目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

北海道へ行きたい

おおーコレぞまさしく神の怒りぞ!


大水害に大地震さうして大停電に大弱り。

まさしくこれぞ神の御心による現代文明崩壊の様よ!


瞋り狂う神のとめどない攻撃が文明の弱点を悉く突き全てを崩壊させるぞよ!

嗚呼おそろしや、おそろしや。

何が怖いと云って神の怒り程怖いものは無い。


其れも毎日怖い。
毎日が大災害、大破壊の真っただ中だ。

まさに毎日が神によるお諫めの言葉の羅列そのものだ。

毎日が其の子宮思考へ鉄槌が下される日々だ。


其れもまだまだ続くぞよ。

大台風がこれからまだまだ次々と来るぞよ。

地震などもあるやもしれん。


文明よ、其処で文明らしく余裕を持ってなど居てはならぬ。

文明よ即刻反省せよ!

全てはやりたひ放題をやって来た罪深い文明生活に対する罰だ。

これぞまさしく罰なのだ!







うわー、助けて呉れー。どうかどうかお助け下されー。


神の怒り


教父[編集]

アウグスティヌスは神の怒りとは、罪に対して罰が科せられる裁きであるとする[1]キリスト者はやがて来るべき日に御国に入れられるが、神なしになにもすることはできず、神の怒りに落ちる他はなかったと述べている[2]

カトリック教会[編集]

地獄の火は罪人に対する神の激しい怒りをあらわすとされる[3]

福音派[編集]

聖書は全人類が神の怒りの下にあると啓示している。福音は、人をクリスチャンとノンクリスチャンの二種類のグループに分ける[4][5]イエス・キリストの福音が非キリスト教のノン・クリスチャンの世界[6]に対して言うべきことは、神の怒りだけである[4]
以上より引用



イエス・キリストの福音が非キリスト教のノン・クリスチャンの世界に対して言うべきことは、神の怒りだけである」

こりゃーまたひでえことを云うてやがる。

まあ確かにキリスト教から見ての無神論としての仏教は悪魔崇拝ー特にチベット密教に対してはまさしくさうだーそのものだとも一面では言える訳でして。

でも逆にキリスト教など認めて居ない原理主義仏教徒も居るには居るのであらう。



しかしながら神の怒りだけは事実として存在する。

神は佛には無い怒りをお持ちだ。

尤も佛は優しひ。

優し過ぎる。

だが神は怖いぞ。

どだい一神教の神程怖いものは無い。


神は北朝鮮弾道ミサイルよりも確実に怖い。

此の厄介な地球温暖化も実は神の御業のうちのことじゃ。



だからこそ神を畏れよ。

特にカトリシズムに於いては「地獄の火は罪人に対する神の激しい怒り」の意じゃ。

地獄がボウボウと燃え盛り罪人つまり現代人のふしだらな生活を焼き尽くすのじゃ。

対して仏様は終始穏やかなお顔をなさって居り決してお怒りになどならぬ。



其れは何故か?

