目覚めよ!

文明批判と心の探求と

地獄と極楽ー自業自得の因果かなー



善因には善果、悪因には悪果が訪れるという業の因果の法則が説かれている。仏教では、一切の存在は本来は善悪無記であると捉え、業に基づく輪廻の世界では、苦楽が応報すると説かれている。一切は、直接的要因(因)と間接的要因(縁)により生じるとされる。また、「原因に縁って結果が起きる」という法則を、縁起と呼ぶ。縁起の解釈は流派によって異なり、「縁起説」とも呼ばれている。ー以上より引用ー


一切の存在(現象)は本来は善悪無記であると云うのは、現象世界の相対矛盾を無分別智にて捉へた場合に無記即ち語り得ないものー善とも悪ともつかぬものーとなるのであり、対して相対矛盾を分別智にて捉へる場合に其れは明らかに善悪の区別を生ずるのでせう。
かように真の意味での善悪の区別はつかない、つきようが無いと云う事になって仕舞ひます。
善因には善果、悪因には悪果と一言で申しますが其の善とはまた悪とはあくまで仏法に対する善であり悪であることを認識しておく必要がある。


またキリスト教イスラム教など他宗教ともなれば其の善悪の価値判断が変わって来る場合さへある。
さらに浄土教では良しとされて居る価値観が他の宗派では認められず逆に般若心経のように浄土各宗派では読誦されないお経もある。


宗教に疑問を抱く知性がまず引っ掛かるのが此の点ではないかと思ふ。
逆を言えば然し俗世間の価値観に於ける善悪規定程不安定なものもまた無い訳だ。


たとへば此処日本に於ける戦後の価値観は戦前の価値観の否定により成り立って居る。
ですが戦前の価値観からすれば経済成長だの進歩主義への追随は逆に悪の権化そのものに見えて仕舞ふことでせう。


経済成長だの進歩主義だのやれば自ずと自然破壊を行ふこととなりそんなのはむしろどう考へても宇宙の大悪党野郎じゃないですか。
儲けが良ひことのやうに見えて実は物凄く悪ひことで一番儲けて居るかのトヨタ自動車を始め日本の極悪上場企業は其の罪の深さを自覚して居ないがそんなのはもう宇宙の摂理に対する大犯罪だ。


しかも今は男でも男と女ならば女と結婚しても良い訳でせう。
所謂自由なんでせう?平等なんでせう?


あー、何だか不潔ですねえ。

いっそシャワーでも浴びて来やうかなあ、いやね、どうも性的に潔癖なんでね。


其の不潔な文明の価値観は善だと言えるんですかねえ。
口が裂けてもそんなことは言えないことでせう。


でも実際には善は悪でもあり得悪は善でもあり得る訳です。
善悪は相対的な価値に過ぎないのでロックバンドの人とか悪魔主義の人々などは逆の価値観に生きてむしろ恰好を付けて来て居ます。


極道とかヤクザなんて云うのも女々しひ者には実はなかなか格好良くさへ見える。
其れで実はわたくしは極道モノのDVDとかが一番好きなんです。


かの菅原 文太など若い頃は嫌ひでしたがインテリ俳優さんであることが分かってからはむしろ大ファンになりました。
男臭ひ人は兎に角好きですねえ。
眉毛が濃ひとか、鍛へ上げられた引き締まったボディとか、或いは濃ひ胸毛とか理性には欠け暴力的で荒々しひところなどがむしろ趣味だ。


だから其れは暴力的な悪じゃなくてわたくしには男らしいと云う善なんです。


業にせよ因縁にせよ、其の相対価値基準を基にする限りは結果が矛盾化するので分別智で判断すべきことではないでせう。
ましてや文明の価値観が善であるとはもはや誰も言えなくなって来ました。


