目覚めよ!

文明批判と心の探求と

今の日本が抱える性の問題-Ⅵ-


言うまでもなく現在は宗教でさえ自己矛盾性に深く捉えられています。

尤も其の前に教師ですら自己矛盾化して居る訳です。

第一教師が淫行でこれだけ逮捕されて居るだなんて、アナタ信じられますか?


まあ少なくとも我我五十代には考えられないことでした。

しかも教師がふざけて仕事をして居る訳ではなくおそらくは日々真面目に授業をして居ることでしょう。

また僧侶や神父の方々も日々真面目に宗教的な活動に従事されて居る筈です。



ですが今宗教は堕落して居ると云われても仕方がない位に様々な問題が噴出して仕舞って居る。
特に性的な事象に関する逸脱行為があろうことか宗教界からも報告されるに至った。


一体何故なんでしょうか。

わたくしは合理化により人間の精神が圧迫されそればかりか破壊されつつあるとの考えを以前から抱いて居ました。



だから須らく社会的な事象なんです。

要するに文明規模の問題であり教育や宗教と云った部分的な枠を大きくはみ出た問題なのです。

なのでコレはもう哲學者でもない限り解決の糸口を見いだせない問題です。



幸いわたくしは考えることが得意ですので一体今何がどうなって居て、さらにこのまま行くとどうなるのか、また悪い方向へいくものならば何とかして其れを阻止できないものかと云う事につき日頃から考えて来て居ります。



左様に性の問題とは社会問題なのです。

元々個々の問題ではありません。

個々に於いては性への関心の多寡が存する訳ですが其れが問題なのではなく社会がどう性を捉えて居るかと云う事だけがまず問題です。




そして性の問題とは人間の欲望に対する究極の問題です。

もうひとつ、確かに食欲の問題が人間には存していますが、畢竟食欲は個体保存としての個の欲の枠をはみ出すものではない。

然し性欲は男にとっては女、女にとっては男と云う他者即ち客体との結合を目的とする個をはみ出していく欲であり問題です。



其の思うに任せぬ客体との結合でのみ自己保存は成就出来、と云う事は実は食欲の完遂のみで自己保存を為すことは初めから無理な相談です。

食いまくり飲みまくって即ち食い倒れで死に至れば自分は保存出来ず食い倒れて死んだと云う事実のみが保存されるばかりだ。



SEXしまくって死ぬ、と云うのも其れは凄いとは思いますが其処までエロい人がほんたうに居るとはなかなか思えません。

が、動物ともなりますとあり得るのじゃないかと思います。


とりあえず人間は、特に近代以降の人間は多分に理性的規定の影響を受けて生きておりましょうからなかなか其処で腹上死などすることは難しいことかと思われる。



されどエロい、実はコレが理性もクソも無い桃源郷の世界へ没入する唯一の手段である。

まあ梵我一如とでも言うべきか、まさにSEX仏教とでも言うべきか、兎に角其の陰陽の合一、即ち女性器と男性器の合一に於いて没我昇天の境地を得る。

其れが其れこそが生きて居ることの証だ、性の醍醐味じゃ。



との考えもかってはありました。

ですが釈迦の仏教或は正統的なキリスト教諸派に於いては矢張りさういうのは認められて居りません。

仏教もキリスト教も生=性をそのままでは認めて居ない宗教ですのでSEXによる解脱なんてものはそも認めて居ない訳です。


仏教もキリスト教も其の考え方がそも暗いですからあくまで性=生は淫靡なものとして捉えられて居り出来れば無い方が良いものとしても捉えられて来て居る。


ところが近代的な原理即ち合理主義だけがやがて性を明るいもの、前向きなもの、善なるものとして規定していったのです。



端的に言えば其の近代の原理原則による合理化が仏教やキリスト教と云った宗教自体をも合理化し世俗の方へと圧し戻した即ち堕落させたのだと申せましょう。

逆に言えば近代の原理なくば其の宗教の合理化は為し得なかった、其れは絶対にある筈のないことだったのであります。



では何故宗教が性の領域に於いて自己矛盾化ー合理化による堕落化ーしていくのでしょう。

性は宗教自体が越えやうとしても乗り越えられない、何かとてつもなく高い山のやうなものなのかもしれない。


第一女、コレがまさに其の何かとてつもなく高く越えやうとしても乗り越えられない何かである。

少なくともわたくしには乗り越えられない。

女は何やら違う原理で生きて居て実際匂いから何からもうまるで違う。



そして女のア○コが目の前に迫って来るともうどうしやうもなく梵我一如を迫られ実際につひそのやうなこととなって仕舞ふ。

問題は眼の前のうな丼と彼女のア○コのどちらがより美味であるかと云う事だが其れは個々の男性の性質により異なりわたくしの場合は矢張りと云うべきか両方とも嫌いではない。-ただしまだ見たことはない、昔の彼女のはかって見たが-



