結論としては人間の認識其れ自体が其の侭では世界を滅ぼすと云ふことが次第に分かって来た。
其れ故に宗教は人間の認識を正す為に我我の価値観をまずは全否定してかかる。
何故其れは全否定されねばならぬのか?
其れは人間の認識が偏り過ぎて居るからなのだ。
謂はば生の方、性の方、食ふ方、即ち本能の方へと偏り過ぎて居やう。
聖人はさうした欲の性質を全て分かって居て其れを抑へる方へシフトせよとさう宣ふ。
何処へシフトするのかと云ふに欲望とは反対方向へとシフトするのである。
たとへば女共は其の生への信仰が余りにも強くさう規定されておる。
つまり欲が深く盲目的に生へと縛り付けられておる。
故に其の侭ではまるで成佛などかなはぬ。
元々そんな罪深き現象なので世界の歴史は奴等を縛りに縛りまくっても来た。
ところが其の重要な縛り即ち箍が近代に至るにつれ外されて仕舞ふ。
後は女共の邪な欲が暴れ出しやりたひ放題だ。
男共はまた元々女の尻に敷かれるやうに出来ておる。
其れでもって女共の強大な尻がつひに文明を敷くに至ったのだ。
実際コレでは如何にもマズひ。
文明が滅べば即御飯も食へなくならう。
趣味も何もあったものでは無く只神の怒りとしての災厄が繰り返されるのみ。
故に今わたくしは其の破滅とこそ闘ふ。
文明の持続不可能性と今まさに闘ふのだ。
何故か?
別に聖者だからなのでは無ひ。
文明を継続させ趣味を続けてやっていきたひばかりでのことよ。
至極下品にさういふことよ。
君等もまた其の下品でいくべきだ。
さうして女共の尻に敷かれつつ破滅と闘っていきなされ。
だが常に逆方向を向きつつさうしていくのじゃ。
かうして文明に毒され精神の方向性を間違へて居てはならぬ。
尚此の世には偉ひものなど何処にも無ひ。
聖なるものは偉ひのではなくして只勘が鋭ひだけだ。
聖なるものとは脳減る賞級の科学者や國家の指導者などでは無く佛陀やキリストに只黙って仕へし者のことだ。
さて、其れではこれより佛陀の教説につき學んでいくこととしてみやう。
まず、佛陀とは佛教と云ふ宗教の祖ではなくしてあくまで超人としての祖である。
超人とは勿論解脱者のことだ。
解脱とは悟りを拓き此の世から消へ去ることを云ふ。
実際に佛陀の教説には信仰を否定せよなどと云ふ部分が屡出て来る。
では佛陀とは果たして何者なのか?
佛陀とは最も完全な形での当時の社会に対する批判者であった。
日本の大乗各宗派はたとへば世界に対する報恩感謝を屡説くが佛陀其れ自身は感謝どころでは無くまさに世界への批判のカタマリであった。
そんな超利口な佛陀は同時にキリストと同じくして心が清ひ方での最右翼の人でもあらせられた。
超利口な奴は兎に角批判力が物凄ひ。
其の批判力其れ自体で地球をブチ壊して仕舞ふ程に其れは物凄ひ。
邪教にせよまた破壊力は物凄くまさにオウム教にせよそんな破壊力の一端を見せつけて居た訳だ。
兎に角理性のある奴の頭の中身は理系だらうが文系だらうが或は聖人系だらうが滅茶苦茶に凄くてまさに世人の想像の及ぶところには非ず。
でも多分其れは所謂IQの指数だけでは示されず他にEQだの何だのもっと別の測り方があることだらう。
ちなみに藝術系の才能なども当然のことではあらうが其のIQなどではまるで測れぬものである。
また大學での成績や大學のレヴェルだけでは其の眞に頭が良ひかどうかと云うことの価値基準にはなりはしなひ。
大學など出て居なひ奴でも大學を首席で出た奴並に頭の良ひ奴は事実として世間には居るのである。
だからさうした世間での価値ヒエラルキー等級により価値其のものを決めつけていかぬ方が良ひことだらう。
我は自分が利口だとさう述べて居る世界で独りだけの馬鹿だが其の馬鹿も利口もあくまで相対的な基準であり何に対してさうなのかと云ふ部分にて其れこそ利口にも馬鹿にもまた変はるのだ。
そんなお利口=超理性的な方佛陀は兎に角宗教などと云ふ枠組み其れ自体に元々関心を抱かれては居なかった。
何故なら宗教其れ自体が権威化することで逆に眞理を見へなくする=眞理を放逐することにも即繋がるからなのだ。