ところが無分別智を基に善悪の基準を超越すれば今度は逆に現代社会を生きにくくなっていくのかもしれません。
現代社会は善悪の区別を反故にして進む分別智による強大な構築物ですので逆にわたくしは善悪の区別=二元的分離をしかと進めるべきだとさう申して来て居ります。


現代社会にとり必要なのはむしろさうした限定(分限)であり真理ではない。


真理はすでに解体され始めて来て居るのかもしれずー所謂末法に連なる法滅尽の世界へとー文明の価値観を逆戻りさせることももはや不可能に近ひ。
ですが方向性だけは矢張り真理の方角を指し示していかねばならない。


其れでもって解脱がなればもはや二度と生まれて来なくて良い訳ですしもしも聖者にでもなればもう少しまともな世界に生まれ直せるのやもしれぬ。


ところで相対価値の領域では其の縁起の対象としての自性が認められるか否かと云う事が実は大問題です。


縁起ー歴史的変遷

説一切有部[編集]

説一切有部では、十二支縁起を過去世・現在世・未来世の三世に渡る業の因果関係とみる三世両重の業感縁起説が説かれた[3][5]
有力部派であった説一切有部においては、「十二支縁起」に対して、『識身足論』で 「同時的な系列」と見なす解釈と共に「時間的継起関係」と見なす解釈も表れ始め、『発智論』では十二支を「過去・現在・未来」に分割して割り振ることで輪廻のありようを示そうとするといった(後述する「三世両重(の)因果」の原型となる)解釈も示されるようになるなど、徐々に様々な解釈が醸成されていった。そして、『婆沙論』(及び『倶舎論』『順正理論』等)では、
  • 刹那縁起(せつなえんぎ)--- 刹那(瞬間)に十二支全てが備わる
  • 連縛縁起(れんばくえんぎ)--- 十二支が順に連続して、無媒介に因果を成していく
  • 分位縁起(ぶんいえんぎ)--- 五蘊のその時々の位相が十二支として表される
  • 遠続縁起(えんばくえんぎ)--- 遠い時間を隔てての因果の成立
といった4種の解釈が示されるようになったが、結局3つ目の分位縁起(ぶんいえんぎ)が他の解釈を駆逐するに至った。

過去因→現在果 現在因→未来果
三世両重(の)因果
無明
名色六処 老死
説一切有部では、この分位縁起に立脚しつつ、十二支を過去・現在・未来の3つ(正確には、過去因・現在果・現在因・未来果の4つ)に割り振って対応させ、過去→現在(過去因→現在果)と現在→未来(現在因→未来果)という2つの因果が、過去・現在・未来の3世に渡って対応的に2重(両重)になって存在しているとする、輪廻のありようを説く胎生学的な「三世両重(の)因果」が唱えられた。
なお、この説一切有部の三世両重(の)因果と類似した考え方は、現存する唯一の部派仏教である南伝の上座部仏教、すなわちスリランカ仏教大寺派においても、同様に共有・継承されていることが知られている[6]
また、説一切有部では、こうした衆生(有情、生物)のありように限定された業感縁起だけではなく、『品類足論』に始まる、「一切有為」(現象(被造物)全般、万物、森羅万象)のありようを表すもの、すなわち「一切有為法」としての縁起の考え方も存在し、一定の力を持っていた。ー以上より引用ー




有為の(ダルマ)のことを有為法(ういほう、: saṃskṛta-dharma)と呼ぶ[注釈 1]。これに対し、さまざまな因果関係・因縁によって造られたものでなく生滅変化を離れた常住絶対の法を無為(むい、: asaṃskṛta)という[2]

これらの有為法は、下記の性質をもつとされている。
  • 三世に実有(さんぜにじつう) - 過去・現在・未来いずれの領域においても存在する。
  • 刹那滅(せつなめつ) - 未来の領域から現在の時点に生起し、次の瞬間には過去の領域に滅し去る[9]

