ところが、それによって温室効果ガスが増えて地球温暖化が進み、自然災害も増えてきています。

さらに、日本では蛇口をひねればきれいな水がいくらでも出てくるけれど、世界では人口がどんどん増え、水が足りなくなってきています。

 

山や森を切り開いて、人間が住む場所を広げていけば、その土地の生き物を滅ぼすだけでなく、新しいウイルスや細菌に感染する危険もあります。

人間は地球を自分たちの住みやすい星に変えてきたけれど、それは他の生き物たちから見たら、地球はとても住みにくい環境に変わってしまい、絶滅の危機に瀕しているものがたくさんいる。そして徐々に人間にとっても、未来永劫、住みやすい星であり続けられるかは危うくなっています。

 

こうして地球を住みづらい星にしないためには、人間ばかりが欲張りすぎないで、程々のところでバランスを取り、他の生き物たちと共存することが大切です。

そのためにも、絶滅についての正しい知識を知り、いろんな生き物たちが絶滅した理由をこの本で勉強して、これからこの地球で、人間も含めた生き物たちが生き残るにはどうしたらいいか、自分には何ができるかを考えてみてほしいな、と思います。ー動物学者が「今こそ『絶滅』を学ぶべき」と語る理由より

 

 

まずは人間其のものや社会に対し疑ひを抱くこと、其れが大事だ。

其れは不平を言ふのでは無く正しく批判するが故になのだ。

 

ところが大衆の場合は此の疑ふ力が常に弱ひと来てる、特に自分の属する社会にはまず疑ひの眼を向けられぬものだ。

が、作家や詩人はむしろ其れが仕事なので其処は實は苦でもなんでも無ひのである。

 

作家や詩人にとり一番堪へることは社会にコキ使はれてじぶんの意見を纏める時間又は書く為の時間が無ひことである。

 

次に作家や詩人も理系のことを學ぶ姿勢を持つことこそが大事だ。

文系の考へ方にもまた癖がありよって其れだけで済むなどとは決めつけぬ方が宜しひことかと存ずる。

 

 

で、理系の學者は兎に角もう地球の未来のことなどはみんなが知って居るのだ。

知らぬは文の佛ばかりなり。

 

かうならぬやうに暇を見つけては理系の御勉強に打ち込もう。

 

次に人類のことであるが、人類其のものは結局可成の馬鹿である。

何故かと言へば限度を知らぬから馬鹿なのだ。

 

此れは然し文明の方にこそまずは責任がある。

大衆が背負ふのは其の文明による洗脳への従順による罪だけだ。

 

人間は抽象的にも欲張るので兎に角宇宙一根性は悪ひ。

宇宙一根性が悪ひ人間はなかなか救へぬものである。

 

 

其れでは人間をむしろ此の際辞めやう。

 

会社を辞め精神🏥へ行き「ココんとこに是非入りたひです。」

とさう宣言しまさに其処にて一生を終へるのだ。

同時に禁治産宣告か又は準禁治産宣告をして社会的に役立たずとなるのだ。

 

人間を辞める幸せ♡は実際どんな文學よりも尊く嗚呼まさしく其れこそが一篇の叙事詩ですらあることだ。

 

だがつひ理性が邪魔をして人間を辞められぬ。

 

さうかさうしてみんな頑張って勉強して来たのだったね。

脇目もふらずに頑張って来たのだった。

 

だが眞の御勉強とは此処に書き連ねられて居るやうに非常識なことばかりである。

 

 

人間のまた文明=社会の馬鹿とは認識上の誤謬であるとかねてよりわたくしは述べて来て居る。

そも認識が悪ひから価値観も狂ひまたあらゆる構築も無駄に終はるのだ。

 

認識が悪ひところに縛られると「阿呆の健全」さへと縛られて仕舞ひ文明の価値観に只従ふばかりとなり易ひ。

「阿呆の健全」さを脱することは我我にとり常に難しひ。

 

眞理の世界が常に「狭き門」であることと同じくして「理性ー知性ーの健全」さを目指すことこそが其の「狭き門」なのだ。

 

まあ大概の人間が其れは出来はしなひ。

だからこそ「阿呆の健全」を止めるべく会社を辞め離婚し準禁治産宣告を早うしなされ。

 

ああ、わたくし?

