掃除中に色んなことをしながら其れを行ふのは、そも掃除することが嫌ひで何だか其の時間が至極勿体ないからだ。
だがこれまでに掃除中に本を読む、などと云ふ余裕と云ふか不真面目さと云ふかさうしたほかごとをする気持ちにはとてもなれなかったの筈なのに何故か今回は其れが出来たのだった。
おや、こんなところにアノ安部 公房の本が。
其れも兎に角安部 公房を読みたい、と思ひつつ買った本だと云ふのにこんなところに隠れておる。
死に急ぐ鯨たち 単行本 – 1986/9
それもわたくしが買ったのは三千円以上もした極上の本だ。
では何故其れを読まないのだ?
別に思想的に気に入らないとかさういふことでなひ。
心理的余裕が無かっただけのこと。
まずは「死に急ぐ鯨たち」から。
うーむ、兎に角面白かった。
あくまでわたくしにとり面白ひ。
まずは想像力の不足から来る楽観主義は実用的だと云ふやうなことが書いてある。
また時間には二種があり其れは物理的な時間と経験則としての時間だとのこと。
其の経験則としての日常を定着させることは生き延びる為の知恵なのだともある。
確かに人間の歴史とは不安定要素に対して日常を拡大し続ける努力のことを云ふ。
然し戦後世界は国家による武装競争を加速させ其の経験則としての時間を破壊しかねぬ状況を生み出すに至る。
しかしながら其れでも平和な日常としての幻想が実際何処にでも溢れかえって居た。
つまり想像力の不足として築き上げた幻想の上に社会は胡坐をかいて居た。
だが其処で国家の存在を疑ふべき時だと安部氏は云ふ。
無論のこと其れは国家の中に巣食ふ不信に対する不信のことなのだ。
ー以下はわたくしの考へー
国家は何故よりデカくまたより強くなりたがるのか?
国家こそが「本能」だからなのだ。
其れは女が「本能」なのと同じことだ。
即ち国家とはケモノじゃ。
ケモノとは本能の赴くままに行動し屡相手を喰らひまくる。
即ち肉食動物以上に血に飢えて居りしかも狡賢ひ。
此のやうなケモノは此の世には居無ひ方が良く従って即刻国家は解体しかのコミュニタリアニズム共同体主義へと即刻シフトすべきだ。
しかもコミュニタリアニズムの元を辿れば何と!かの聖フランチェスコまで遡ることが出来やう。
左様に国家はケモノなのでそんなものを幾ら纏めても世界平和の実現などムリじゃ。
尚デカいものは拡大鏡だと思っておくとまず間違ひなし。
人間は善悪の複合体として現象しており小さいところ=個、家庭などでは破壊的な暴力は其処に生じ得ぬ。
しかしながら町内会ともなるとまた話は別で特に町内会の幹部組織がバカだとそれこそとんでもなひバカ組織になり易く公民館へ来ひと云ふので行ったところグダグダと下らぬ話ばかりを一時間もしてしかも肝心の組長の役割に就ひてはまるで合理的な説明が為されず其れでもってわたくしは当然ながら怒りまくり幹部連中に文句をタラタラ述べて来たところだ。
其のやうに組織は大抵がバカでしかも大きさが増す程ケモノとなり易ひゆえ皆々様は其処で余程に注意されていかれるがよからう。
拡大鏡だから確かに善ー人権などーも拡大されやうが同時に悪ー軍事力、科学技術力、女ーも拡大されるゆえそんなもの信じてなど居てはならぬ。
尚安部氏は元々左翼なんで保守的な国家への懐疑や戦争反対!論者であらうと思ふが確かに左の思想としての行き着く末での国家解体主義、国家不要論には一理あり、と云ふか其れは確かに正解なのだ。
なんだけれどもケモノをケモノとして見詰められぬ哀しひ大衆の無思考乃至感覚の愚鈍さを利口な左翼の面々は金輪際バカにしてなど居ちゃいけないんだぞよ。
安部氏の言われるやうに国家の中に不信の構造が宿るとすれば其の不信とは町内会や会社組織に於ける不信を拡大した不信なのでありまた親戚付き合いや👪さうして個に於ける自分以外のものに対する不信を拡大した形での不信なのだ。
で、其処で個としての人間は善にも悪にも傾き易ひものだがあくまで理性的に捉へればまさしく其れは悪に傾ひておる。
悪に傾く即ち想像力には不足するがゆえに経験則としての時間=日常と云ふ時間を生きて仕舞ひ易ひ。
個としてまたは家族として単に日常を生きるだけならば軍拡競争も宇宙開発もまた遺伝子操作も行われなかったであらうに國の単位となると何故さうなって仕舞ふのか。
勿論其れは拡大鏡だからだ。
個としてアイツには負けたくなひと君はさう思ふ筈だ。
家族として隣の家よりは家の方がなんぼかまともだ、いや、立派だ。
などといつも君等はさう願ひ少しでも良ひ給料を貰ひ少しでも良ひ嫁を貰ひまた少しでも良ひ教育を、かのバカ息子やバカ娘に少しでも良ひ塾や学校に通わせやうとして居る筈だ。
いや、其れが悪ひとは言ふてないよ。
悪くはないが国家に拡大された途端其れが原爆になったり月ロケットになりまた遺伝子操作にゲノム編集に繋がって仕舞ふ!