多種多様な有為法がそれぞれ互いに多種多様な因果関係を持ちつつ、未来から現在に現れ、現在から過去へ過ぎ去る、という無数のの流動生滅と離合集散織りなすところこそ、われわれの生きる有為転変の世界である。そして、その有為転変の世界の因果的存在を超えたところに見出される常住の涅槃こそが無為である[10]とし、そのような諸行無常の世界に繰り広げられるわれわれの迷いの生存の現実と、その迷いを脱却して悟りに向かう修行の道程とを説一切有部は標式的に説き明かそうとした[11] 。 ー以上より引用ー



かような説一切有部の教説は兎に角わたくしには分かり易いです。



業による報いを業果業報という[2]。業によって報いを受けることを業感といい、業によるである報いを業苦という[2][注釈 4]過去世に造った業を宿業または前業といい、宿業による災いを業厄という[2]。宿業による脱れることのできない重い病気業病という[2]。自分の造った業の報いは自分が受けなければならないことを自業自得という[2]。 ー以上より引用ー



さう全ては所詮自業自得なのさ。



  • 現業(順現法受業、じゅんげんぽうじゅごう、dRSTa-dharma-vedaniiyaM karma[要出典]) - この世で造った業の報いを、この世で受ける[2]
  • 順生業(順次生受業、じゅんじしょうじゅごう、upapadya-vedaniiyaM karma[要出典]) - この世で造った業の報いを、次に生まれかわった世で受ける[2]
  • 順後業(順後次受業、じゅんごじじゅごう、aparaparyaaya-vedaniiyaM karma[要出典]) - この世で造った業の報いを、第三回目以降の世で受ける[2]。ー以上より引用ー


なーるほど、すると其の報ひとやらはまさに此の世で受ける場合もある訳だ。
怖いねえ、不倫とか盗みとか悪ひことをしちゃいけませんよ。


ではおまへのやうな思想犯もまさに此の世でもって報ひを受けるのではないのか。


仰る通りです。
ですのでわたくしはまさに言いたい放題の罪を問われ磔になることを覚悟の上で宗教を論じて来ました。


何処の牢屋に入りそして何処の十字架にかけられるのか其れは分かりませぬが其の日は案外近いのやもしれませぬ。




こーゆうのが実は大好きです。

滅茶苦茶面白さうな論題であるが本日は疲労して居てイチイチ考へて其の内容を書いて居る余裕がない。

後日またしつこく取り上げてみるつもりです。




仏教においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻をと捉え、輪廻から解脱することを目的とする。仏教では輪廻において主体となるべき、永遠不変の魂は想定しない(無我[5]。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅のアートマン)を想定する他のインドの宗教と異なっている。

dukkhā jāti punappuna.

繰り返し行われる (ジャーティ)は苦(ドゥッカ)である

—  パーリ仏典, ダンマパダ 11 Jarāvaggo, Sri Lanka Tripitaka Project

akuppā me vimutti. Ayamantimā jāti. Natthidāni punabbhavo’ti.

わが解脱は達成された。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれ変わることはない。

—  パーリ仏典, 聖求経 26 Ariyapariyesana Sutta, Sri Lanka Tripitaka Project

無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場である[6]。輪廻に主体(アートマン)を想定した場合、それは結局、常住論(永久に輪廻を脱することができない)か断滅論(輪廻せずに死後、存在が停止する)に陥る。なぜなら主体(我)が存在するなら、それは恒常無常のどちらかである。恒常であるなら「我」が消滅することはありえず、永久に輪廻を続けることになり、無常であるなら、「我」がいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。このため主体を否定する無我の立場によってしか、輪廻を合理的に説明することはできない[5]

仏教における輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり[7]、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため[7]、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである。[8]このことは科学のエネルギー保存の法則にたとえて説明される場合がある。[9]この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので[注 3]、意識が断絶することはない。[注 4]また、このような一つの心が消滅するとその直後に、前の心によく似た新たな心が生み出されるというプロセスは、生命の生存中にも起こっている。[8]それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。