宗教とはそんな悲しき組織の業=社会の業を背負ひしものでもまたあらう。
社会とはそんな矛盾的推進の要のことであり、社会を推進すればする程に矛盾はより深まり眞理など隠蔽されむしろ俗調へと流されていかう。
さういふのが分かるのこそが眞に頭の良ひ人のことなのだ。
其れでもって佛陀は俗世間はむしろ此の侭に捨て置ひておかうとさう思はれて居たのである。
コヒツラに関はると必ずや其処で社会に汚されるのでもう眞理を語るのは止めておかう。
だが明らかに社会の教説=バラモン教による思想は間違って居た。
其処は丁度近代西欧哲學が間違って居る今とまるで同じ状況であった。
釈迦は最終的には其の眞理への誤解其のものが許せなかったのだ。
だから釈迦は以降其れをボロクソに批判した。
信仰⇔無信仰
形而上学的問題につき論議する⇔形而上学的問題につき論議しなひ=無記
ウパニシャッドを始めとする他の宗教各派の主張と正反対のことを今まさに述べられたのだった。
特に衝撃的なのは初期の仏典に於ひてーパーリ語の経典ー信仰が否定されて居ることであらう。
日本の大乗各宗派は特に俗化して居る仏教であるに過ぎず其処で信心だの信仰の大切さなどが屡説かれるのであるが何と釈迦は其の信仰を否定して居るのであった。
何故か?
信仰➡宗教化➡宗教的権威化➡価値ヒエラルキー化➡不純化ー邪教化ー
と必然的になるのが世の常である。
わたくしは最近になり此の事実に気付きまさに愕然としたのであった。
さうして釈迦こそが本物の宗教家なのだと其の時にさう思った。
何故ならかのキリストでさへ其の信仰をこそ後生大事に説ひて居られるではなひか。
だが理窟を優先すればむしろ絶対に眞理を宗教化=社会化などしてはならぬのだ。
わたくしは其の釈迦のある種非情なまでの理窟っぽさに心底惚れて仕舞った。
もうお嫁さんになるならお釈迦様しかなひ。ー?ー
兎に角理窟っぽひわたくしはそんなじぶんに勝る理窟の持ち主であるお釈迦様に屈服させられたと云ふ訳なのだった。
では、何故我など我では無ひ、つまり我に非ざる我を我と認識してはイケナヒのであらうか?
まず、古代印度の思想ではアートマンとされる眞我の實在を主張し其れを内観し最終的には宇宙的自我であるブラフマンと一体化することで解脱を目指さうとする。
其の解脱を目指さうとする点に於ひては釈迦は否定しては居なひ。
かっての釈迦には社会生活があり妻子もあったがまさにとんでもなひ理性がそんなものはタダの幻影だ。
そんなものを続けて居ても此の苦悩の人生の解決にはまるでならぬのでもう全部捨て去り求道への修行を始めるのだ!
とさう決意され森の中へと静かに入っていかれたのだった。
価値ヒエラルキーと云ふしがらみが眞理への道を阻むので其れを丸ごと打棄り今まさに乞食求道者の生活へと入られたのだ。
森の中には🐒やら🐗やら🐅やら🐍やらまた他の修行者やらが跋扈して居たがさういふのとは関係無くお釈迦様は其処に静かに座し眞理へと至る道を希求され始めた。
其処へ🐍が現れお釈迦様をつっつくがまるで意に介されぬ。
何故ならすでに眞理への価値ヒエラルキーを御登りになって居られるお釈迦様にはそんな現實などどーでも宜しひことで其の頭の中にはアートマンの實在への疑惑即ち批判のみが日増しにムクムクと頭を擡げつつあった。
かうして静かな森の中で熟慮に熟慮を重ねた揚句に結果アートマンの實在は否定されなければならぬことをお悟りになる。
結果アートマンは✖。
概念的にアートマンを設定すること其れ自体が✖。
釈迦の論理はまさに徹底して居られる。
だからもはや其の時点でどんな女とも縁が切れて居らう。
つまりは女も✖。
釈迦の論理はまさに否定に否定を重ねるやり方なので滅茶苦茶否定的で其れは世人には理解し難ひことだらう謂はばマイナスの要素に充ちしものだ。
さて、まさに此処で釈迦は生命の基本的な原則である生殖を捨て去ったのだった。
生殖を捨て去り社会の常識である哲學をも破断する。
おお何と凄まじき反抗なのだらう!
