目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

内面と闘うー性的逸脱と云う悪魔と闘うにはもはや禅しかないー


尚自然に悪は生ぜず。

悪は人間の心にのみ生ずる。

ならば女は悪なのか?

無論のことそのままでは悪だ。


どんな立派なことを成し遂げた女でも其の腹の中は我我男とは別物だ。

腹の中の物理的構造とさらには心理的構造が別物なのだ。

故にまずは女は邪だとさう規定されておいてしかるべきだ。



では動物のメスも皆邪なのか。

いーや、動物のメスはそも不倫などしなひ。

動物のメスの肉欲は至極清浄なものだ。


ズバリ人間の女の肉欲のみが宇宙一汚らわしい何かである。

だから其は永遠に認められぬものだ。


だが其の汚らわしく認められぬものから我我は生まれた。

よりによってそんなものから生まれる他なかったのであるから我我の根の部分は元々至極穢れておる。



ただし問題は君等がさうした感覚を持ち得て居ないと云う事だ。

わたくしなどは幼少のみぎりよりそんな感覚を抱いたままで此の世に生まれ落ちて来て居る。


だからわたくしは自ら詩人だと名乗ったのだ。

だからわたくしは生まれついて何かを攫んで此の世に生まれて来ざるを得なかった。


其れが文學的自我なのだか何だか知らないが兎に角人とは違って居たのである。

さうしてさういうのが兎に角嫌で嫌でたまならかった。


もっと凡俗にさうして楽しく生きたひとさう願うことが屡だった。

だが見えて仕舞ふのだな、其の悪魔の様が。

イヤでも見えて仕舞ふからほんたうはもう怖くて外を歩けなひ。



さうわたくしは凡俗でないので色んなことが見え過ぎて仕舞ふ。

左様見え過ぎちゃってー困るのー、と云う例のCMの如き眼力の持ち主じゃ。



凡俗でないので利口だしどんなことでも言えるが其の利口の対極には大馬鹿者がいつも潜んで居りコイツ馬鹿じゃないのかと皆様もさう思われることがおありになるのではないか。


それでは何故女は邪なのか?

知らん。

其はまさしく生の上での秘密である。

其は要するに秘密の花園だ。

謂わばお花畑にハエがたかっておる様だ。



かぐわしいものの周りに決まってドロドロの悪の液体がへばりついておる。

嗚呼、女に生まれなくて良かったー。


いざ女になるともうお仕舞ひだ。

仏道修行上大きな障りが生じもはや成仏への機縁が断たれて仕舞ふ。



ところでおまへは自分が何でも分かって居るとさう思ひ込んで居やうが其れでほんたうに良いと思って居るのか。

もしや魔道に堕ちておるのではないか?

いや、だからむしろ其の魔道です。


どだい真の仏教徒ならば一度は其の魔道に堕ちてみる必要が御座らう。

魔道、即ち一休さん、アノ謗法者としての一休禅師の如くに女犯の大罪を犯してこそ真の禅僧、其の穢れと迷ひのさ中に咲くひとつだけの蓮の花です。

謂わば世界にひとつだけの花でせう。



其れでは悪魔は居ても良いのか?

