目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

大掃除よりーアノ岡林 信康の歌にしてやられるⅢ


左翼=インテリ層?の考へて居ることにも勿論一理ある。

どだい社会=人間は腐り易く其れも長く続く制度または組織程さうなり易い。
などと人間じゃねえ個は批判するがイザ組織の中に属すともはや其れには逆らえなくなる。

其処をあへて逆らうのが真の意味でのインテリなのではなからうか。
真のインテリとは頭の中に知識が一杯詰まった人々のことを言ふのではなく社会にもの申すだけの知恵と胆力を持つ人々のことを云ふ。

だが左翼変革思想が近代と云ふ時代の枠組みの中でとんでもない破壊を引き起こして居ることもまた確かなことだ。

米国と云ふ極左思想国家ー変革しかしない社会と云ふ意味でのーと政治思想としての左翼国家=中国+露西亜が激しくぶつかり合い最終的にどちらかが覇権を握ることとならうがあくまで思想としての大きな枠組みの中ではどちらも左派なのだ。

勿論英国と日本は立憲君主制を建前とする歴史と伝統の国家である。

だからいずれにせよ日本の立場は危ういのだとも言へやう。

近い将来日本は文化的に大きな改変を迫られていくことであらう。

事実今日本人の精神性は大きく様変わりし其処では合理化の度合いがより顕著になって居ると見ておくべきだらう。


何でかと云ふと学校もまた会社ももうまるで合理主義なので日本人の精神自体が合理化されて仕舞ふのはむしろ必至のこと。

要するに其の合理主義と日本の伝統としての保守的な価値観がそも逆方向である。

日本の伝統としての価値観とは和の精神つまるところ👪主義のことなのだ。

天皇をお父さんとする👪が日本国民なのでありだからこそ其処ではそも革命も何も無ひ筈。


だが戦後実は極左米国思想としての経済成長や性革命と云った価値観を受け容れていく他はなかった。

其れでもって勿論豊かにはなれたが日本人の伝統的な精神性は根っこの部分から崩れ去ったのだらう。


今やすでに日本の良妻賢母は消失し性は乱れに乱れ教師も警察官も色んな対応に追われストレスフルでもってとてもやってられない程だ。
そんな國の何処が良いのだ大丈夫なのだ。

大丈夫じゃないからインテリはインテリらしく声を荒げ訴えなければならぬと云ふのにわたくし以外にそんなことやってる奴は何処にも居ない。

だが君等の事なかれ主義は其のうち酷ひ状況を引き起こすぞよ。


だから兎に角真の利口はたとへ命を捨ててでも社会にもの申すが如くに潔癖な理性の持ち主でなければならぬ。


さて我我は人間ー社会ーに属す個なので必然として変革ーシンポーは受け容れなければならぬが全部受け容れると其れもまたエライこととならう。
実際西洋の文明は半分程狂っておるのでコレを受け容れておる日本の文明社会もまた半分程は狂っておる。

其の狂った尺度または価値観の中で生きて居ると自然と頭がおかしくなり病気になったり精神病院へ入らなくてはならないやうになる。

そんな時に人間をして根本から救って呉れるものとはタダタダ自然のみ。

自然のみが我我を其の根っこの方から救ふのだ。


自然だけが、其の自然だけが我我をしてひとつのユートピアへと導く。
文明以前の段階へと、其の破壊としての近代文明以前の段階へと我我の精神を運んで行って下さらう。

其のやうにインテリ左翼の面々もまた思想的闘争を経しかも其れに疲れ果て山の中へと逃げ込んで行った。

自然の中には天皇制も堅固な伝統的価値観もまた無い訳なので其れ即ち自由であり平等でありかつ新思想を受け容れるに足る静けさにも満ちておる。

其れも単なる村では新思想どころではなく、其れこそイヤらしい、其れこそ鵜の目鷹の目でもってして理性どころか変わりたくない意識のカタマリでまるで肥溜めのやうな村意識のカタマリでもってして。


