『社会学者の宮台真司との共著に見られるような、「リベラル」な視座からの発言が多数なされている。主な思想的には「右でも左でもないリベラリスト」を自称しており、この勢力拡大が急務であると主張している。また改憲論者であり、将来的には憲法9条を改正し正式に軍隊を保有すべきだと考えている。ただし、「右派勢力が消滅した後で憲法9条を改正すべきだ。右派勢力が有力な政治勢力であるうちは9条改正は危険。東アジアが不安定になった場合、憲法9条改正のためにも右派勢力を有力政治勢力としては消滅させるべきだ」、と内藤本人は主張している[2]。
昔からさまざまなニートが世に棲んでいた。金持ちの馬鹿息子とか、道楽者の父さんとか、いい年をしてぶらぶらしている「ろくでなし」は、悪口を言われながらも、世の風景にとけ込んでいた。(中略)考えてみれば仏陀もイエスもニートのガキたれではなかったか。仏陀は労働を厭い乞食の生活を勧めていたし、イエスにいたっては神殿で露天商に暴力をふるって屋台を破壊する「キレやすい」ニートでなかったか[3]。』内藤 朝雄 社会的発言より
尚改憲につきわたくしも賛成致します。
事実上長きに亘り先進国としての主権国家である以上如何なる理由であれ軍隊を保持しなひ理由を其処に見出すことなど適わぬ。
但し九条に関しては、確かに其の解釈が難しひ。
1.稀にみる限定的法規としての価値
2.非自立性を育むことだらう主体性の無さ
と言ったまさに二項対立が其処には最終的に生じて来やう。
1.に就ひて
九条こそは其のリベラリズムを限定するものです。
ところが世界的にも国家に於けるリベラリズムを左様に限定するものなど他には例が無ひ。
其の意味であくまで九条こそは其の不可能であることを可能とする特別な規定なのです。
2.に就ひて
逆の立場から言へば九条こそが近代国家としての足枷であり自律的思考を其処に奪ふ呪縛其のものだ。
だから近代国家としての意思決定の自由を奉ずる限り九条こそが何処までも其の国家としての権利を侵害していくものだ。
其の意味で九条こそがまさに要らぬ条項なのです。
と言った上でのまるで正反対の対決になり申した。
さてどちらが正しひのか?
ですから、正しひ、正しくはなひ、と言った二元的価値観に於ひてはそも正しひと云ふ概念を絶対的に規定することなど適わぬ。
其処では常に相対的評価を行ふ他無くなる訳だ。
ですから、女の評価などもまた其れと全く同じことで、わたくしの場合は嫌らしくも確かに毎回女を貶して居りますが其れはあくまで相対的選択であるに過ぎぬ。
左様に絶対的評価と云ふこと自体が此の世に於ひては不可能なのです。
だから平和万歳!戦争反対!原発反対!男女平等!と云った思想に染まりし人々は九条堅持でもまたイイんです。
対して国防萬歳!国威発揚大賛成!原発推進!男女不平等!と云った思想に染まりし人々は九条破棄でもまたイイんです。
ところが、文明反対!文明からの逃亡だ!新竹林の七賢だ!などと述べて居るわたくしのやうな仙人詩人にとっては其の選択は實はどちらでも良ひのです。
なんですが、とりあへずは現代日本の抱へる大問題である精神的崩壊の問題を阻止する観点からとりあへずは九条を否定しておきました。
但し世界レヴェルか又は文明の単位で申しますとかような限定的法規を是非国家単位での規定となしておくべきです。
其れが不可能なことであれさうして近代文明に於ける全ては限定されていくべき。
勿論其の観点から申しますと九条こそは永遠に堅持されるべきだ。
だから其れは選択の問題だと述べて居るのであります。
個としての理性が其の都度どう判断し選択するかと云った問題なのです。
但し内藤先生が仰るやうに右派が消滅することなどはまずは無ひことだらう。
また、仏陀もイエスもニートのガキたれだと言ふのは其れは余りにも酷ひ言ひ方だらう。
兎に角中学の先輩として言わせて頂くが聖なる道はむしろ其のニート性=役に立たぬ部分からこそ生じて来やう。
先にも述べたやうにイエス様が屋台を破壊しまくったのは神の御心を其処にしかと示されたからだ。
ひょっとして彼内藤は無神論者なのでは?
