目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

善なる悪魔による生の破壊


結局文明に於ける価値基準と云うものは何処に置いたら良いのだろう、と云う事になりますね。

即ち其処には前近代的な、ある種の均衡された価値に寄りかかるべきものなのか、それとも不安定ながら現代的な価値観を推し進めていくべきなのか、と云う選択が生じます。

然しあくまで事実としては現代的な価値観の推進は人間の生を破壊する方向にしか進まないことでしょう。



つまるところは滅亡だ、価値観の持ち方の誤りは文明の或は人類の滅亡と云う事にズバリ繋がろう。

では逆に文明或は人類の正しい価値観とは何なのでしょうか。


どうも其処にこそ最も大事な点があるような気が致します。

1.より速く動きより豊かになることのみでは真の意味での人間の幸福は得られない
2.より利口になるー理性的に生きるーことのみでは真の意味での人間の幸福は得られない
3.子孫の繁栄や此の世で欲しいものを全て手に入れることからは真の意味での人間の幸福は得られない
4.人間は幸福にならねばならないと考えること自体が不幸の始まりである
5.女の価値観は概ねバカそのものなのでそうしたものに惑わされし文明の寿命は短くなる
6.ばかつまり本質的暗愚を消し去ることでのみ人間は幸せになれる
7.将来も世界中に近代主義の恩恵が行き届くことは考えにくい
8.普遍的な近代主義の価値観の履行は人類の破滅へのスピードを最大とすることだろう



或いは正しい価値観があると考えること自体が何処かおかしいのでしょうか。

それでも個人的には必然として規定されるべき価値観の座標はあるものとして考えますのですが。

然し其れは善悪の座標軸ではない。



しかも其れは宗教的な規定ですらないと思われます。

丁度自然の美しさや見事さにどの民族もまたどんな人間も称賛の声を上げない訳にはいかないやうに普遍性と素朴さとをもってして訴えかける倫理規定や道徳律が此の世にはあろう筈。



逆に近代の価値観は其の須らくが欲望構築主義に基づいて居る。

其処には欲を制限する、抑えると云った要素が本質的に欠けていやう。



ですので皆良かれと思いつつして居ることが即矛盾化する訳です。



命を大事にしよう→むしろ命が軽視される傾向が其処に生じる

皆が平均的に利口になる→何故か昔よりもバカが増えた

子供が大事だ→心身双方にわたる過保護によりモンスターチャイルドばかりを生み出す

宇宙へ行こう→結果地球を壊すことにもなる

宗教なんか嫌ひだ→結局悪魔に心を売り渡す

民主主義は大事だ→結果衆愚政治にて民主制が壊れる

女は偉い→結局男が立たぬやうになった

東大卒は偉い→東大卒でも淫行をなし暴言を撒き散らす

死人は要らない→そのゆえに死が分からなくなる

長生きがしたい→長生きしても何も良いことがない世界が到来したというのに長生きがしたい

何でも速くしたい→人間自身がすぐに其の速さについていけなくなる

自由は大事だ→結果として援助交際や淫行をする自由も大事になる

平等は大事だ→結果子供が子供らしくなくなり女が女らしくなくなり男が男らしくなくなり爺さん婆さんが爺さん婆さんらしくなくなった

人生は素晴らしい→生きるに値しない社会の癖に何故かそう云われている




其処でわたくしは一体何故こんな風になって仕舞うのかと云うことをしかと考えた。

すると其処で、結局は近代の欲するところでの考えが根本的に間違いであることに気付いたのであった。


ですから、兎に角これ等の逆を考えてみればそんなことはすぐに分かるのです。

たとへば自由の蔓延は不自由や自由のはき違えを招き易く、平等観の推進は~らしさの破壊に繋がり易く、命が大事だと言われても死を知らない我我が其のことを実感出来るゆえもない。



要するに逆の要素に欠ける訳だ、マイナスの要素に。


其のマイナス、負の要素の部分をも同時に生き得て居たのが前近代的な世界観でもありました。

ところが近代は、其の近代主義により謳われて居るものは須らくプラスの要素ばかりなのです。


私はコレこそがおかしい、異常である、健全な精神のあり方ではないとそう睨んだ訳です。


そうした欲望構築主義はやがて全てを破壊せしめ人類を自滅へと追い込んでいくことでしょう。



ところが、ひとつひとつの欲望は、其の近代に於けるひとつひとつの欲望は全て時代により文明により是とされて居ることばかりである。

だからこそ大衆はそれらの価値観をひとつひとつ疑ったりは決してしない。

ですので長生きなんて、アナタ、其れは至極当たり前のことじゃないですか。



自由を求めることも、平等なことも、民主主義も、皆至極当たり前で一番良いことの筈です。

いや、実は私も十年位前までは至極普通にそう考えて居りました。


ところがかのハンナ・アーレント全体主義論にはまさにコレと瓜二つのことが描かれて居ります。



トータリズム(全体主義)
としてのグローバリズム
Globalism as Totalitarianism


“本当の悪は,
平凡な人間が行う悪です.
これを,悪の凡庸さと名付けました“


「悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る。」



自由を求めることも、平等なことも、民主主義も現在では言うまでもなく全体主義化して居ります。

其れも国家単位ではなく文明単位で全体主義化して仕舞って居りましょう。

私は何より其処が問題なのだろうと捉えて来て居ます。


即ち逆に言えば前近代的な世界観からは地球の破壊やニヒリズムは生じようがないからなのです。

近代と云う合理的に正しいと判断される至極当たり前の価値観からこそ結果的に全的な破壊が齎されて居るのです。

其の破壊を生じさせて居るのは近代主義と云う至極正当な価値観であり悪ではなく善そのものなのです。



ですので自由や平等や平和と云う概念は今や誰も疑いようがない。

けれども、其のひとつひとつを吟味し傾向性を纏めると其れ等は「欲望構築主義」と云う一つのカテゴリーに分類されるのです。

ところが其の欲望構築主義なるものが正しいと云う確証は実は何処にも無い。

其れはただ近代と云う時代が全体主義と化し我我に課しているものであるだけのことだ。


今では私は此の欲望構築主義こそが其の全体主義概念こそが人類を破滅させるであろう「善なる悪魔=凡庸なる悪魔」であろうとそう確信して居ます。

要するに我我一人一人が善人面を下げつつ其の破壊を推進させて居る悪魔そのものであったと云う事だ。
おお、怖いこと。