食ふと云うことが大事だと気付いたのはごく最近のことだ。
ほとんど飯を食わなかった元同僚が癌となりもはや余命いくばくもない。
彼とは三年間共に仕事をしたが常に彼は全然おかしい食生活をしていた。
確かにヘヴィースモーカーだったが、其れ以前にちゃんと食事をしないことこそがおかしいのだ。
で、食べたとしてもカップヌードル一つである。
其れも一日にそれだけなのだ。
ただし人間の体の機能には大きく幅がありたとへば印度などでは生涯飲まず食わずで居て健康に生きて居る行者さへ居る。80年近く飲まず食わず インド苦行者 医師らを仰天させる
ちなみに此の例以外にも二、三の例をかってネット上で視たことがあった。
即ち行者であるかどうか=精神の作用と関連して居るかどうかに関わらず全く食べないにも関わらず健康で居られる人はごく稀に居るのだ。
勿論其の逆に大食いも居る。
大食ひ選手権など視て居ると何であんな小さな姉ちゃんが相撲取り以上に食えるのだらうと驚くが多分さういう体になって居るのであらうから本当は不思議なことでも何でもないのだらう。
此のやうに人間の食欲や性欲には大きく開きがある。
たとへば性欲にしてからも明らかに開きがある。
異性に全く興味のない人も居るし異性に興味があっても理性が強く働き結果的に女とは縁の無い男性もまた居るものだ。
まあただし大抵は男は女が好きだし女は男が好きなものだ。
さういうのが凡の世界の欲望だ、さうあくまで凡の世界での。
でもさういうのは幸せだ。
性に於いて何も心配が要らない分だけ幸せなのだ。
性に於いて=生に於いて感度が高くなればなる程に人間は苦しむ。
だから凡俗でいいんだ。
むしろ凡俗で万歳だ。
作家や詩人なんて苦しひだけだからそんなのはもう止めておけ。
画家にしても音楽家にしても苦しひだけだからそんなのはもう止めておけ。
宗教家にしても偉い人々にしても苦しひだけだからそんなのはもう止めておけ。
だから、君、今の君、其の凡俗で生活人の君の頭の中身だけがむしろ幸せなのさ。
僕のやうに利口過ぎて苦しむよりは遥かに其の方が楽なのだ。
そして君はエロい。
エロいだけではなく食欲も人並み以上にある。
其こそがまさに幸せなことだと言うておる。
長生きの要件とはまさに其のエロくてガツガツして居る様、其の低級で動物的な本能の履行力そのもののことだ。
左様に食べると云う事は生との和解である。
異性を愛することは其れ以上に生との和解である。
と云う事は、何処かに和解しない何ものかが人間の心の中には潜んで居るのだ。
曰く食べたくはない、曰く愛したくはないと云う其の根性の悪さが人間の心の中には潜んで居る。
だが其れを根性の悪さ=悪魔だと決めつけることなど実は誰にも出来ぬ。
逆に食べ、さうして愛することが根性の悪さ=悪魔なのだと言い得ぬ訳でもない。
生の履行とは其のやうな矛盾的推進を原動力として行われる。
だから御飯を食べずに癌になり死ぬのが良いか悪いか、逆に御飯をちゃんと食べて長生きするのが良いか悪いか、と云う判断を理性では決めかねて仕舞ふ。
理性ではどんなことも決めかね得ず結局諸価値は矛盾化し往々にして破壊へと至らざるを得ぬ。
だが感情では誰しも死にたくはない。
さうして女にもモテたい。
だからまさに其れが感情だ。
よって感情でもって死は防げる。
さう感情でもって死を防ごう。
でも感情で生きるとまさに現代文明の如くにメス化して生活至上主義に陥り短期間で滅びる。