其の無神論者こそはタチが悪ひのだ。
是非とも無神論者と議論をして徹底的に打ち負かしてやりたひものだ。
さて其の「リベラル」な立場こそが實は問題なのです。
リベラルとは一体何でせうか?
『自由主義の哲学的、思想的源流をさかのぼると、17世紀イギリスのジョン・ロック(1632年 - 1704年)の思想に行き着く。ロックは、人間は生来自由で可能性に充ちた生き物であり、いかなる人間にも自らの自由な意思と選択で生きることが認められていると主張した。この権利は「自然権(Natural Rights)」として個々の人間に生まれた時から備わっているものであり、誰からも妨害されることはない。人間は誰もが、個人の自由な意思に基づいて自らの判断で思想も宗教も生き方や生活のスタイルも自由に選ぶことができると主張した。当時、市民の生活に強力な王権で干渉し、人々の財産までその一存で奪うことができた絶対主義政府の国家権力に対抗する思想としてロックが生み出した主張が、リベラリズムの始まりであると言われる。
ロックはさらに、この個人の自由に生きる権利を実際に行使するためには、専制的権力者や独断的な政府政策、政治制度や社会制度の一方的な主義や主張、イデオロギーなどによって勝手に奪われてしまうことのない自分の「財産」を所有する必要があると主張した。ロックによれば、当人の所有物となるのは身体を用いて自然界の共有物から切り離されたものであるとされた[注釈 4]。また、この自己所有は自己の身体に対する所有権にその原型を有するものとされた。この立場からは、当人の所有物をその同意を得ないで使用することはいわば奴隷化と同等であって正義に反するとされた。
そして、自由な政治と経済体制のもと、自由な市民による自主的な合意によって制定される「法律」と、自由な意思を持つ個人どうしの自発的で主体的な裁量によって結ばれる「契約」によって初めて、各人がこの「所有権」を保障され、自分自身や自分が自由に生きるために必要な自分が占有できる財産を得るのだと主張した。「政府」の真の役割とは、こうした個人の権利を「守る」ことに限定される。これを破ってその国家権力を乱用し人々の自由を奪った時には、市民が抵抗権・革命権を行使しその政府を交代させる権利を持つのだと主張した(社会契約説)。
スコットランドの古典派経済学(classical economics)の学者であるアダム・スミスはロックに続いて、個人の利己心がその意図しない結果として社会全体の利益をもたらすという「見えざる手」の議論を展開した上、そのために、政府の干渉や介入政策を受けない、自由な経済環境(自由市場)における自由な経済活動が必要だと説いた。
このイギリスの自由主義(リベラリズム)の思想が18世紀にアメリカに渡り、米3代大統領トーマス・ジェファーソンらアメリカ建国の中心人物たちであるファウンディング・ファーザーズ(建国の父達)によってアメリカ建国の国家思想として引き継がれた。彼らは、巨大な国家権力で人民を縛り付けたイギリスの政府支配体制に対抗してイギリスを離れ、新天地アメリカに王権にも専制政府権力にも統制を受けない、独立した市民による自発的な人々の自由な市民社会の設立を目指した。建国後に建国の父達は人民の基本権を守るために権利章典を制定した。だが、この権利章典は憲法の制定当初にはなく、後に、「修正条項」としてアメリカ合衆国憲法に追加された。
その後ジョン・スチュアート・ミルのように自由民主主義の方向で対応していく流れ(レオナルド・トレローニー・ホブハウス、アレクサンダー・ダンロップ・リンゼイ、アーネスト・バーカー、ジョン・デューイ)に対して、とりわけ20世紀の前半になると、新自由主義論(グレイのような論者は「古典的自由主義の復興」として取り扱う)が台頭してくる。代表はフリードリヒ・ハイエクである。』 自由主義より