いえ居てはいけません。

此の際悪魔と悪魔ではないものの区別を明確に定めて置く必要が御座る。


たとへば、

不倫=悪魔
淫行=悪魔
不倫と淫行に走らぬ女=マリヤ観音様

と云う結論となります。



故に不倫と淫行に走る女はどんな地位にあらうがまたどんな金持ちだらうが即刻打ち首に値する大罪人です。

其れでは万引き女や飲酒運転女は悪魔だとさう言えるのであるか。

いやそんなものは悪魔では無い。


よろしいですか、悪魔とは生命に対する罪を犯した者の意です。

ズバリ不倫と淫行は生命に対する罪でもってして大罪だ。

其れも世界三大宗教の其のいずれに於いても謗法としての大罪です。


其のやうなふしだらな女は首を刎ねたにせよまるで罪にはならぬ。

其のやうなふしだらな女は今すぐに其の首を河原に晒すべきだ。



さて、わたくしがかように怒り狂って居るのはまだまだ心の修行が足らぬからです。

何故わたくしがこんなに強く女の行動に、左様な縁もゆかりも無いバカ女共の行動に強く反応して仕舞ふのか。


其れはわたくしが半分女の心で生まれて来て居るからです。

なので実は女の心の動きがもうまるで手に取るやうに分かる。

嗚呼、嫌だ、嫌だイヤだがどうしても分かって仕舞ふ、其の邪悪でもってして欲深い女の内面が全てお見通しだ。



だから君等とは違ふ。

違ふ存在なんだ。

違ふから苦しひのだ。

おお、先ほどからこんなに胸がドキドキしてつまり動悸が激しく苦しひ。


女共よわたくしには汝等の全てが分かる、たとへ子宮は無くとも全てお見通しだ。

汝等は現実的に過ぎすぐに家や墓、さらに子供や父ちゃんのことばかりにかかりきりとなる。


だが此の世界には観念の場がある。

無論のこと宗教の世界とは其の観念性としての親玉なのだ。



然し其の宗教の存立理由と信心の領域の話とはまた違ふ。

信心とは疑わぬことでありむしろ宗教は疑ふことから発したものだ。


かように観念の世界と宗教のあり方とはまた違ふ。

特に禅宗ではまさに嫌と云う程其の観念性を否定してかかる。

だが禅家は可成に観念的だと個人的には思ふ。


曹洞禅は論理性に重きを置かないが釈迦の仏法は逆に可成に論理的である。

論理的でありかつ自力救済である。

なので必然として個の知的能力なり心的段階は重視される。



釈迦は其の論理の齎す必然としての矛盾過程に挑み其れに打ち克つ形で成道したのだった。

禅家も其の矛盾に直面しては居るが其の矛盾は論理ではなく修行による作法=規定により乗り越えられる。

元より精神の規定こそが人間を成すのであり其れは規定されることなくしてすでに規定されるに及ぶ自然との立場の違ひそのものなのだ。


謂わば人間は精神の規定なくして人間とはなり得ぬ。

さうして近代は人間の精神の規定を解除する力を持つ。

だからそのままでは女共が淫売化して仕舞ひ易い。


だが仏教でもキリスト教でもそんなのは認められて居ないと云うのに何故女共はよりによってそんなことをやりたいのだ?

だから其れは女が元々淫売の体と心でもってして生まれておると云うことである。

左様に元々淫売でもってして悪魔だ。



だからキリストなんてマリヤ母ちゃんのことを此の女は、とか実に冷たひ突き放した言い方しかして居なひ。

仏陀仏陀で最初から女など全部汚れて居るので捨てて仕舞へとさう思われ事実妻子を捨てて逃げて行って仕舞われた。

元々淫売の女共は聖なる教へなどにはまるで縁遠く、其の頭の中身たるやまさに食ふ事と寝る事、さらに男のこと、子のこと、また何が美味いか不味いか、どんな豪邸に住みどんな豪華な墓に入りどんなにか豪勢な日常に埋没すること、其のやうな酒池肉林の暮らしにばかり気を取られて居らうぞ。



よって其のやうな穢れた女共はかの永平寺には一歩も入れぬ。永平寺 禅の世界

穢れた女共の穢れた観念が禅の歴史に泥を塗り法を汚し若くて美しひ禅僧をよりによって誘惑し地獄へと、其の肉欲の修羅場へとまさにまさに引き込んでいかうぞ。

其の若くて美しひ清ひ禅僧を淫売女共は言葉巧みに誘惑し其の肉体の色香にてまさに其のムチムチでもってプリンプリンの色香にて誘惑しおおまさに地獄への道連れとなすのであった。


即ち今では禅宗世襲が認められしかも妻帯する禅僧まで出て来た。

さらにゴルフをして御座る禅僧さへ実は我が家から百メートルの曹洞宗の寺に居られる。


かの若住職の父親の住職の方に、かって我は曹洞宗の教義の専門的な内容につきお尋ねしたことさへあった。

酒を飲むナマグサ住職なので当時ウヰスキーを持参して教へを乞うた。



さて禅とは何だ?