だから北海道へ行こう。

さうだ、倉本 聰だ。

或いは畑 正憲だ。


畑 正憲は昔良く其の著作を読んだのだけれど左翼なんだか何なんだかまるで分からない。

兎に角凄ひじいさんだ。

こんなじいさんは他には居らず其の変人振りには尊敬の念を抱かずには居られぬ。

其の畑 正憲氏も性欲が無くなると同時に動物には興味が無くなり今民主主義をテーマとする最後の?小説を執筆中なのだそうな。

つまるところ死ぬる間際に社会=人間と闘おうとされて居るものらしい。

対して我は民主主義なんてもうどうでも良く其ればかりか人間であることさへむしろどうでも良ひ。


人間共は皆気が狂って居るので其処に染まらぬやう最近はあへてじぶんに籠るやうにして来ておる。

つまり人間などまるで信じて居ない。

然し同時に自然=肉体=個も信じてなど居ない。

コノ究極の無信心に於いてむしろ逆に宗教心が強く芽生えておる。


否定即受容。

受容即否定。



俺らいちぬけた — 岡林 信康

田舎のいやらしさは 蜘蛛の巣のようで
おせっかいのベタベタ 息がつまりそう
だから俺は 町に出たんだ
義理と人情の蟻地獄
俺らいちぬけた

ところが町の味気なさ 砂漠のようで
コンクリートのかけらを 食っているみたい
死にたくないから 町を出るんだ
ニヒリズム無人
こいつもいちぬけた

考えてみりゃ俺らも 生きもののひとつ
お天とう様がなかったら 空気も吸えなんだ
花や鳥の中に 俺を見たんだ
命あるものの 流れに沿って
今夜町を出よう

命あるものの 流れに沿って
今夜町を出よう



一般に田舎は環境は良いのだが不便で何かと干渉が多い。ところが人の心の温かさも確かにあらう。
逆に都会は環境が悪く其の癖便利で皆人様のことなど知らん顔で生きて御座る。要するに人の心の冷たさにも満ちて居る。


ただ田舎に限らず人間関係の煩わしさがイヤな人は社会から逃げて行ったって良いのだ。
田舎に限らず人間関係の煩わしさがイヤな人はあへて文明に参加して居らずとも良い。

むしろムリに参加しやうと思うな。
人間はどうあろうと生きておれば其れで良い。

或いは死んでおっても良い。
別に死のうが生きやうが其れはどうでも良い。

問題は人間とは解決することがままならぬひとつの大きな命題だと云ふことだ。

其れ即ち人間を野放しにしておくと宇宙は不利益を受けると云ふことでもある。

個が生きやうが死のうが人間は存続する。
其の人間は社会的に規定されておりタダのDNAでもって規定されておるだけではない。


社会がここまでヤバいと人間の未来と云ふよりも地球の未来ならびに宇宙の未来が余りにも心配だ。
かうして何故人間はここまで淫蕩でしかも性悪なのか、と云ふ事実につき一自称詩人は約半世紀に亘り考へ続けて来た。-物心がついて以来ずっとー


なんだが人間のバカさ加減を救ふ手立てなど何処にも無い。
むしろじぶんを変えてかの相対分別を打ち滅ぼし仏になる他はないのか。

勿論最終的にはさうしたまさに精神の上での格闘がタダ残るばかり。
人間=社会とは誰しもさうなのだ。

何も分っちゃいない人間共は其の自らのバカさ加減をそも自覚出来ぬ。




昔コノ曲が良くラジオから流れて居た覚えがある。
コレぞまさに名曲だ。

左翼は正しく思想的闘争を経て山に籠るべし。
あらゆる改革はコノ伝統國ではムリだからなるべく早く山に逃げやう。

インテリは何故か決まって潔癖なのでそんな闘争はタダ苦しひだけだ。


だから早く山へ逃げやう。
かように山は真っ赤に燃えて居らうぞ、秋ならば。

冬ならば真っ白になってる。

六月ならば雨ばかりだ。

春になれば、嗚呼春になれば小鳥が囀りワラビが採れるぞ。

そればかりかタラの芽も出て来る。

山のタラの芽の旨さは都会で売ってる養殖タラの芽とは違い物凄ひ香りと歯ごたえがあるぞ。


君等は何故知らぬのだ、そんな養殖ものしか知らぬのか都会の君等は。

或いは君等自身が養殖されて居るのではないのか。

もう養殖されてスッカリブタ化しておるのではないのか?