其の点に於ひては確かにイエス様の社会批判の方もまた凄ひ。
だがお釈迦様の場合は宗教に対しても否定的に捉へられて居た部分こそが多分もっと凄ひところなのだ。
要するに此のお二方こそが社会の全否定へと走られた歴史上唯一のケースである。-洋の東西でもってして-
社会を全否定出来る人間などは其れ以外にはまるであり得ぬ。
わたくしの場合は全否定など元よりしては居らぬ故。
但し社会に対しては確かに常に否定的なのだけれども。
佛陀が宗教其のものを否定したのは所謂宗教的ドグマによる価値ヒエラルキー化其のものを否定されたのであらう。
此のことからも佛陀御自身が何宗だの何派だのさうした宗教のヒエラルキー化をまるで望んでは居られなかったことが其処に良く分からう。
ところが宗教は社会的にしか成立しなひもので、まさに其処にこそ宗教に於ける自己矛盾の領域が潜んで居るものなのだ。
だから其処で伝統的宗教や其の高僧が権威化したり邪教が教祖を祀り上げたりすることにも陥ることであらう。
其のやうなものは人間の苦を消し去るに足る眞理とはまさに乖離したものであくまで世俗としての価値観の中に留まるものなのだ。
尚佛陀もキリストも社会に反抗しやうとして反抗したのではなく人間が眞理へと至る其の道の構築の為には誤った社会の上での認識を正さうとして結果的に其の社会への批判を展開したのである。
ーひところ世尊は、サーヴァッティの郊外、ジェータヴァナのなかのナータビンディカの園におられた。そのとき、尊者マールンキャプッタは人影のないところへ 行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち — 世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであ るとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか…、 これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしに とって容認できることでもない。だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう……。もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれない ようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」(中略)
「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」
「師よ、そのようなことはありません。」
「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。
マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ。」 以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。ー
(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473〜478頁)
かうして釈尊の原始佛教に於ひては形而上学上の諸問題が徹底的に無視ー無記ーされていく。
其れは何故か?
其れが佛法の目的に対してはあくまで無意味な議論に終始するだらうことが分かって居るからだ。
但し後に世俗化しより社会化した大乗仏教に於ひてはむしろ死後の救済を意味化しまた現世利益や神秘主義を信奉しまさにアートマンの如き眞我を設定する宗派が興隆したりもする。
さうしたものはむしろ逆佛法であり佛法に似ては居るが釈迦の教へとは乖離したところでの「中国経由での日本の仏法」なのである。
しかれども此のやうな末世に於ひてはさうしたある意味では不純な佛法にせよあくまで仏法は仏法。
問題は西欧近代思想による文明の自滅化にこそ存し不純なる佛法に其の責が帰せられて居る訳では無ひ。
其のやうな意味で原始佛法を一通り學んだ後のわたくしは其の大乗仏法をあへて受け容れることとしてみた。
だが佛法の原点だけは常にしかと捉へておかねばならぬ。
釈迦の佛法は謂はば二重否定による思考法を取る。
まさしく其れが所謂中道に於ける立場での思考法なのだ。
此の二項対立を共に否定することにより乗り越へていかうとするのだ。
よって、アートマンー眞我ーは有るのでも無くまた無ひのでも無ひ。
まさしく其処が中道の立場なので無論のこと其処で無ひとは断定されぬ。
此の無用な断定は避けると云ふまさに理性的な態度こそが釈尊の基本姿勢なのだ。
或は無意味な戯論を理性的に避けると云ふことでもまたあらう。
かようにわたしは聞いた。あるとき、世尊は、サーヴァッティの祇園精舎にあらわれた。その時、ヴァッチャという外道の行者が、世尊を訪ねてきた。二人は友誼にみち礼譲ある挨拶を交わしてから、さて、彼は世尊に問うて言った。 「世尊よ、あなたは、世界は常住であるとおもわれるか。これのみが真であって、他は虚妄であると思われるか。」 「ヴァッチャよ、わたしは、そうは思わない。」 「では、世尊は、世界は常住でないという意見であるか。」 「そうではない。」 ・・・(中略)・・・ さらにヴァッチャは、霊魂と身体とは同一であるか別であるか、人は死後もなお存在するか存しないか等のことについて、世尊がいずれの意見であるかを問うた。だが、世尊は、そのいずれの意見をもとらない旨を答えた。
かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。 「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」 すると世尊は、かように教えて言った。 「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマニカーヤ 中部経典72、増谷文雄訳「火は消えたり」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、240〜242頁)
霊魂は有る⇔霊魂は無ひ
即ち佛陀の思考法によれば、霊魂は有るのでも無くまた無ひのでも無ひ。
だからより正確には其の種の形而上の問題を論ずること其れ自体を無意味として放棄して居るのである。
宇宙は有限か無限か?
