目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

聖フランチェスコに學ぶ清貧の思想


此の世界はどうも価値観の持ち方次第でどのやうにでも変わり得る世界なのではなかろうか。

ただし普通にして居れば其れは劣化乃至は悪魔化して行かざるを得ない世界なのである。


其れは何故か?

まさしく子宮思考こそが此の世界を支配する原理だからだ。

子宮の価値観こそが生を推進させる矛盾的展開そのものだ。


だが普通は其の子宮思考こそが護られて居やう。

謂わば悪魔に護られて御座るのだ。

故に子宮思考は普通批判に晒されることがない。



確かに子宮思考を批判するのは野暮である。

だからレデーファーストは誰も批判などすることなど出来ぬ。

ただひとつ自称の詩人のブログを除いては其れは成らぬ。



兎に角詩人は何ぞ女に恨みでもあるのか女に対して言いたひ放題だ。

其処での子宮思考を即刻止め修道院か又はお寺で修行せよと述べて居るばかりだ。



では何故其のやうな修行が必要なのか?

結局滅びない為にだ。

神の怒りを被り文明が滅ぼされぬやう其のやうに腐った価値観とは決別して置く必要が是非あらう。



腐った価値観とは近代価値ヒエラルキーそのもののことだ。


まず三越高島屋でのお買い物で大きな欲望を解放しさらにSEXをする。

SEXは夫婦なら良いやうなものだが実は其れにも落とし穴があり基本的には子孫を残すことこそがヤバいことそのものだ。


ヤバいことばかりして自分の頭では考えないのが大衆の常なので実はほとんどの人が大衆でおそらく此の数キロ四方で詩人なのはわたくしだけだ。



さて其の修行により生殖器の働きを極限まで抑へていけと先に述べた。

だがわたくしに限り抑へてなど居ない。

だからわたくしは下品で色んな物をバクバク食ふと毎回述べているではないか。


だから何も抑へてなど居ない。

君等こそが抑へよ、とさうおススメして居るばかりだ。



どだいわたくしなんぞはもはや半分死んでも居る。

謂わば死にながら生きて居やうから元々女には縁がない。


わたくしに縁があるのは自然でありたとへば哀しみであり慈悲であり其れにアガペーである。

君等に縁のある淫蕩なSEXの世界とはもうまるで異なる聖なる次元を好むと好まざるに関わらずわたくしは生きて行かざるを得なひ。



さうしてわたくしは動植物との会話が出来る。

其れも君等には理解が適わぬことだらうがわたくしにとっては其れは不思議でもなんでもないことで言わば日常茶飯事のことである。


とは云え其の会話能力が實はさほどのものでもない。

少しだけ、普通の人よりは少しだけテレパシー能力のやうなものがあるだけのことなのだ。


が、実は27歳から40歳まではまるで女房同然に付き合って居た女がかっては居り其の頃は今より遥かに常識的で百貨店での買い物などが大好きであった。

どだいお買い物は元々好きで何ぞ美味いものを食ふのも大好き、しかも適度に淫蕩で常に旅行へ行きたひと云う類での人間だ。

即ちそんな俗物だが知的能力も少しはありしかも自然との交感能力が並ではない形で存して居る。



おまけに何処か女臭い。

意外と男臭い癖に何故か女臭くもある。



其のやうな特殊なタイプなのでまっとうな道はまず歩めぬ。

そんな両極を持ち合わせた人間だからなのか仏教徒の癖にキリスト教にも大いに興味が御座る。


或いは両性具有、其れも精神的に或はそんなタイプなのであるのやもしれぬ。



ところで其の子宮思考こそは真面目だ。

まるでふざけて居ない、まさにまさに生ー性ーに対してクソ真面目なのが女の思考である。

そんな百貨店でまたはグアムでの或はハワイでのお買い物が大好きで其のお買い物にも宗教にもはたまた家の存続や社会生活に対しても頗る真面目=画一化されし単純思考による縛りが強い=強度の信仰度を決まって持ち合わせて居るのが其の子宮思考の特質だ。