つまりは教義としての目的が違ふ。

即ちキリスト教では神を信ずる者達が霊的に救われ神の國にて永遠の命を授けられ生きていかう。

然し仏教ではそんな霊などどうでもよろしく、もう兎に角全ての執着を捨て去り完全に人間では無いもの、生命でもないものになった時に初めて仏陀と云う存在になれやう。


だから仏教に於いては生死の区別など悟りに対しての大した問題ではない。

逆にむしろ其処に拘って居る事こそが悪魔過程としての生を存続させる契機ともなり得る。

だから究極の放棄と究極の救いと云う其の目的そのものが異なるのである。


西洋人や中東人の顔がチベットや中国人や日本人や東南アジアの人々の顔と全然違うと云う事と同じくして宗教としての着地点、着地の次元のやうなものがそも異なっていやう。

ただし其のままではどのみち生は悪魔過程であるに過ぎない。

どちらにせよ其れではイカンと云う事なのだ。


イカンのでかう何とかしやうとして居るのが宗教の役割なのだ。

どうだ皆様は宗教のほんたうの意義がお分かりになられただらうか。


宗教のほんたうの意義とはまさに人類を悪魔の世から救う為にこそあるのだ。

だがキリスト教福音派が仏教を悪魔の教えだと決めつけるのは其れは誤りだらう。

皆様は何派でないと正教ではないとか余り其のやうに固執するのはもはや時代遅れである。


なんとなれば今や世界は混然一体となり大問題の大坩堝と化した悪魔そのものと格闘中である。

其のやうな時に何教だらうがそんなもん関係ねえ。





不信心と不義、コレはもはや何教に対してと云う事ではなくまさしく現代文明の抱える不信心と不義の問題であらう。

合理主義は不信心と不義を蔓延させる悪魔教の別名のことだ。

無論のことアノ理解し難ひ幸福の科学の方が遥かに其れよりも偉ひ。

たとへば合理主義と幸福の科学のどちかへ入らねばならぬのであるなら迷わず幸福の科学へ入り是非幹部にでもなってやる。


兎に角何が怖いと言って合理主義による合理的な世界解釈ほど怖いものは無い。

だから宗教とは危険思想ではない。

だから此の際天理教でも何教でも赦す。


だが合理主義だけは絶対に赦されぬ。

まさか合理主義の奴隷となりアンドロイドと結婚させられるのだけは御免だ。

また脳味噌に何かを埋め込まれロボット化されるのだけは御免だ。



尚、浄土教乃至は浄土真宗は明らかにキリスト教の影響を色濃く受けた仏教である。

だからキリスト教は浄土宗乃至は浄土真宗をバカにして居てはいけない。


謂わば兄弟宗教だ、其の救済の構造に於いて似たところもあると云う意味に於いてあくまでさうだ。


浄土系の仏教が説く極楽浄土とは明らかに神の王国=天国のやうなものだ。

ただ神乃至はキリストの代わりに阿弥陀仏が其処におわすのである。





尚他力本願の仏教思想は所謂末法思想と結びつき終末論的な傾向を見せることが多い。

日蓮宗や浄土系の宗派は成立当時の時代背景もあり明らかに終末論的であるが本来は仏教に於いて終末論的な解釈は相容れぬものである。

其処からしても特に浄土系の宗派はもうほとんどキリスト教的な世界観と一致して御座る。

でなのか浄土系の僧侶は威張っては居らず何やら申し訳なさそうにコソコソと動き回って居られるが其処は確かに腰が低くてなかなか宜しい。


或いは浄土系の宗派の坊様ならば神父様や修道士の方々とも仲良くなれさうな気もするのであるが果たしてどうであらうか。


だが末法思想には実は大した根拠は存せずキリスト教のやうにむしろ其の終末観が教義の根幹を成して居るものとは本質的に異なる。




なお、禅宗でも末法はあるが、曹洞宗の開祖・道元は『正法眼蔵随聞記』において末法思想を方便にすぎないとして否定している。 以上より引用

ただし、仏教では、原始仏教・初期大乗仏教を含めて、本来この世の始まりや終わりを説いていない(釈尊は時間に終わりがあるか、ないかという問いに対し、意味のない議論(戯論)であるとして「答えない」(無記)という態度をとっている)。さらに大乗経典の中でも、涅槃経などでは末法の世における救いを力説し、悲観的な見方を根本的に否定している。平安以降に広がった地蔵信仰では、地蔵菩薩釈尊入滅から弥勒菩薩が現れる間(末法)六道全ての衆生を救う役割を担うとされる。したがって、これらから仏教における末法思想は、この世の終わりを意味するような終末的思想とは異なることが理解できる。 以上より引用



釈尊が超利口なのは、まさに戯論として時空の問題を認識対象とはせずかつたましひの問題に就いても決して触れやうとはしなかった点にこそある。

ゆえに原始仏教の意義とは其の超利口な釈迦牟尼大乗仏教とは異なり可成に合理的に考えられたところでの一種の科学的ですらある論理にこそ存して居やう。

ただし合理的ではあるが合理主義ではないのである。

其の区別の部分こそが難しいのである。

そしてアノ超利口な釈尊末法の世を認めて居たとは考えにくいのである。



其の救う、と云うのは本来の仏教ならばあくまで自分で自分を救うのである。ー自力本願ー

ではあるが其れが余りにも衆生にとっては難しい為に大乗仏教となり佛なり佛の世界観に救って頂く思想ー他力本願ーへと変化していく。

他力本願に関してはかっては疑問を持たなかったのだが40歳位から懐疑的になり55歳の頃まで其の流れが続いたものだった。

だが還暦を前にして今は逆に他力の価値のやうなものを感じない訳でもない。


終末論的な悲観論に関してはむしろ其れはあった方が良いのではないかと考へるやうにもなって来た。

第一地獄と云うのは無いよりもあった方が良いのではないか。

死刑制度も無論のことあった方が良い。

じゃ、もしリベラル思想の云うやうに死刑制度を撤廃すればかのオウムの犯罪者も皆終身刑と云う事で終わって仕舞ふのだ。

それではケジメが付かないですよ。



だからケジメ、即ち節操を持つことこそが一番大事なことでありむしろ現代人などはいつも恐怖に脅されて居た方が少しはシャンとする筈です。

従ってわたくしの場合にはキリスト教的な終末観が嫌いではない。

ただし本来の仏教にとり其れはむしろ拘るべき問題ではないのだ。


本来の仏教にとり拘るべきなのはまさに生殖器の制御であり掃除洗濯育児=生活をひとつひとつきちんと行ふことである。

まさに其れが修行の内容なのである。

お経や題目を唱えたりお墓へ参ったり宗教的な活動を行うことよりもまずは其れこそが仏法の基本として最も大事なことだ。

されど仏教徒として終末観に精神を支配される必要はない。


でも其れが無いと低級な人類は野放図になり過ぎて仕舞うきらいがあらうから矢張り地獄や神の怒りはあった方が良いのだと思ふ。




ところでかのトラピスト修道院は今回大丈夫だったのか?当別トラピスト修道院 ー女人禁制ー

修道士は此の度の大災害を矢張り神の御怒りと受け取りこんな停電の時にも神への祈りを捧げて居られるのであらうや?


トラピスト修道院の周りの美しい大自然、嗚呼まさに北海道としての汚れなき其の無垢なる自然はもしやグズグズになって居たりしなひであらうな。当別の自然



わたくしの幼き頃よりの大好物がコレじゃ。

然し此のやうな時に間違っても食欲の方へと走ってはならぬ。


兎にも角にも神への祈りを捧げ一刻も早う其の御怒りを、其の文明を滅ぼす為の大災厄の数々を何とか止めて頂かねばならぬ。

いや止めずとも良い。

でもとりあへずは止めておかう。


何故ならばわたくしはまだ北海道を訪れたことがない。

兎に角命のあるうちに一度は行きたひのが北海道だ。

詩人は是非北海道へ行かねばならぬ。


無論其処で詩を書き其れでもってH氏賞を取るつもりだ。

なので北海道よ早う復旧せよ。

それでもって我はどこまでもどこまでも北海道へ行くぞよ。

でも冬は行きませんよ、何せ寒いので。