なので半分は理性化=男性化しておく必要がある。
飯などは食いたくなく煙草だけ服んで居たひ、と云う純粋な生に対する反乱は左様に個としての肉体の破壊を齎す。
然し飯ばかり食ひSEXばかりして生と和解し過ぎるとむしろ社会の方が破壊されていく。
此のやうに生としての修行はほんたうに難しく常に綱渡りであり崖っぷちでのことなのだ。
とは言え子宮思考には其の崖っぷちも綱渡りも何もない。
子宮の中にはそれこそ御飯やらパンやらケーキやらが浮かんで居るだけでかの三島先生のやうに自衛隊へ突っ込み自決し首がちょん切れる、などと云う極端な生との対決、まさに破壊の為の破壊、自決の為の自決などと云う理性的反逆の様など何処にも見当たりはせぬ。
だが君は良かったな、まさに凡俗で良かった。
勿論誰しも苦悩はある。
言うまでもなく生老病死と云う苦悩に捉えられておる。
其れは君が男であらうが女であらうが二十歳であらうが七十歳であらうが等しく与へられて居る苦悩としての権利のことだ。
が、其の苦悩は藝術家=変人でさへ乗り越えられぬ悩みなのだ。
然し君等のやうな鈍感さがあればむしろ乗り越えられるのではないか。
食う事に、さうして女にも極めて鈍感で大衆的即ち週刊誌的。
わたくしのやうに純文學フェチでは乗り越えられぬ壁があり元より其れが下品と云う事だ。
下品と云う事は其れ即ち食ふ、寝る、遊ぶ=女と、云う事だ。
故に下品=和解=女であり反乱や疑惑とは無関係なことでありまたどんな高尚さとも無関係なことだ。
だから生まれつき自然に食ひ、さうして生まれつきすぐに女に飛びつく君等のことがほんたうに羨ましい。
どうかどうか、わたくしの立場と君等の立場を今すぐに交換して頂けないものだらうか。
尚彼は少々変わって居り一匹狼のやうなところさへあった。
仕事は一流にこなせる人で彼に任せておくと決まって仕事の上での全てが安心だった。
でも仕事が出来やうが出来まいが人間は一歩間違へば死ぬのである。
子宮思考に一番足りない部分が此の死への備えだ。
だが彼に足りなかったのが実は其の子宮思考そのものだった。
まさに剃刀の如き男性の無頼や反乱を優しく諌めて呉れるのが其の子宮のお料理教室振りなのだ。
だから三島先生に一番必要だったのはむしろ過剰なまでの食い気=唯物論だった。
そして修行により死へと追い込まれつつあった釈迦の肉体を救ったのも其の唯物論だった。
即ち食い物=印度の乳粥が釈迦の肉体=精神を救ったのだ。
此処からも肉体即精神であり精神即肉体である。
即ち純文學と子宮思考は対立するやうで居て和解する可能性を常に宿して居る。
其の和解したがらない何ものか=反逆または反骨の精神若しくは懐疑が子宮に浮かんだ御飯の滋養によってのみ生き延びることが可能だ。
ゆえにイヤでも御飯は食べなければならぬ。
イヤでも子宮の中に飛び込み滋養を吸い取る。
でないと男なんてすぐに死んで仕舞ふ。
どだい六十を過ぎたらもはや男性は役に立たずで死がもうすぐ目の前にある。
だから明日からカレーを食べやう。
カレーはかって釈迦も好んで食したことだらう悟りへの早道としての食べ物だ。
カレーなんてそんなもの朝から食える訳ない、おまへのやうな変人でないとそんなこと出来る筈がない。
いや、為せば成る、為さねば成らぬ、何事も。
さうして朝からカレーの滋養を吸い取り永遠に生きやう。
何故永遠に生きるのだ?
どだいキリスト教徒でもあるまいに、気でも狂ったのか?