かようにリベラルとしての思想的潮流の淵源には社会的な意味での抑圧からの自由を求める人間としての自然な欲求の流れがある。
事実前近代としての社会体制には絶対主義王政だの宗教的権威による抑圧構造だの個としての人間の権利関係を著しく限定する統治が行われて来た。
其処からの脱却と「個」としての人間の確立を目指したものこそがまさに近代的理性による近代国家としての建設であった。
故に其の「自由」とはあくまで理性的に追求されて来し歴史的に必然としての自由であった。
なのではありますが、わたくしの場合は其の「自由」の追求がもはや行き過ぎたものとなりつつあるとさう捉へて来て居る訳です。
まさに其れを此の四年程に亘り述べて来て居る訳だ。
「自由」また「平等」さらに「博愛」=平和主義、と云った抽象的な概念に於ひては其の言葉としての抽象度の高さに応じ其の概念自体が目的化され易ひ。
即ち「自由」また「平等」さらに「博愛」と云った近代的基礎概念は其れ自体が目的化され易くしかも普遍化し易ひ。
ところが現実としての世の中はまさに限定物でありそれこそ酷ひ搾取構造だの、また酷ひ身分的ー経済的ー差別だの賄賂だの組織的腐敗構造だのが横行するに至るまさに矛盾に充ちし有様を呈する。
即ち原始的かつ本能的な欲望が社会其れ自体を規定するに至り其こそはまさに濁世其のものなのだ。
ですから、そんなグチャグチャでの具体物にそんな御大層な抽象的理念を掲げてみても其れは重ならぬばかりかかへって悩みの元となりもはや誰もが其処に絶望するしか無くなりそんな有様では無論のこと幸せなんぞには程遠く嗚呼まさに言ってみれば欲まみれでもってもはや如何ともし難ひ社会其のものだ。
なのでわたくしの場合はむしろ其の近代的な価値の規定概念其のものの有効性につき疑義を呈して来て居るのであります。
むしろさうした抽象的なものを止め、いや、止めるのでは無くして限定して適用していく。
国家単位では無く共同体レヴェルでもって其れを奉じていくべき。
さらに言へば近代が生じせしめし全体主義を地球上に拡張してはならぬ。
即ち近代的諸価値は須らく○と云った抽象的概念とは實は其の全体主義を構成するものであり逆に国家としての主体的自由を奪ひ去るものだ。
だからかの國ブータンの如くに経済成長によらずとも幸福度の高く存する国家さへもが存する。
ですので、其の「自由」とはあくまで選択的自由であるべきで目的としての単一的価値観に染め上げられることなどであってはならぬ。
さう其のリベラル的立場とはあくまで手段としての段階に止めて置くべきものなのだ。
其のやうに此の自由の解釈こそが今文明継続の是非を巡り重要な視点となって来て居る。
即ち近代が成し遂げし自由は今後何処に行くのかと云ふ大問題が其処には含まれて居やう。
逆に言へばリベラルの立場に固執した場合其処に於ける矛盾はやがて極大化しまさに収拾のつかぬ状態へと社会を陥れることであらう。
何故か?
抽象的に規定されし其の自由が具象物としての世界に全部行きわたらぬからだ。
曰く人権は大事です。
そりゃ大事です。
大事ですが、事実人権以下の段階で苦労している人々は世界中に充ち溢れて居りませう。
自由こそが尊ひ。
そりゃ尊ひ。
ですが自由もクソも無ひ段階で搾取されて居る人々は自由ではなく其の日の糧をこそ求めませう。
博愛が大事だ。
そりゃ大事だ。
あくまで理想的には。
ですが、誰しもじぶんの👪が大事でせう。
じぶんの👪よりも移民の権利、または外国人労働者の権利やらを守るとでも仰ひますのか。
究極の放棄とは、むしろ完全なる人権及び自由及び博愛精神の放棄にこそある。
では抑圧及び暴力及び利己主義に徹するとでも仰りますのか?