確かにココこそが山だ。

山は静かで、其処にイノチは息づき永遠に巡って居る。

人間=社会にイノチなど無くー真の意味でのー、其処にはタダ子宮の欲望=下品欲が渦巻くばかり。

人間ではない何者かにとり其処はむしろ地獄じゃ。

地獄の差別と地獄の競争の渦巻く其の倒錯の園を離れサア行かう、コノ思想無き楽園へ、命の園へ左翼の隠れ家へと。




反戦、さうしてまた反戦

反文明、さうしてまた反文明。

バカバカしい人間、何処までも何処までもバカバカしい人間。

まるでもうどうしやうもなき人間。


腐り切ってる人間。

じぶんでじぶんの尻を拭けぬ人間。

じぶんでじぶんの尻さへ拭けぬ社会。


誰が好き好んでこんな社会に居りたいものか。

いつまでもいつまでもアクドくしかも淫蕩な人間共。


良く夢だとか言いながら要らんものばかりつくってる。

神仏が赦さぬと仰せであるのにあへて其の神仏の御顔に泥を塗り小便をひっかけておる。

だからお前らなんぞ崖下に落ちてしまへ!



いやあ、然し、山はほんたうに良いですねえ。

ただ山には文明はありませんねえ。

女も居りませんねえ。


だから文明とは女のことですね。

文明=人間=女、なんですね。

女=欲望=子宮、ですねえ。

子宮=母の愛、でもあります。

つまるところ其の母の愛こそが性悪でした。



母は普通山とかは嫌ひです。
母が好きなのは子供がテストで百点取ることと稼ぎの良ひ旦那だけですね。

稼ぎの良ひ旦那を持つとエルメスのバッグとか高級店の宝飾品とかを選り取り見取りですね。

其れと新築のデカい家とデカく立派な墓が限りなく好き♡だ。


かように所詮女は唯物論でまるで本能で出来てますね。

でも山とか好きな女は地味な良ひ女なのやもしれぬ。

むしろ子が居ない女の方が性質は良くならう。


即ち人間としての性質が善だ。

さうか、子が居ない女、コレだ!

いや然し、子が居ないインテリ女ほど扱ひの難しひものもない。



母ちゃんが崖下に落ちたら果たしてアナタは救えますか?
母ちゃんが地獄に堕ちて居たら果たしてアナタは救えませうや?

かように自然つまり人間ではないものだけが人間=社会を救ふのだ。
救ふとは言っても、其れは都会人のタマシヒを救ふだけで現実的にはむしろ社会を壊すのだ。

左様温暖化による大災害が全部を壊していきませう。


かように自然が個の感性や肉体にとり心地良いのは其れが社会化されたものではないからです。
自然の営みは社会的な価値観に従ふものではなく概ね其れは肉体性に沿って展開される自然現象のこと。