しかしながら此のクソ真面目振りこそがハッキリ言って一番怖い。



究極的には此のクソ真面目主義が、文明に於ける進歩主義即ち合理的解釈に拍車をかけやがては神の怒りを被り文明を滅ぼす人間の精神のあり方としての元凶なのさ。


ところが男性の場合には屡其処で不良化する。

つひ日本刀を振り回し極道者になってみたり或は現実離れした詩人となり世の価値観に真っ向から反対し世を惑わせたりもする。


或いはちゃぶ台をひっくり返すわ、またリヤカーをどこまでも引いていくわでどう考えても其処は反社会的であり無秩序そのものだ。

だからそんな男の器量こそが今求められて居るのだ。


逆に言えばお買い物思考、しかも我が子のみをつつがなく此の世で生かさうとする其の子宮のベタベタ思考、そして其のベタベタにクソ真面目でもってして科学技術がスマフォだAIだ自動運転だ、フリーSEXだと狂った思想をひけらかす度にウンウンさうだと其れに向き合い、嗚呼きっとコレこそがコレこそが最新のこの上なく正しひ考へなんだわ。


と何の躊躇もなく其れに飛びつき学校が共同体が天皇制が民主主義が須らく此の腐った子宮思考に染め上げられ秩序化するに至る。



いやはやそんな誤った秩序の元に統一されるのであった。

だからそんなことでは神の怒りを被ること必定じゃ。

では神は何を欲して居られやうか。



神は純潔と清貧に甘んじて生きることこそを欲して居られやう。


だから飯なんぞは粗食で良く其れも三越高島屋で惣菜を買って来るのではなく汝等女が全てを丹精込めて一からつくり上げるのだ。


飯をつくるのにおよそ三時間は要さねばなるまい。

さうして掃除洗濯にはおおよそ五時間を要する。

だからコレらだけで八時間が必要でもう其れだけで日が暮れて仕舞ふ。

しかも夜次の日の準備をしておかねばならぬ。



だとすれば8時から20時頃まではずっと家事をやり通しで居なければなるまい。


其のやうな殊勝な心掛けにて家事をこなしてこそ其の女の労働を神が御認めになるのだ。

左様に清い労働にて腐った子宮の欲望を須らく浄化しておくことこそが肝要だ。



さすれば汝等が邪な性欲に走ることなどは金輪際なからう筈。

女の身でひょこひょことそんな夜遅くに出歩いて居たりしてはならぬ!

まずは自らが邪であることを自覚せよ、其の真黒き腹の中身そのものを自覚せよ。




   

フランチェスコが求めたものは異端を帰順させたり、いかがわしい聖職者を断罪することではなく、ただ神を讃美し、小鳥やオオカミなどをふくむ神のあらゆる被造物を自分の兄弟姉妹のように愛し、福音を伝え、単純と謙虚の道を歩むことであった[127]。フランチェスコは、ウサギセミキジハト、ロバ、オオカミに話しかけて心がよく通じ合ったといわれる[128]に説教を試み、オオカミを回心させた伝説が知られ、とくに小鳥に説教した話は有名である[注釈 1][129]。『聖フランチェスコの小さい花』にも、説教を聞く者がいないときフランチェスコは小鳥を相手に説教したという逸話が収載されており、同様の伝承は数多く伝えられている[130][注釈 2]
フランチェスコの以上のような事績から、1978年から2005年まで教皇位にあったヨハネ・パウロ2世は、1980年、フランチェスコを「自然環境保護の聖人」に指定した[131]
フランチェスコにとっては、人類すべてのみならず、天地の森羅万象ことごとく、唯一神たる天の父とマリアを母とする兄弟姉妹なのであった[132]。こうした「万物兄弟の思想」はフランチェスコとその修道会を貫くものであり、フランシスコ会の修道士が「フライアー」friar と称される由縁である[133][注釈 3]。このことについて、ピーター・ミルワードは、フランチェスコは「兄弟」「姉妹」の語を用いることにより、キリスト教会がイエス・キリスト家族たるべきことを主張し、万人さらには万物を同じ家族として遇することによって、当時、商業の勃興と並行して広がりつつあった、教会制度および国家制度における法的虚礼を排そうとしたものと指摘している[134]。以上より引用
     


ただ神を求める者だけが或は仏と通ずる者のみがこのやうに動植物とお話をすることが可能なのだ。

其の清き心、無垢なる心の階梯に於いてのみ人は強欲を去りかつ性欲を去り地球と直にお友達になれるのだ。

然し人々が強欲に捉われのみならず邪な性欲に浸され、其処でたとへば小児性愛援助交際の世界へとほんたうに走るとなると人間の心にとり其はもはや取り返しのつかぬことともならう。