さうでは無ひ。
其れ等を全部共に放棄すると云ふことだな。
其れが生きる上での目的としての宗教的要諦だと云ふことだ。
なので思想を深めていくと次第に近代主義其のものの持つ抽象度に於ける危険性が炙り出されて来やう。
さて自由民主主義の流れは最終的に新自由主義の流れへと行き着く。
- 「ニューリベラリズム」(英: New Liberalism)。初期の個人主義的で自由放任主義的な古典的自由主義に対して、より社会的公正を重視し、自由な個人や市場の実現のためには政府による介入も必要と考え、社会保障などを提唱する[2]。詳細は社会自由主義および社会的市場経済を参照。
- 「ネオリベラリズム」(英: Neoliberalism)。1930年以降、社会的市場経済に対して個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入は最低限とすべきと提唱する。1970年以降の日本では主にこの意味で使用される場合が多い。当記事ではネオリベラリズムの意味を記述する。新自由主義より
現代に於ける巨大なる自由実現の傾向の中にはむしろ巨大なる破壊力が潜むとさうわたくしは判断する。
従って公的に規定され得る自由主義並びに市場経済は認め得るものだがネオリベラリズムのやうに目的としての自由を追求していく流れ、所謂市場原理主義としての流れの内にはむしろ個を差別しごく一部の者に富を集中させると云ふまさに人倫の道にもとるあくどひ流れが存して居やう。
対してニューリベラリズムの方には公的に介入される限定が自由主義並びに市場経済に齎されていくのだ。
米国の抱へる問題とはまさに此の自由過ぎる国家であることから人権保護としてのバランスを失し中間層をはじめ部分的に多くの人々を生活の上で追い詰めていくことであらう。
即ち世界一豊かな國である筈なのに至極不平等であり一歩間違ふと人生の上での全てを失ふと云ふ矛盾にこそ貫かれし国家なのだ。
『肯定論[編集]
- 新自由主義者である八代尚宏は著書『新自由主義の復権 日本経済はなぜ停滞しているのか』(2011年8月、中公新書)で以下を記した。新自由主義(ネオリベラリズム)は、1970年代にケインズ政策の批判の主体となり、主要な思想家にはハイエク、フリードマン、ベッカーなどが挙げられる[42]。日本における「反市場主義」の思想は、「賢人政治」の思想と、伝統的な「共同体重視」の思想がある[43]。「本来の新自由主義の思想」は、市場競争を重視した資源配分、効率的な所得再配分政策、公平な社会保険制度などである[44]。アダム・スミスは重商主義を非難したが政府の役割を否定しておらず[45]、世界金融危機などは政府の失敗も大きい[46]。
- エコノミストの山田久は「新自由主義は世界に所得の不平等をもたらしたとして批判を受けている。しかし『富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しく』という状況が生まれたのは、新自由主義そのものの構造的欠陥というよりも、世界経済の構図の変化による結果なのである。むしろ、それ以前の経済システムにおける反市場主義的な思想を後退させ、市場原理尊重の考え方を『常識化』して、世界経済の成長力を取り戻したという歴史的意義があったというべきである」と指摘している[32]。
批判[編集]
- ナオミ・クラインは著書『ショック・ドクトリン』で、ミルトン・フリードマンとシカゴ・ボーイズの理論と政治活動が、いかに世界各国に悪影響を与えたかを、劇的に明らかにした。フリードマンは公園や水事業などまで含む公共財の民営化を主張し、極端な原始的資本主義の賛美をおこなった。さらにフリードマンもハイエクもチリの独裁者であるピノチェトや、英国のサッチャーらと個人的にも親しかったことまで暴露されている[47]。
- デヴィッド・ハーヴェイは著書『ネオリベラリズムとは何か』で、ネオリベラリズムとはグローバル化する新自由主義であり、国際格差や階級格差を激化させ、世界システムを危機に陥れようとしていると批判した[48]。また著書『新自由主義:その歴史的展開と現在』で、新自由主義は世界を支配し再編しようとしていると記した[49]。