世界は永遠か一瞬か?
21世紀中に人類は滅亡するかしなひか?
死後の世界は有るか無ひか?
観念ー精神ーと肉体ー物質ーはどちらがより高等か?
女が馬鹿なのは神が定めしことか否か?
男が理窟っぽいのは神が定めしことか否か?
日本人は馬鹿か其れとも利口か?
動物と人間とではどちらがより幸せに生き死んでいけるのだらう?
永遠不変の佛と永遠不変の神とはどちらがより偉ひのか?
そも永遠不変の佛は有るのか無ひのか?
そも神は永遠不変の佛を認めるか否か?
お釈迦様とイエス様とでは果たしてどちらがよりお利口なのだらう?
お釈迦様とイエス様とでは果たしてどちらがより潔癖なのだらう?
阿弥陀様を信じつつ天国へ間違って行く場合などが有るや否や?
イエス様を信じて浄土へ間違って行く場合などが有るや否や?
唯物論者は一体どうやって物ばかりの中で死んでいくのだらう?
観念論者は理窟として正しひか否か?
懐疑主義者は一体どうやって疑惑ばかりの中で死んでいくのだらう?
實は其のやうな問ひー一部にバカバカしひものも混じって居るがー自体を放棄すること自体が眞の智慧なのだ。
と云ふのも、人間の脳の活動は限定されて居るが故に下らぬ問題に頭を悩ませる程に眞理への思考が其処に堰き止められて仕舞ふ。
さうした雑念にて思考が腐り眞理への思考が破断されて仕舞ふことこそが人間にとっての悲劇ぞ。
また👩の尻に敷かれたり女のことばかりが頭の中にちらつくやうではまさしく其れも眞理への思考をたぶらかす悪魔の所業ぞ。
但しもう修行は止めたとさう観念されるのであればまた其れもひとつの道、確かに道はひとつでは無ひが故に其れは其れで只悪の道をひた走るのみ。
だが人間の営為は所詮は全てが修行。
其れが修行では無ひとする考へでは所詮は全てが矛盾化しやう。
所謂諸行非常とは、「恒常的に永続する価値の非存在性」が述べられたもので、逆に言へば其れは「永続することの無ひ非恒常的な価値の現象性」が述べられたものでもまたあらう。
即ち眞の価値とはむしろ現象せざる価値のことを言ふ。
現象せざる価値には存在性が有り現象する価値には逆に非存在性しかなひこととなる。
と云ふことは我我は今を仮に現象して居るだけのものでありしかも其の現象は変化に次ぐ変化にてむしろひと時の安住の時さへも与へられぬものなのだ。
何故落ち着ひて変化することを望まずにさうして変化していくのだ?
変化していくやうな認識を我我個が其処でそもして居るからだ。
其の認識自体がかうした不完全な世界に認識主体を縛り付けて居るのだ。
認識主体?
其れはアートマンでありかのプラトーンに於けるイデアのやうなものなのですか?
もとひ、言葉の使ひ方をつひ間違へて仕舞ひました。
あくまで仮の認識主体とでもしておくべきでしたね。
其の主体こそが自我ですので佛法は其れを否定していくのであります。
何故なら諸行は非常だからこそ諸法は非我なのです。
初期の佛法は「永遠不変のアートマンは存在しなひ」と思想的にと言ふよりも事実認定としてさうして規定します。
では永遠不変の神もまた存しなひのですか?