其のやうな邪な欲は強欲資本主義、並びに会社中心主義さうしてレデーファーストなどの誤った近代思想をよりによって子宮思考が追い求めて来た結果である。


其のやうな邪な欲に縁することなくば人類は皆兄弟であり動植物もまた全てが地球の子供である。


其のやうな大事な価値観をつひ忘れて、まさに腐ったやうな科学浪漫の追求や進歩主義的唯物思想に酔い痴れ、あまっさへ性まで自由化するに及びコレコレコノやうな場合には相場は三万円などと、まさにまさに不届き千万の、まさにまさに神をも畏れぬ悪魔の所業の数々よ。


イエス・キリストが地球こそは皆家族だ、まさしく神と云う御名の元に統べられた家族なのだとあれほど諭されて居たと云うのに其の説法の内容を全て忘れ顧みだにしなんだ。




フランシスコ会士は、より徹底した従順・清貧・貞潔に生きた[135]。フランチェスコは貧しさを礼賛することにかけては徹底しており、物質的な豊かさのみならず、精神的ないし知的な豊かささえも認めなかった[136]。ここは、同じ托鉢修道会ではあったが学問理論の重要性を認めたドミニコ会とも異なる点であり、フランチェスコは「心貧しいことこそ神の御心にかなう」と主張し、修道士に学問や書籍は不要と喝破している[137]。また、上に述べた「万物兄弟の思想」は、托鉢修道士同士が互いに兄弟と呼び合う関係を生み出した[138]
フランチェスコは、清貧の理想について、これを当時の騎士道吟遊詩人の言葉をになぞらえて、「清貧の貴婦人」という擬人法で表現した。つまり、騎士が貴婦人に慇懃に奉仕し、吟遊詩人が賛美の歌を貴婦人に捧げるように、フランチェスコも清貧のために献身することこそ理想と考えたのである[139]
フランチェスコはまた、人間にとって本当に必要なものは愛と平和だけであり、それ以外のものはすべて不要だと主張し、いさかいや対立は所有することに端を発すると説いたように、その清貧の思想は彼の平和主義と分かちがたく結びついていた[140]キリスト教イスラームの宗教対立の時代、そしてまたキリスト教世界が十字軍の熱狂のただなかにあった時代に、他宗教との対話のため、対立する陣営にみずから赴いている点も注目される[141]。 以上より引用     

 


さう其の貧しさこそが真の豊かさだ。

現代人は豊かになることでむしろ心を貧しくさせて来て居やう。

嗚呼かの吟遊詩人達はかって言いました。

清貧こそがまさに其の貧しさこそが神へと至る道そのものであると。


左様に修道士にとり学問や本は不要である。

僧侶にとって学問や本は不要である。

ましてや女にとって学問や本はもっともっと不要である。

タダ我にとってのみ学問や本は必要じゃ。



人間にとって本当に必要なものは愛と平和だけである。

おお其はまるでかのジョン・レノンのやうなご意見である。

無論愛とは女ではなくアガペーである。

実は女こそが愛から遠ざけられて居やう。


愛に溢れた人の周りには自然と動植物が寄り添って来るものだ。

尤もわたくしの周りには黒猫以外は何も来なひ。

何故ならわたくしは修羅だからだ。



わたくしは聖フランチェスコのやうに清貧に生きずしかも従順でもない。

願わくば神の怒りが人類にブチ撒かれることばかりを考えて御座る。

或いは仏は絶対に爆発炎上しないのだらうか。


まあ仏は絶対に怒ったりはしない。

だが仏も菩薩も皆清貧であり生殖器をしかと制御しておいでだ。

尤もわたくしに限り生殖器を制御などして居ないが是非清貧には至りたい。



さうして他宗教を攻撃すべきではない。

何宗でないとダメだとかさうは思わない方が良い。

そんなことよりもより重要なことが心根の美しさそのもののことだ。


資本主義にさうして科学技術至上主義=進歩一辺倒主義に心を奪われそればかりか心を壊されてはならぬ。

変なものばかり生み出す現代文明の毒素に皆やられて仕舞って居るのではないか君等子宮思考の持ち主達は皆。



"Brother Sun and Sister Moon
I seldom see you, seldom hear you tune,
preoccupied with selfish misery

Brother Wind and Sister Air,
open my eyes to visions pure and fair,
that I may see the glory around me.

I am God's creature, of Him I am part.
I feel his love awakening my heart.

Brother Sun and Sister Moon
I now do see you, I can hear you tune,
So much in love with all that I survey."