- 宇沢弘文は「新自由主義は、企業の自由が最大限に保証されてはじめて、個人の能力が最大限に発揮され、さまざまな生産要素が効率的に利用できるという一種の信念に基づいており、そのためにすべての資源、生産要素を私有化し、すべてのものを市場を通じて取り引きするような制度をつくるという考え方である。新自由主義は、水や大気、教育や医療、公共的交通機関といった分野については、新しく市場をつくって、自由市場・自由貿易を追求していくものであり、社会的共通資本を根本から否定するものである」と指摘している[50]。
- もともと新自由主義者であり、転向したかに見えた中谷巌は「新自由主義が、市場で『値段がつかないもの』の価値をゼロと見なしている。これこそが21世紀における人類社会に最大の困難をもたらした原因である」と指摘している[51]。なお、中谷は後に「自分は現在も新自由主義者」と語り、世間[誰?]を呆れさせた。
- リベラルの森永卓郎は「新古典派経済学を勉強したのが、新自由主義者たちである」と指摘している[52]。森永は「新古典派経済学を曲解した新自由主義者が構造改革を行い、アメリカをモノ作りの国から金融・情報・エンターテインメントの国に変えてしまった」と指摘している[53]。
- 反米右派の中野剛志は日本で1990年代から流行した新自由主義に対しては違和感を覚えており、その理由として日本的経営が急に批判対象となったことや、人間は歴史的に形成されたルールに強く拘束されていることを挙げている。
- というハイエクによる指摘に特にショックを受けたと述べている。日本型経営も歴史や文化の流れで少しずつ形成されたものであり、ハイエクも日本型経営こそが自生的な秩序(スポンテニアス・オーダー)であり、真の個人主義の基礎であると言ったに違いないとしている。日本の新自由主義者たちはそれを破壊することを明言しており、ハイエクに言わせれば彼らは偽りの自由主義者であり、全体主義者であるとし、小泉政権時の政治は見事に全体主義であったと述べている[54]。
- 兼子良夫神奈川大学学長(経済学・地方財政学、2016年4月より神大学長)は新自由主義経済の弊害を指摘、フリードリヒ・ハイエクなどが起草したモンペルラン協会の設立宣言にも「人間の尊厳」という文言が記載されている事を指摘、新自由主義的資本主義がもたらしたグローバル化の中で学生には「人間の尊厳」を守る社会を構築する義務と責任を果たしてほしいと説く。[55]
その他[編集]
- 中谷巌は「グローバリズム、新自由主義は、大航海時代以来続いてきた『西洋による非西洋世界の征服』という大きな歴史の流れの中で理解する必要がある。新自由主義の本質とは『グローバル資本が自由に国境を超えて移動できる金融資本主義を完成させようという思想』である。新自由主義の理論は市場経済を簡潔に説明することはできるが、社会・伝統・文化に与える影響については、誰も理論化できていない」と指摘している[51]。
- 増田壽男(元法政大学総長)らは「サッチャーやレーガンによって主張されるようになった新保守主義・新自由主義の考え方は、その根底に1960年代に主流であったケインズ政策に対する批判がある」とし[56]、1970年代のスタグフレーションと経済政策破綻をいかに解決するかという中から生まれた市場原理主義とした[56]。新自由主義は雇用面ではケインズ主義の「硬直性」を排除し、福祉国家を解体する[57]。また1982年の日本の中曽根政権も新自由主義、新保守主義の思想潮流の一翼を担った[58]。新自由主義・新保守主義は、ケインズ経済学であるインフレをマネタリストの立場で貨幣供給のコントロールにより克服しようとした点では一面の真理があったが、スタグフレーションは克服できず、多国籍企業によるグローバリゼーションと「カジノ経済」をもたらし、世界経済は新しい危機に見舞われる事になった、とした[59]。
- ハイエクや石原慎太郎を支持する森元孝(早稲田大学教授)は著書『フリードリヒ・フォン・ハイエクのウィーン - ネオ・リベラリズムの構想とその時代』で 、第二次世界大戦後に出現した「新自由主義」というコンセプトは、現在アメリカや日本で「ネオ・リベラリズム」と呼ばれているものとは相違がはなはなしい、と記した[60]。第二次世界大戦後の復興期に現れてくる新自由主義者には、古自由主義は弱肉強食の競争を生むものの、次段階でトラスト、経済と政治の融合、経済の腐敗を生み、最終的にナチズムのような専制独裁を許したという共通した考え方があり、こうした古い自由主義から決別するという信念があるとした[61]。