 

わたくしはかうして眞理を歩む者ですので、貴方方とは違ひ別に何も悩んでは居らぬ。

むしろ社会なんぞは滅んで結構、早う滅べ、滅べ、です。

 

 

尚太宰はかって「家庭の幸福」主義をまずこっぴどく批判して居りますが、實は其れには一理あるのです。

 

其れも大衆レヴェル、社会レヴェルでは必ずや「家庭の幸福」主義=「阿呆の健全」主義となって仕舞ふからなのだ。

 

「家庭の幸福」はむしろ犠牲精神により成就されやうものです。

 

即ちかの宮澤 賢治のやうに、また我の如くに社会の悪と闘ひあらゆる欲を放棄し子孫を持たず佛教を信じ👩には決して触らず潔癖に生きてゆかねばなりません。

 

尤も賢治は石やレコードや所謂春画を蒐集して居りました。

我もまた物凄ひ石や筆記具のコレクターですぞ。

即ちやるところではやって居りますが大枠ではあくまで理性を生きて居ります、其の理性をこそ。

 

「家庭の幸福」、👪が大事だなどと皆が言って居りますが其れではほとんど🐶🐈と同じです。

 

🐶🐈は食ふことと子をつくることと喧嘩して縄張りを守ることだけが其の仕事で其れと同じでは折角人間に生まれた甲斐が御座りません。

人間ならば人間らしく欲望を抑へ社会をも大否定してやりませう。

 

 

「今、人間は、地球上のどの生き物より広い地域に住み、最もほかの生き物を滅ぼす生き物になっています。」

逆に人間こそが地球にとっての病原菌のやうなものなのだ。


「人間は地球には勝てない」

人間が地球に勝てると妄想して居ることの最大の要因とは「阿呆の健全さ」を信じ切って居ることです。

 

家庭を持つのは偉ひ

会社へ行くのは偉ひ

國に従ふのは偉ひ

先生の言ふことを聞かう

 

其れ等は確かに「阿呆の健全さ」を構成する為の重要な精神ですが、同時に其れだけでは矛盾化すると云ふことを悟る力こそが知性なのです。

 

さても貴方方には其の知性がおありなのだらうか?つまりは社会的に正しひとされることに擦り寄るだけでは其れは知性では無ひのであります。


知性とは時に正しくは無ひ悪の方さへをも向かねばならぬ苦難の道、荊の道なのです。


だからじぶんが宗教団体で幹部をやって居るから偉ひなどとは決して思ったりしてはいけません。


そんなもの位ではとてもとても知性的な闘争だとは申せませぬ。



ズバリ知性とは👿との闘ひなのです。

いや👿と云ふ神の属性との闘ひのことである。


同時に佛は👿だとさう喝破することでもある。


何を仰って居るのだかまるで分かりません。



其処はあへて分からなくても良ひ。

兎に角知性とは闘争です。


貴方は今闘争して居ますか?

貴方は今幸せですか?

サイコーですか?


今がサイコーに幸せですか?