何故なら肉体即精神であり精神即肉体なので肉体を生かさないと同時に精神も死んで仕舞ふ。
かように精神は肉体によって生かされ肉体は精神によって生かされて御座る。
また男性は女性によって男性となり女性は男性により女性となる。
だから違うものは違うが、互いに根本としての成立要件ともなって居る。
むしろ二元的対立が無ければ違いそのものが成立しない。
違いは苦の淵源なれど、苦があるからこそ悟りがある。
苦を離れては悟りもない。
男も女もなければすでに人間ではない。
老人は若者によって生かされ若者は老人によって生かされている。
生きるからこそやがて死んでいく。
死んでいくからこそ生きている。
さうわたくしは二元的対立をむしろよりくっきりと認めていく=限定していく、と云う考え方なのです。
二元的対立は破壊を齎しますが違いを認めることで其れは昇華=浄化され得るのです。
其れは釈迦の中道の理論のやうに二元的対立の両極から離れると云うものではない。
無論のこと其れは真理ですが真理はむしろ今人間にとって求められて居ない。
現代人にとって必要なのはむしろより鮮明に二元的対立の様を見詰めることです。
だが近代主義による自由や平等の追求の概念が逆に一元化への道を歩んでいく。
一元化とは対立の放棄のことでせう。
対立の放棄とは其れ即ち社会の子宮化のことです。
社会が子宮化すると反対の極が消滅する訳です。
まさに男性的な反逆、其の反骨としての精神や理性的懐疑の能力が弱められるか根こそぎ壊されて仕舞ふ。
食べないで免疫が弱り癌になり死ぬことは感情的にはあくまで悲劇ですが彼は反逆を生き抜いて居たのだと是非さうも言ひたくなる。
三島先生の自決も同じようなことで反骨と懐疑としての其の行動を非難することなどどんな理性にも本来ならばかなわぬこと。
ですが羨ましいのはむしろ何も考えて居ない大衆のことだ。
大衆は何も考えずに肉体を大事にしおまけに女に触りまくり長生きしていくんでせう。
そんな天然振り、煩悩まみれ振りがわたくしには今眩しく見えてならなひ。
いつも仕合せさうでいいなあ、羨ましいなあ、と正直さう思うのだ。
ただし其処へ一言だけ言わせて下さい。
なので皆様はむしろ二元的対立をこそクッキリと見詰めていくべきだ。
平たく言えば死を見詰める、アー、死ぬ―、死ぬ―、死ぬのはイヤだ―と兎に角死ぬことを真正面から見詰めて頂きたひ。
さうして食ふことにももっと拘る。
あー、腹が減ったー、カレーだゴーフルだ、味噌松風だ、さらに草加せんべいだ。
さらにより女を意識する。
コレコレ、コノ時間にこっそりと逢引きしやう。
まさに人の見て居ない神社やお寺でもって是非デートをしたひ。
頼む、出て来て欲しい、必ずや其処で待って居て欲しひ。
さすれば極上の理性をば汝に呉れてやることさへもが出来やう。
そして寿司を食おう。
例の蟹の太巻き寿司を。
まさにコレが絶品じゃ。かに太巻き寿司税込 1,500円
さらに栗きんとんを食おう。
栗きんとんは中津川産が極上だ。
さう言えば君の家の近くにも丁度一年前だったか、進出して来たではないか、其の中津川のすやが。
さてすやの栗きんとんは食ったか。栗きんとん すや
ハイ。
美味かったか。
普通。
ちなみに近所の人が此のすやの栗きんとんを買いに行ったところ今日はもう売り切れて無いと言われたさうだ。
近く自転車で買いにいくつもりながら確実にGETするのは結構大変そうだ。
何故か今年は五年位前よりもより美味しくなったやうな気さへする。
お持ち帰りのものに限ればさうさう美味いものはなくしかしながら現状でコノ蟹の太巻き寿司だけがまさにコレだけが美味ひものそのものなのだ。
尚わたくしは三十歳位まで蟹が大嫌ひでほとんど食べたことがなかったが北陸三國の方で蟹を食って以来考えが変わり以来蟹も食えるやうになった。
ちなみに三島 由紀夫氏の嫌ひな食べ物の筆頭が其の蟹であった。
蟹はわたくしも何だか気持ちが悪い生き物だとは思うのだが兎に角食ってみれば意外と美味いものだ。
だが蟹味噌だの何だのあんな気持ちの悪ひものは金輪際食わぬ。
あんな気持ちの悪ひものをチューチューとさも旨さうに食って御座る人々の気がまるで知れぬわ。