- アレキサンダー・リュストウはフリードリヒ・ハイエクの立場を古自由主義と呼び批判し、文化理論を経済政策に結びつけようとした[62]。またオイケンは秩序ある自由主義、古自由主義の刷新という意味で新自由主義と称したが、競争の抑制という点では社会民主主義との区別は困難である。ハイエクは経済と市場を区別し、いわば経済の諸秩序の外に市場があり、個別経済は市場を通じて相互調整していき、そこには固有のルールが存在していると考えた[63]。
- 経済学者の小宮隆太郎(元東京大学教授)は「最近(2008年)、市場原理主義・新自由主義批判が目立つが、何を批判しているのか。レッセ・フェールの”弊害”や『市場の失敗』はケインズ、マーシャル、ピグーも指摘していた。ミクロ経済学の常識である」と指摘している[64]。』
尚わたくしの解釈ではネオリベラリズムこそがまさに現代社会に破壊を齎すものでありかつ史上最も愚かな経済上の施策だと云ふことにしかならぬ。
其れはネオリベラリズムこそが具象物としての地球の富を直視することなくまさに抽象的に儲けを何処までも追求していく動きであるからだ。
フリードマンは公園や水事業などまで含む公共財の民営化を主張し、極端な原始的資本主義の賛美をおこなった。ー批判よりー
其の原始的資本主義は当たり前のことだが巨大化した現代の経済規模には見合ってなど居らぬ。
「新自由主義は、企業の自由が最大限に保証されてはじめて、個人の能力が最大限に発揮され、さまざまな生産要素が効率的に利用できるという一種の信念に基づいており、そのためにすべての資源、生産要素を私有化し、すべてのものを市場を通じて取り引きするような制度をつくるという考え方である。新自由主義は、水や大気、教育や医療、公共的交通機関といった分野については、新しく市場をつくって、自由市場・自由貿易を追求していくものであり、社会的共通資本を根本から否定するものである」と指摘している。ー批判よりー
全てを私有化出来るものであるならば元々神仏と云ふ概念など要らぬ。
逆に全てを私有化すれば人間は壊れることが分かって居たからこそ古来より宗教の意義が社会的に存して居たのだった。
道徳的ー精神的ーにはむしろ私有などしなひ方が良く其処はまさに社会主義思想の方が潔癖な訳だ。
ところが社会主義が崩壊した今新自由主義はまさに全部を金銭的価値、即ち心の働きの面とは異なる合理的に再編された価値へと還元して仕舞ふ。
一言で言へば全世界の数的還元=究極としての合理的世界観の確立と其の履行のことである。
其のやうな究極としての経済的破壊にはまるで考への及ばぬ大衆は其の米国主導での新自由主義的政策をまさに断行した小泉元首相を何だか面白くて恰好良ひ人だなどと何を思ってか支持しーつまりはまるでアホの態ー、日本に於ける諸の保守的漸進的改革基盤を破壊した。
このやうな馬鹿な態は歴史の上からもわたくしはかって見たことがなく初めて自国に於ひて確認せし次第である。
左様に個人とは抽象的存在ではなくむしろ血縁や共同体としての地盤、👪や親戚、また属する國の文化的伝統などに支えられさらに言へばご先祖様としての様々な死に支へられ我我の現在が成立するのだ。
ところがネオリベラリズムは其処から個を引き剥がし自由原理主義的な手法にて市場原理主義を断行する。
其処では最終的に水も大気もまた教育や医療もさらに公共的交通機関も全てが利益の対象とされ数的還元の世界へと必然的に組み込まれていく。
アナタは今日何十リットルの空気と水を消費されましたので料金はコレコレで百円×弐の弐百円となります。
アナタが今日受けられし教育はロボット先生の稼働費が何しろかかるゆえ一日千円は払って貰わねばならなひ。
アナタが今日利用されし地下鉄の運行にはとんでもなく経費がかかるゆえ一回の利用で一万円頂かねば我我はやっていけません。
と其のやうに兎に角何でも金が余計にかかるやうになる。
でも競争でもってむしろ値段が下がるのでは?