とりあへずは存在しません。
但しより正確には「永遠不変の神が存するのでは無く且つ永遠不変の神が存しなひのでも無ひ」です。
アートマンの方も同様に、より正確には「永遠不変のアートマンが存するのでは無く且つ永遠不変のアートマンが存しなひのでも無ひ」です。
尚認識主体を否定的に捉へる佛法こそは極めて異例な思想的展開なのだと言へやう。
何故なら其の認識主体に寄り掛かり現世での辛さを我慢しつつ生きあの世でようやく解放されるのが我我凡夫の夢でもまたあったからです。
かうして現世の価値ヒエラルキーに抑へ込まれおまけに搾取され続けることで到底自己実現など出来ぬ庶民はあの世で救われたひと思ふのが人情と云ふものでせう。
其れであの世が無ひと云ふことにでもなりますと其れはもうエラヒことになっていきませう。
其処でもって民衆の不満が溜まりに溜まりもう革命しかありませぬ。
さうしてイザ革命すると王族も貴族も皆ギロチン台にかけられて仕舞ひませう。
と云うことは原初での佛法とは一種の革命思想だったのですか?
まあさうでせう。
即ち佛法の前に人間は皆平等なのですし、コレはもう明らかに革命思想でせう。
但し其処では労働は否定的に扱われて居りますので社会主義や共産制とはまるで違ふものです。
あくまで眞理への原理主義とでも申しますか、そんな理性への指向性が強く感じられるものです。
其の認識主体の否定ー我の否定ーは普通の宗教にはとてもあり得ぬものでありまさに釈迦の佛法が特殊なものであったことを明らかに指し示すものです。
然し其の特殊性ー非常識性ーの中からこそ眞理への指向性がまさに「目覚める」のです。
世の中ー社会ーとは正反対のことを釈尊はさうして説かれ「目覚めた人」となっていかれた。
「目覚めた人」などこれまで人類史の中で御二方しか居られません。
勿論其れはお釈迦様とイエス様のことですね。
釈尊の思想は永遠不変の神の存在をとりあへずは否定して居りますが其れもより正確には「永遠不変の神が存するのでは無く且つ永遠不変の神が存しなひのでも無ひ」のです。
とりあへずは永遠不変の神の擁立を其処に無記ーまあ無視にも近ひーされて居り要するに問題にすらして居られぬ訳で其処はまあ冷たひと言へば確かに冷たからう。
なのですが、ほんたうのほんたうは否定ばかりでも無ひのであります。
お釈迦様はお利口な弟子などに対して其れまでの教説とは正反対のことを述べられたりもして居りますので其処は余り固定的にかうだと決め付けなひ方が宜しひことかと存じます。
お釈迦様は超お利口であらせれたばかりか超柔軟でもまたあらせられたとへばわたくしのやうな屁理屈の立つタイプの人間には最初期の佛法とは逆の教へを説かれる可能性などがまた高く存しても御座りませう。
おまへは屁理屈が立ち過ぎても居やう。
故に其れに応じてひとつこんな教へを説ひてあげやう。
まずは👩の方を向け。
さうして其の女の尻にでも敷かれてみよ。
また我は有るぞ。
諸行は常住ぞ。
其れに永遠不変の神はあるかもしれぬぞ。
どうだ、分かりましたか?
まるで分かりませぬ。
おそらくは何年學んでも決して分からぬことかと思はれますが。
其れでも分かるやうになるべく努力はしてみるつもりです。
此処はひとつ久し振りにラヴレターでも書ひてみやうかな。
さて其の認識主体の否定ー諸法非我ーと常住ー恒常ーの世界の否定ー諸行非常ーは少なくとも対の概念となって居ります。
と云ふことは矢張りと云うべきか、認識主体の肯定と常住の世界の肯定もまた一セットになって居ります。
より厳密には認識主体と肯定と否定と云ふ二元分裂と常住の世界の肯定と否定と云ふ二元分裂の此の四面の要素に於ひて相剋と相即の関係が成り立ちはしなひかと最近はさう考へ込んで来ても居ります。
いずれにせよ正反対の要素の対立ー二元分裂、二項対立ーと云ふものはまさに此の世の成り立ちの根幹を成すもののやうです。
まさにキリスト教に於ひてもまた佛教に於ひても出て来るものですのでわたくしにとっては其れこそがまさに一大事なのです。