対して社会的な営為はたとへば利益であるとか、権威であるとか、また社会構造の維持であるとか、のやうにむしろ観念的な営為そのもののことだ。


つまりは全部が抽象化された価値だと云ふ事です。

観念性はさうした抽象化を際限なく続けていくことだらう。

特に情報化社会に於いて其の抽象化の度合ひが高まって来て居やう。

我我が今住む仮想の空間、便利な此のパソコンと云ふもの自体が観念の産物でせう。


ですがパソコンはタダ現実としての回路を拡げて居るだけのことでもある。

謂わば電話のお化けのやうなもので、使ひ方によっては此のブログのやうに古風なものにもなり得る。

なんですが訳の分からぬゲームの世界、アレだけは絶対にいけません。

あんなものを一日中していれば其れこそ仮想現実の世界に個が埋没して仕舞ふことだらう。


其れが観念的な欲望に基づくものであることが何よりも危険だ。

対する自然は、観念的欲望ー価値観ーをむしろ許しては呉れぬ。

勿論山の中でネットをする気にはなれず、そればかりかスマフォを見ながら歩くなんてことが出来る筈もない。

そんなことして居たら即崖から落ちて死にませう。

観念的欲望=下らない欲望、を非社会的に何処まで抑へることが可能なのか。

と云ふ事が此の三十年ばかりの間でのわたくしにとっての枢要な精神的テーマであったやうな気が致します。


そんなわたくしも、イザ都会に戻れば少なからず観念的欲望の餌食にならざるを得ない部分がまた御座ひます。

そんな肉体性ー個としての感覚性ーと観念性ー社会性ーとの相克の中でわたくしはもう長く生き続けて来た。

いやわたくしばかりではなく多くの現代人もおそらくはまたそんな矛盾に苛まれつつ今を生き続けて来たことでせう。


わたくし達には理性がある筈なのに一体何故こんなんなって仕舞ふのだらう?

どうも其れは山へ行くと自ずと分かるやうな気も致します。


必要なものと不必要なものとの線引き、其の区別と云ふものをどうも自然は我我人間の価値観に対し教へて呉れて居るのではないか。

また其れは余分なものと必要不可欠なものとの線引きでもあるとさうも思へて来るのです。

何故かと云うと、自然には無駄など無く要らないものも同時に存在しないからなのです。

まあ実感としてはまさに完璧な平衝系だと云ふことです。


ところが理系思考は無駄なプラスチックや原爆、其れに合理的な人権の破壊、合理的に達成されるであらう性の崩壊をタダ黙って推進しつつあるだけです。

要するに人為的なものに限り全てがムダだ。

ソコへいくと文系思考は偉ひですよ。

山は綺麗だとか石は重ひだとか、滝に打たれてこれから修行するんだとか、よりによりそんな無駄なことばかりをして、なんですが結果的に其れが自然の肉体的把握に繋がって居るんです。

つまりは直観的な把握に繋がる。


だから文學は観念なんかで観て居ないです、其の自然を。

タダ人間ですもの、最終的には文學もまた観念としての営為となりませう。

ではあるがプラスチックや原爆と、山は赤く色づき僕は気分がいい、と云ふ表現とは一体どちらがより平和で其処でより人間性を回復して居るのでせうか。

そんなもん文學の方が良ひに決まっておりますがな。



だからそも何で理系思考は其処まで破壊的なのだ?
そもそも小説や詩が山を壊すことなど絶対に無ひ。

一体何でプラスチックや原爆を造るんですかねえ、理系はそも頭おかしいんとちゃいますか?


ちなみに畑 正憲氏は完全に理系の方ですが同時に作家でもある。

ただ麻雀が強ひ人をわたくしは信用して居ない。

何故ならわたくしは極端に麻雀が弱くかつ数学も出来ずで其れゆえにかどうも子宮思考が出来て居るやうだ。

実は母性本能のやうなものがあり猫の子など弱ひ者に対しては妙に優しひのです。

よって其の母性本能こそが罪深ひものであることさへも良く知って居る。


ただ、母性本能はプラスチックや原爆を手放しで喜んで居る訳ではないことでせう。

所詮本能であるならば肉体性に徹してさういうものにこそ反対すべきだ。

つまり女が利口になれば世界は救われるのだ。

即ち女の欲望が近代科学を生み其の近代科学=理系思考こそが諸の破壊を生み出す。

ならば女の欲望が近代科学を否定することでこそ世界の破壊を食い止めることは可能だ。

では早速女を教育していくこととしてみやう。



でも理性無き女を教育することなど不可能だ。

では山へ連れていけ。

たとへイヤだイヤよと言っても連れていくのだ、其の深い山の中へ実際何処までも。

其処でこそ山が教育して下さらう筈。

女共は其処でこそ理性を与へられやう。

其処にこそかの山の神は降臨され女の罪障即ち近代の罪障を須らく取り除くことさへもが可能なのじゃ。