禅とは所詮は中国仏教だ。

しかも禅家はたとへば道元、かの方の観念が恐ろしく入り込んでおり元々の中国仏教とはまるで違ふものだ。

だが禅家は常に自然を大事にして御座る。


尤も密教系の行者さん達はもっともっと自然と慣れ親しみ自然そのものを神仏の現れだとさう観じても居られやう。

ですが自然そのものはあくまで人間の生きる場所には非ず。



どだい自然には精神=宗教など要らぬ。

ところが人間には宗教が必要で宗教化=社会化すれば其処に必然として諸の悪を背負い込まざるを得ぬ。

だから、世襲(妻帯)、寺や組織の維持費の捻出、宗派間の優劣関係など、ああー、もうまさに俗なる生臭い次元でのお話しばかりだ。

女にカネに権力闘争だの、もうまるで芸能界並みに週刊誌ネタばかりだ。

そんな風ではなく真理を説こうではないか、其の釈迦が語りし真理を。



其の真理からすれば不倫こそは謗法である。

だから不倫した男女は間違ひなく地獄へと堕ちる。


そも何故禅家が生活上の行為全てを修行と位置づけ厳しく其の行動を規定していくのか。

人間の行為は精神が規定していくものであるからなのだ。

不倫だの淫行だの、そんなものが社会に蔓延していけばやがてどうなっていくかそんなことは鈍感な君等にもすぐに分かることではないか。


つまるところ社会としての精神自体がすでに地に落ちておる。

其れを治すのはたとへばもはや禅の精神に學ぶほかない。




言ふまでもなく禅の修行は厳しい。

其れは何故か?

人間は自由でしかも平等なのだから自己責任に於いて何をしていたって良い筈だ。


隣の旦那との不倫は勿論OK、学校が終われば援助交際へGO。


馬鹿者ーっ!

おまへらの如き淫売に其の若くて美しひ曹洞宗の雲水を誘惑する権利など何処にもないわー。

おまへらの如き穢れた女共の、其の頭の中身こそが有害な情報と神をも畏れぬ淫売行為に毒されしまるで便器の如きバイキン思想に毒されておらう。



即ち禅とは精神=肉体の規定のことだ。

心身共に規定することで悪魔である人間の心身のあり方をまずは離れていく。


だが其れはまず精神の規定であるがゆえに行動=肉体の規定ともなり得るのだ。



かように人間の行為はまず精神が規定するべき。


逆に社会が淫売を放置すればやがては其れが自由の名の元に容認されかねない。

禅は逆に精神を極限まで規定していく。

さすれば其の厳しい心の上での規定こそが行動を形作っていく。

精神と行動はかやうに互いに規定し合い共に高めあったり低めあったりしていくのだ。


ちなみにかの羅馬帝国が滅んだのは其の末期に於ける性的逸脱が過ぎたことによるともされる。

ちなみに女は所詮バカだから不倫や淫行が文明どころか自分の子までをも破壊に至らしめる大罪であることにまるで気付いて居ない。

其の子宮力があるので謂わば本能的に性的逸脱には傾き易いのだ、男性のやうに理性が生殖器の方へと回りにくい。


それに女にはそも理性が欠けて御座る。



曹洞宗はかって米国にて布教活動を行ひ禅に於ける理解者を増やした。

当時近代型の物質文明に嫌気がさしておった西洋人の知識層やヒッピー等の支持を得て今や伊太利亜にも寺があり外国人の僧侶も屡輩出して居るのださうな。