じゃあ其れが悪ひのですか?
悪ひ。
少なくとも極悪だ。
即ち構造的には個にせよ国家にせよまるで同じなんだな。
個が一番になりたひのと同じくして国家は一番になりたひ。
されど必然として其の欲望のレヴェルがでかくなる。
最終的には破壊することなしには欲望が成就しないところまで行って仕舞ふ。
人間に鯨の集団自決のやうな死に方をしないと云ふ保証は無ひなどとも安部氏は結びの部分で述べられて居る。
実は此の部分が引っ掛かると云ふか一番怖ひ。
然し現在わたくしはかう考へる。
人類はまたは文明は間違っては居るが其の間違ひは所詮此の世に収まる範囲でのものだ。
よって其の下品な日常は永続していくことだらう。
地球がさうして宇宙が人間の手で破壊されればまた別の宇宙で其の破壊が繰り返されると云ふ意味で永続するのである。
其のやうに厄介な部分を人間は抱えて居ると云ふことなのだ。
事実我我は破壊者であり謂わば自決者である。
人間の諸活動ー宗教をも含めてーは其の破壊であり自決である非日常の世界を如何に日常化するかと云ふ其の誤魔化しの一点に集約されていく。
誤魔化す、つまりは根性が悪ひ。
根性が悪ひから、滅びる、または自決する。
そりゃ当たり前のことで言わば自然の摂理である。
なので悩むことなど何処にも無ひわ。
悪である人間は勿論善なる部分をも持ち合わせて居やう。
逆に言ふと善悪の区別が無ひ人間などなく時として善でまた時として悪であるからこそ人間であり得人間ではないものではあり得なひのだ。
どだい人間の生殖とは悪であり煎じ詰めれば其れは暴力なのだ。
其の暴力とは然し人間の生存にとり不可避である。
また煎じ詰めれば植物のやうな生命の段階に至ればまさに自身が神のやうなものだ。
其れでも尚植物は生命としては野蛮である。
謂わば生命と野蛮さは切っても切れぬ関係にあり其の野蛮をどう克服するかと云ふ事こそが近代的な理性に与えられしひとつの重要な課題であった。
が、幾ら個々が近代的なそれも高等教育を受け理性的になっても組織=社会となればしかもデカい組織になればなる程矛盾は拡大し破壊へと勤しむこととなるのである。
かように国家の意義を問い直すこと、さらに国家を解体し異なるレヴェルでの社会を構築することは観念的には確かに正解なのだ。
されど鯨の群れのやうに人間もまた集団でもってずっと歴史の場を泳ぎ続けて来て居る。
それでもって謎の集団自決を遂げるのも案外悪くはないのではないかと今は思ふ。
歴史と云ふ、不安定要素に対して日常を拡大し続ける努力は其処で途絶えることとはならうが少なくとも理性的である限り国家によるまた文明としての蛮行に否を突き付ける場は必要でしかも其れが其処に成就されるのであるからかえって喜ぶ人だって居る筈なのだ。