何を言って居るのだ、事実此の十月から地下鉄の料金が値上げされおまけに郵送料なども値上げされておる。
おおまさに其の通りで、ネオリベラリズムとは全体主義其のものなのだ。
しかも此の利益中心での良識破壊活動は共同体的な具体的結び付きを粉砕せしめ歴史的な意義に支へられし人間の良識の部分をあざ笑ふかの如くに増殖していく。
事実小泉改革以降家の近所の個人店は皆閉店、廃業に追ひ込まれ個性的な品揃へやほんたうに美味しひ🍱やら御惣菜が死に絶へ買へるものと云へば皆同じやうなイオンかピアゴの惣菜や🍱ばかり。
其のやうな破壊者其のものとしてのネオリベラリズム並びにグローバリズムを一体なーぜ大衆はよりにより擁護しているのか。
安倍政権もまた米国に摺り寄る小泉の同類、と云ふよりもゴルフが下手なタダの真似の得意な猿。
其処にとても人間の理性など期待出来ぬ猿じゃ、いや、サルをバカになどしては元よりイカンのだが。
即ち猿以下じゃな。
即ち「人間の尊厳」の確保など其処にはまるで期待が出来ぬと云ふことじゃ。
事実小泉の倅を大臣にさへしておるではなひか。
国家にとっての公的な活動とは、確かに其処に矛盾としての様々な腐敗を抱へ込むことともならうが大枠では国民の権利を守ると云ふことにもしかと繋がっていく公共性の確保のことだ。
事実日本国は自由民主党による社会主義政策が戦後進められて来て居り我我は病気になって医者へ罹っても其の費用の三割だけ負担すれば良ひこととなって居やう。
また国民として年金が頂けると云ふことこそが其の社会主義政策=計画的な公的権利保障としての具体例なのだ。
つまるところそんな社会保障が充実した日本国に限り革命なんぞは元より不要なのだ。
其れに戦後日本国は公共性と云ふ財産に守られて高度経済成長を遂げて来たのだった。
特に明治の近代化以降我が国に於ける公的なるものの価値は極めて大きな歴史的意義を形成する。
其の歴史的意義を反故にし突き進むポピュリズムの牙城としての安倍政権こそは出来る限り早う政権交代していくべきであらう。
『古典的自由主義とは異なり、公民権の拡大と同時に、失業、健康、教育などの経済的・社会的課題に対する国家の法的な役割を重視する。社会自由主義者は資本主義を支持するが、社会資本の必要性が資本主義と自由民主主義の両方の前提であると強調し、無秩序なレッセフェール経済を社会資本の必要性の認識が欠けているとして批判する[2]。社会自由主義者は、個人主義や資本主義が、公共の精神や連帯の認識によって加減された時に、自由民主主義は最良の状態になると考える[2]。
社会自由主義的な政策は、特に第二次世界大戦後の資本主義世界で広く採用された[3]。一般には、社会自由主義の思想や政党は、中道や中道左派とみなされる場合が多い[4][5]。
社会自由主義に対する反動として、20世紀後半には新自由主義(ネオリベラリズム)とも呼ばれるマネタリストや政府の役割縮小を主張する経済思想が広がった。しかしこの反動は古典的自由主義への単純な回帰ではなく、政府は社会福祉や経済政策に関する管理などを維持し続けた[3]。
社会自由主義を含む各種のリベラル政党の主要な国際組織には自由主義インターナショナルがあり、人権尊重、自由かつ公正な選挙、複数政党制、社会的公正、寛容、社会市場経済(en)、自由貿易、経済的持続可能性、国際的連帯の重要性、などを掲げている[6]。』
ー社会自由主義よりー
重要なことはリベラル派もまた自由放任なだけではいけなひと云ふことなのだ。
其の人間の「自由」とはそもそも責任重大な自由なのでありむしろ自由では無ひ束縛状態からの自由を常に想定した上で目指されるべき限定的かつ具体的な自由であるべき。
即ち抽象的に追求される目的としての自由などであっては元よりならぬ。
自由とはそんな義務としての限定性を抱へるものなのであり無論のことのべつまくなしでの自由などではあり得ぬのだ。
近現代の思想に於ける最大の問題点が其の自由のはき違へであり個としての権利義務関係のはき違へにこそ存して居やう。
より本質的には其れは人間としてまた社会として限度を受け容れるか否かと云った部分にこそ問題点が収斂して来やう。