が、理性、此の実に厄介なものが我の行動に決まって待ったをかける。

謂わばなりませぬ節を常に理性が歌ったりして居るのだ。「なりませぬ節」まり若さん



かように性は地獄といふ現世に我を縛り付ける元凶としての高い山のことだ。

でも性は低俗なんでしょう?なのに何故高い山なの?


低いから高いんである。

そして地獄だから天国なのである。


性は地獄じゃ、だから天国じゃ。

生は地獄じゃ、だから天国じゃ。


女はバカじゃ、だから利口じゃ。

男は利口じゃ、だからバカじゃ。




果たして欲望の成就は性の解放即ち生の解放に繋がるのか。



多分無理でしょうねえ。

合理化された性は宗教界を堕落させつつ淫売領域を確実に強化していくことだらう。

其の淫売現象にて文明は崩壊する。

即ち淫売窟が家庭の中にまで入り込み平気で女房が淫売をなし平気で親子で淫売をなすまさにとんでもない性秩序が構築され其のことにより神の怒りを買い現代文明は崩壊する。



だから科学技術による地球の破壊を待つこともなくかの女共のふしだらさにより人類は滅亡する。



さてカトリック教会が禁じて居るのはまず配偶者以外の異性と肉体関係を持つことである。

尚かねてよりキリスト教に於いては不倫や離婚に対する厳しい戒めが存する。

即ち姦淫、婚外交渉、離婚、同性愛は聖書では禁止されて居る。

先に述べた宗教の堕落、特にキリスト教の堕落の部分は別として聖書ではあくまで其れ等が禁止されて居るのだ。

もっと広く性愛に対しては矢張りと云うべきか潔癖に否定して居る。


キリスト教は性愛に対して非常に厳しい宗教である。

だからわたくしは個人的に其れは良い部分だと捉えるのだ。




特に日本に於ける大乗仏教の性規定は余りにもだらしがなくかつ余りにも観念=真理領域に走り過ぎて居るきらいがある。

即ち論理としては真理への繋がりが大事なのであり其れさえあれば俗世間としては適当にやっていれば良いと云う考え方ではないのか。

そんな真理偏重主義こそがこんな真面目な國で女子高生や女子大生が春を鬻ぐことにも繋がるのではないか。



ほんたうのほんたうに、わたくしは日本国は日本の女の性の乱れにより近く滅ぶとさえ考えて来て居る。


だからこの際シフトしよう、宗教をばチェンジする。


性の放縦を止められない大乗仏教神道にはこの際退いて頂きカトリシズムを日本国の国教となし日本の未成年女子の淫売窟化を何としても阻止せねばなるまい。



或いは原始仏教を国教化し日本の未成年女子の淫売窟化を何としても阻止する。

おお、そうか、矢張りこっちの方が良さそうだ。

まあ性の解釈の部分では確かにキリスト教は凄い、個人的に実に気に入った。


でもキリスト教はあくまで毛唐の宗教だから矢張り原始仏教か或は小乗仏教を奉じ是非日本人は皆袈裟を纏った上での修行の義務期間を設けていくべきだ。



おお、そうか、さすれば女子貞操教育も其処で同時になろうと云ふものよ。

特に女子高生と女子大生には必ずや袈裟を纏った上での十年間の修行の義務を課すべきである。

そして其処で下の方の締まりの大切さをしかと学んでいかなくてはならない。



そして間違っても軽い気持ちで男の目の前で股を開くことのないやうに。

第一お前等は何故彼氏が居るのにまた別の男と遊びにいったりして居るのか。

もう兎に角其れが分からん。

我我のやうな若い方のジジイでももうまるで分からんぞ。



お付き合いは一人、其れが何よりも基本の筈でしょう。

さういう感覚だからこそすぐ知らない男の目の前で、此の鼻の前口の前ほっぺの前で軽々しく股を開くんじゃない、此の売女めが。


そうか、まさに修行による性の雁字搦め、、コレが兎に角基本である。

さらにカトリシズムによる性教育なども大歓迎だ。

そして学校に是非貞操帯を備え付けるべきである。

無論のこと冗談ではなく是非さうするべきだ。