仏教における輪廻思想の発展[編集]

原始仏典では基本的に天、人、畜生、餓鬼、地獄の五道輪廻が説かれる。経典によっては阿修羅身(: asurakāya)が説かれることもあるが、この阿修羅は餓鬼(: peta-asura)[10]、天人(: deva-asura[注 5]のいずれかに分類される。もしくは阿修羅道としてひとつの道と看做し六道を説く場合もある。 これら天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を、併せて六道と称するようになった。

後代になり大乗仏教が成立すると、輪廻思想はより一層発展し、六道に声聞縁覚菩薩を加え、六道と併せて十界を立てるようになった。

仏教内における輪廻思想の否定[編集]

一方、ブッダの教説は輪廻の存在を認めるものなのか、否定するものなのかという議論は、現在も、少なくとも日本の仏教学会では続いている。

現代の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、「ブッダは輪廻を否定した」という主張が少なくない[12]。このような言説を包括的かつ批判的に扱った学者として松尾宣昭がいる[13]。松尾によれば、「輪廻の否定」には、ブッダが(1)「そもそも輪廻は存在しない、と考えた」という見解と、(2)「人は輪廻に留まるべきではない、と考えた」という見解があり、両方とも輪廻を否定しているものの、その意味内容は全く異なるとする[14]。この二つの考えは二律背反に見えるが、(1')「ブッダは輪廻の存在を否定していたが、当時の人々が輪廻の観念に縛られていたため、仮に是認した」だからこそ(2')「輪廻という想念に留まるべきではないと説いた」として意味を読みかえる場合に、両立する。このような立場を松尾宣昭は「輪廻想念説」と呼び、このような立場を支持する記述はパーリ聖典には見出されず、「修業未完成者は死後輪廻する、ゆえに修行を完成させて輪廻から解脱せよ」という趣旨の、「輪廻は存在しない」という説とは反対の言葉が多く見出されると述べる[14]。一方で、パーリ聖典の「決定的資料性」を否定し、ある種の「仏教の本質」を想定することで、そこから帰結的に輪廻否定が導出されるとする立場もあるとする。松尾によれば和辻哲郎は「仏教の本質」として無我説を用い、自らの輪廻否定説の根拠としているという。[15][14][注 6]さらに「仏教の本質」を後代に明確化されたの教説に見出し、(1)と(2)の両立性を二諦説によって説明する見解もある[14]。松尾によると、空を用いた輪廻否定は、実質的には無我説を用いたものと同じであり、この場合は「龍樹がブッダの真意を説明した」テキストである『中論』を根拠として提示することができると述べている[注 7]

輪廻転生を理論的基盤として取り込んだインド社会のカースト差別に反発してインドにおける仏教復興を主導したビームラーオ・アンベードカルは、独自のパーリ仏典研究の結果、「ブッダは輪廻転生を否定した」という見解を得た。この解釈はアンベードカルの死後、インド新仏教の指導者となった佐々井秀嶺にも受け継がれている[16][17]。このように輪廻否定を積極的に主張する仏教徒グループを、断見派と呼ぶ。 ー以上より引用ー




仏陀の言説には高度な知性による潔癖性が改めて感じ取れる部分が多い。
其れも原始仏典の方にこそさうした仏陀の知的ー心理的ー潔癖性が色濃く見て取れるのです。


「繰り返し行われる (ジャーティ)は苦(ドゥッカ)である」
「わが解脱は達成された。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれ変わることはない。」