へひサイコーに幸せです。

アア其れは良かった。


何より其れは功徳を積んだ故にだ。

社会を否定し地球の健康を選んだまさに其の価値転換によるサイコーとしての功徳なのだ。




「山や森を切り開いて、人間が住む場所を広げていけば、その土地の生き物を滅ぼすだけでなく、新しいウイルスや細菌に感染する危険もあります。」


「山や森を切り開いて、人間が住む場所を広げていけば」其処で「家庭の幸福」=「阿呆の健全さ」は成就されませう。

ですがほんたうの健全さとはむしろ其の「家庭の幸福」=「阿呆の健全さ」を否定するか又は限定することです。


かくして人間は、「家庭の幸福」=「阿呆の健全さ」を追ひ求めることは善きこと、正しきことだとさう信心して居ります。

また其れは多くの宗教団体に於いてもまさに其れこそが是とされて居るのである。


が、坂口 安吾は其の価値に正面から疑義を呈して来て居ります。


坂口 安吾や太宰 治は世の正しひとされる価値観とは正反対のものを見詰めむしろ「家庭の幸福」=「阿呆の健全さ」なんぞクソ喰らへとさう生きてもみたのでした。


所謂眞面目な宗教に欠けて居る視点こそがそんな無頼派の反抗の視点であり反骨としての精神なのです。



其の反骨とは要するに批判です。

社会の諸価値にはまさに其の批判こそが必要なのです。


其れは救はれる為の信心では無く自己犠牲としての批判です。


腹を括った上で文人が其れをしかと受け持ちやらねば大衆をさうして宗教団体を救ふことなど出来やしなひ。


かうして文人は人間の苦悩を受け持ち其処に殉ずるのであります。


エッ?其れはお釈迦様やキリスト様の御仕事ではなかったのですか?


文人は何かを適当に書ひて居れば其れで良ひのでは?

第一おまへに救って貰おうなどとはまるで思っては居なひ。


さうでしたか、其処は少し何かを間違へて居たのやもしれませぬ。




「こうして地球を住みづらい星にしないためには、人間ばかりが欲張りすぎないで、程々のところでバランスを取り、他の生き物たちと共存することが大切です。」


人間の認識はそもおかしく其れに見合ふ形で欲張り過ぎて居ます。

人間は常にじっとして居られず何かに群がる性質があり其処が下等動物とも実際良く似て居ります。



人間はバカでマヌケでアホンダラでしかも女たらしでウンコたれでもって宇宙一醜ひ生き物です。

だからまずは其処から始めませう。

何故其処まで生命として下品なのかと云ふことを釈迦やキリストのやうにトコトン追求し「家庭の幸福」=「阿呆の健全さ」を追ひ求める阿呆などになっては金輪際イケません。


まずは其の「人間はバカでマヌケでアホンダラでしかも女たらしでウンコたれでもって宇宙一醜ひ生き物」であることをしかと認めませう。



「バランスを取り、他の生き物たちと共存する」と生物学者の方々は屡申されますが其れは単なる言葉の羅列であってはならぬ訳です。

故にほんたうに其れをやるのであれば、其処での思想的転換、価値観の転換こそが是非必要となりませう。


ですがどんな宗教であるにせよ、わたくしの如くに「家庭の幸福」=「阿呆の健全さ」を追ひ求めることを止めよなどとはよもや言はれぬことだらう筈です。

其れは宗教が善の価値として人間の生存を抱へ込んで仕舞って居て其処で眞理との矛盾が生じて仕舞ふからなのです。

結論的には人間の生存其れ自体が限定されて行くべきであり其れを實現するのが眞の意味での知性=理性だと云ふこととなります。


で、宗教団体でも「家庭の幸福」=「阿呆の健全さ」ばかりを追ひ求めて行くものは其れは阿呆の宗教団体です。

さうでは無く宗教はもっともっと悲観的なものでなくてはなりません。


純粋な意味での佛教やキリスト教は充分に悲観的ですが、ジャイナ教を除き多々ある他の宗教は現世利益へと傾き過ぎて居り要するに「家庭の幸福」=「阿呆の健全さ」の中にしかと取り込まれて仕舞って居ります。


いや其れも実践倫理公正会や創価学会が其の阿呆だなどとは一言も申しては居りません。

エホバの証人其の阿呆だなどとは一度も申しては居りません。

むしろ宗教をやって居なひ人々の方がより阿呆であり文明に洗脳され切っても居ることでせう。



でも本気で「人間ばかりが欲張りすぎないで、程々のところでバランスを取り、他の生き物たちと共存すること」を實現する為には時に社会の価値観を否定する精神の上でのベクトルがどうしても必要となる。

つまりは最終的に其れは個々に於ける社会の価値観との闘争の問題へと帰着するのです。


其処での敗者は偉ひ人でありまた金持ちの人となります。

其処での勝者は貧乏詩人や貧乏画家か又はルンペンさんか禁治産者さんとなって行くのである。


バランスとは所詮さうしたことです。ー犠牲無しには眞理は成就しなひー

苦悩もせずに精神の勝者にならうなどとは金輪際思ってはイケませんぞ。


ー現實としての敗者を選ぶ者が精神の勝者であり現實としての勝者を選ぶ者が精神の敗者であるー