元より現代は相対主義の時代であり絶対の価値基準と云うものに寄りかかからないことを是として居ります。
また理性的規定とは云っても、テストで百点取れる人はどうも人間的に問題を抱えて居るやうな気がしてならず、逆に40点しか取れぬ子でも根は心の優しい良い子である場合などもある。
そうかと云って莫迦が皆良い子かと云えばそうでもなくまた利口は皆悪い子ばかりかと云えば其れもそうではない。
中には女に興味があり過ぎる利口も居るのだし女にはまるで関心の無いバカもまた居るわでなかなかこうだとは決めきれないのが世の常である。
此の立場が変わると価値基準が異なると云う事はしかしながら存外に大きいことで実は精神そのものを規定と云うか分類して居ることである。
かのニーチェなどは大衆には価値基準は無いーつまるところは流されて居るーと云っていたがたとえ貴族的な精神の持ち主でも往往にして多分に大衆的でもあるのだし其の逆に大衆としての精神の尊厳のやうなものが考えられない訳ではない。
だが価値基準を高く置いて居る人は往往にして世俗的なものには惑わされず己の価値観に従い考えかつ行動して居るものだ。
ところが大衆からすればそんなのはまさに絵に描いた餅なのであり、つまりは何の役にも立たぬ観念の戯れ、夢物語に過ぎずただひたすらに彼はほんたうの餅、即ち目の前に置いてあるカネ、女、ベンツ、フェラーリ、高級万年筆、地位、権威、酒、うな丼、称賛、などをどこまでもどこまでも追い求めてゆく。
ですので本当は其処にこそ問題が生じて居るのである。
即ちそういうのを求めるからこそ存在して仕舞うのである。
だから其の存在すること自体を止めよう、と考えたのが釈迦である。
これはもうカント以上の天才であり多分宇宙一の大聖人である。
存在するな、と存在すること自体を結果的に否定したのは人類史上釈迦が最初で最後である。ーあくまで現在に連なる思想としてはー
キリストはまた異なる立場で此の人間の欲なるものと対峙した訳である。
よって西側の世界では以降其の人間の欲の抑制を神が行うこととなる。
大衆の心の性質は概ね淫蕩であり其れが歯止めの効かぬ性質のものなので相対主義に陥ると即暴発し不倫、淫行、盗み、殺し合い等を誘発せしめ尚かつ考えない、つまり理性無し、即ち据え膳はそのままにモリモリ食う、といふ状態に陥り易い。
いや、お釈迦さまとキリストさまが仰いましたことを肝に銘じて置かなければならぬ。
価値ヒエラルキーに寄りかかりし大衆は目の前の膳を全て平らげ其れでもなお満足出来ないからより面白い物事へと、より欲望を満足させるべくアブノーマルな領域へと足を踏み入れることが必定である。
此の欲の制御が出来ぬからこそ大衆であり人間と云う存在なのである。
人間と云う低級なもの、何かとても卑しいものとして此の世に彷徨い出て来て居る。
と云う事は理性が無い大衆にはカントだのニーチェだのショーペンハウアーだのの価値基準など本質的には何も理解出来ずしかもさらに釈迦やキリストの仰いますことなどどこ吹く風でただただ生きたい、長生きがしたい、おお、其の餅が食いたい、カネが欲しい、其れも数億円は欲しい、嗚呼、一度でいいからベンツやフェラーリに乗りたい、酒を飲みギャンブルにも嵌りたい、クスリにも溺れたい、ムッチリしたいい女と是非ねんごろになりたい。
そうです、其れが其れこそが僕らの夢です。
でもわたくしの場合は必然として其処に本や万年筆が欲しいと云う事が入って参ります。
其の腐った大衆の夢に対し現代の相対主義はまさに良く合致して居る。
だがそうで良いのだろうか。
どうもイカンやうな気がしてならない。
つまるところ、大衆即ち多数決での人間の欲望が解放されて仕舞う点が良くない。
其の何でもありなのを形作ったのは思想の自己矛盾領域です。
即ち現代思想が相対化を旨とすることで逆に本能領域を絶対化しつつある。
此処に最大の精神的な危機が存して居ると思われる。
と云うことはですよ、科学が矛盾化して大量の核爆弾を造りかつ過分な延命やら過度な人間の保護を行う。
其の結果今まさに地球を壊しつつある。
其れにピッタリ合致する形で思想即ち社会の精神が自己矛盾化して居る訳です。
おお、こわー。
兎に角恐い。
つひヤバいことを暴いちまいました。
ひょっとしてひょっとすると、コレがこれこそが思想の死、なのか?
だとすればこのままいけば人間の精神は破壊し尽くされる。
ゆえにこのままではいけないので、カントへと立ち戻る。
それから釈迦とキリストを是非尊崇致しましょう。
そして絵に描いた餅の意義も再発見していかねばならない。
…いかねばならない?
そうなのです。
…しなければならないと云う部分にこそ実は鍵があります。
現代に於ける…しなければならないと云う絶対性は矛盾化し其れが科学技術即ち理系思考に傾いて仕舞って居る。
ですが統合されし知ー前近代的な知ーはかって神を始めとする人文科学の知の方にこそ其の絶対的な基準としての比重が割り当てられて居た。
其処では謂わば絶対性が反省領域ー人文の知の領域ーに主導されて居たと申されるべき。
ところが今は此の絶対性が須らく矛盾化して居ります。
平たく言えば本来絶対ではいけない大衆的な欲の部分ーつまりは下賤な欲のカタマリーが絶対化されつつありのみならず反省しないイケイケ主義の理性的展開即ち科学万能主義による物質文明、進歩主義そのものが絶対化されて仕舞って居る。
と云う事は一言で言うと超ヤバい状態にある訳だ。
どうもわたくしの論から結論を導いても未来は破滅的でありつまりはお先真っ暗でありまるで希望を見いだせない社会状況にある。
こうなったらもうカントに戻るかさもなくばZEN、たとへばこちらの方へ行き一日中禅定ばかり組んで釈迦を目指すかの其のどちらかしか選択肢はないんじゃないでしょうか。
うーむ、本日書いたことはもう自分でも兎に角恐くて怖くてたまらないことであった。
まさに久し振りに背筋が凍りつくやうな気が致しました。
兎に角寒いので余計に背筋が凍り付きますわいな。