わたくしは仏陀こそが極めて潔癖な心性の持ち主であったことと思って居ります。


生からの脱出などと云う事は普通誰もが思い浮かべことすらしないものです。


だって誰もが逆に生きていたいと思ひ長生きの方をこそ願って居るのです。


でもコレは聖人としてさうなるのであれば或は善きことなのかもしれませんが煩悩にまみれた形で長生きしたってズバリ其れは逆に負の価値です、マイナスの。


ただし釈迦が生きて居た頃の印度思想に於いては其の解脱はむしろ真理探究者にとっての普遍的な価値でもあった。


だから其の解脱はさうした社会的な価値観と釈迦自身の高度な心理的能力によりようやく可能ならしめたところでのまさに奇跡であったことだらう。


諸法が無我ー非我=ほんたうの我に非ずーであることを釈尊は説かれ常住論と断滅論のいずれにも与しない中道の立場を貫かれた。


輪廻に於ける常住の主体が否定されるが故に逆に我執の虚妄性、非実在性が其処に炙り出されて来る。



「この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので[注 3]、意識が断絶することはない。」


ところで「此の流れとして一貫したエネルギー」とは何なのでせう?


生滅後でも意識が断絶せずに続く其の伝播と云うか継続と云うか其の部分にこそむしろ常住性が存して居る。


何やらまるでかのショーペンハウアー先生が説かれた「生きんが為の意志」そのもののやうです。


其の意志乃至は倒錯=煩悩が「生きたいのだ」と願ふから迷って此の世に出て来て仕舞ふのでありませう。


常住の主体が否定されるにせよ意識が断絶することはない、のだそうですからおそらくは何か意識の癖のやうなものが残るのでせう。


まさに其れがかのショーペンハウアーの説いた「生きんが為の表象としての意志」のやうなものではないですか。


其れだけが実は実在して居るので我我は永久に生を繰り返し生きなければならないのか。



が、我の癖(性根)が実在し永久に生を繰り返し生きるのだとしても其れが絶対的に悪ひことだとは実はなかなか言ひ切れない。


即ち、
常住論に対しては常住であることの否定を
無常論に対しては無常であることの否定を


生きたい性根に対しては生きたいと云う性根の否定を
生きたくない性根に対しては生きたくないと云う性根の否定を


死後があると云う者に対しては死後があることの否定を
死後がないと云う者に対しては死後がないことの否定を


利口で困ると云う者に対しては利口だと思い込んで居ることの否定を
バカで困ると云う者に対してはバカだと思い込んで居ることの否定を


男臭ひと云う者に対しては男臭ひと思ひ込んで居ることの否定を
女臭ひと云う者に対しては女臭ひと思ひ込んで居ることの否定を



常見でもなく断見でもない中道の立場とはさうした両極から距離を置く観念上の立場のことです。


相対分別としての両極から離れ虚妄としての分別智を認識主体として設定しない。
虚妄としての分別智による価値ヒエラルキーをあへて構成しない。


~なのではないと同時に其の相対概念をも同時に否定していくのです。



そうすると否定ばかりで其処に価値として固着することが出来ず其処で謂わば価値観が定まらなくなりませう。


なので其の価値観のぶち壊し=価値ヒエラルキーの解体がようやく其処に成し得ませう。


其処がまさに真理の目指すところであり謂わば二項対立(二元的分離)を回避する論理なのです。


ただし無分別の世界ー境地ーがあるかどうかと云うことはまた別の難しい問題です。


何故なら概念ー言葉ーは相対知であり元より絶対化出来るものではないからです。
絶対を言語にて想定した世界は物自体となり語り得ないものと化して仕舞ふ。


なのでほんたうはたとへば神と云う概念を相対知にて分別することなど出来ない。


神と云う概念は信仰であるとか仮にではあっても謂わば絶対的な知見でなければ規定出来ないのであります。


一方でブッダの教説は輪廻の存在を認めるか否かに就いては以上のやうにむしろ輪廻否定論の方に傾きつつある訳です。


ところで輪廻における単立常住の主体=霊魂を釈尊は否定されて居たのでしょうか。


霊魂に就いてはあくまで無記の立場を貫かれて居た筈です。


霊魂=死後の世界のことなので、先に述べたやうに其れは形而上の問題となり分別智としての相対矛盾の枠内でしか捉えられません。


なので其の命題に関しては必然として「語り得なく」なる故釈尊は死後の世界のことを語ろうとはされなかったのです。


ですので死後に浄土へ旅立つんだと云う教へはヤッパリ謗法である可能性もまた高い訳です。


またキリスト教にしても謗法となって仕舞ひます。


つまりは宗教と云うか釈迦の悟った真理の敵、即ち外道のことです。


なんですが、余り潔癖に其処まで考へない方が世の中は丸く収まるものです。



どだい仏陀が語った真理は方便=ウソである可能性もまた高いなんてことアナタ方は御存じでしたか?


釈迦の悟った真理は深甚無量で余りにも理解し難いものであるため仏陀ご自身は其処で悩まれ謂わばダイジェスト版に変更されて仕舞ったのです。


だからほんたうは言葉では伝えられない範疇のものだったのです。


なのでお経にそんなに拘る必要など無いんです。


法華経だけが世界一だとか念仏だけが救われるんだとかそんなのはむしろ地獄へ堕ちる考へ方です。


其の地獄と云うのもまあ比喩としてしか仏陀は考へて居られなかったのではないでせうか。



何でかと申しますと兎に角高度な知的能力をお持ちになられて居たからです。


どだい地獄だの浄土だのには何やら印度の他宗教やら中国の思想やらそんなものの影響が多分に見て取れます。


おそらくはさういうことは余り気にして居られず何か他のことを一心不乱に考へ込まれて居たことかと思われます。



何故なら釈迦は元々思い悩むと云うか物事につき考へ込む癖が若ひ頃からおありでコレはもう暗ひ?からマズいと父王は思はれ妃を与へましたがどうもそんなこと位では其の生まれつきの哲學的性分を変へることなど出来なかったのであります。


其れでもって妃と子が出来たと云うのに其の性分がドンドン高まり或る日馬に跨りパカパカとおお今まさにネパールの暗ひ森の中へと消へていかれたのでした。


なので其れは物凄ひ観念的世界が、其の何としても探索せねばならぬ真理への道筋が今其処にしかと見えておいでになったのだった。


其の何としても探索せねばならぬ○×への道筋と云うのは矢張り男にとっての仕事、其れも真の仕事、其れもイヤイヤやるのではない本気の仕事、母ちゃんやガキに邪魔されず行うところでのまさに男の本懐のことぞ。



が、現代文明の教導に限り地獄と極楽、さうして地獄と天国、さらに悪魔と天使、魔と鬼、はどうしても必要なのです。


現代文明の虚妄分別の度は凡夫の陥ることだらう煩悩まみれの度をすでに遥かに超えて仕舞って居ります。



其の度合いは須らく社会的に膨満され実はすでに個の領域を消し去るまでに肥大化して来て御座る。


第一誰が原爆など創りませう?
誰が環境破壊などやりませう?


どだいアンタ一人で宇宙など行けますか?
アンタ一人で地球を温暖化出来ますか?


アンタ一人でフリーセックス化出来ませうや?
アンタ一人で仏教を滅ぼせませうや?


誰がAIなど創りませう?
誰が資本主義にて全部を垂れ流しに出来ませうや?



なので社会が悪ひ。
との視点を何とか仏法に組み込むのです。


即ち終末観をあへて仏法に組み込むのです。


するとモロ末法思想です。


まさにモロ出しでの自滅思想です。



ですので、わたくしが追求して居るのは真理ではなく現代文明を自滅モードに組み込むことです。


ではなく、現代文明を自滅モードから救ふことです。


現代文明を自滅モードから救ふことは、其れ即ち自分自身を自滅モードから救ふことでもある。



でも厄介ですぜ。


現代文明に飼育された衆生の救済はほとんど不可能に近ひ。


だがやらねばならぬ、其処で曰くなせばなる、なさねばならぬ何事も。


また曰く千里の道も一歩から。