そも合理化は、其処でして良いものといけないものがある。
たとへば掃除をし身を清め神仏にかしずくことは良い合理化である。
対して悪い合理化の例としては以下に挙げるものがある。
1.人間の合理化
2.世界の合理化
1.に就いて
人間を合理化することなどは出来ない相談だと云うのに近代の思想はあえて此の人間による人間自身の合理化を行って来た。
其の結果何が齎されるかと云うと人間の精神の破壊が齎される。
元来人間は低級な何者かなので合理的に纏め上げられるべくもない。
つまりは人間はう○こたれでありきち×いでありつまりはあほでありバカである。
こんなバカ共を次々に此の世に生みだして居る女共の頭の中身はそれ以上にバカである。
人間は生まれた時から死ぬまでバカでありそしてしかも死んでからもずっとバカそのものだ。
人間は蟻よりもバカだしナメクジよりも低能である。
蛇よりも狡猾でおまけに卑猥である。
狐よりも狡賢く猫よりも性格がいやらしい。
人間の生殖期間がのべつまくなしなのは高等な他の生物の方々と比して余りにもふしだらだ。
それなのにああそれなのに此の馬鹿共は74億も集まって日々卑猥な活動ばかりを繰り返す。
なのでお前等はもうどう考えても不要である。
不要なので近く神仏により滅ぼされることだろう。
いやらしいので兎に角人間は増える。
なので虚勢して仕舞え!
と神仏がお考えになられ、其の結果すぐにサンマやイワシは獲れなくなりメダカや蛙は絶滅しあらゆる生態系は細切れにされかつ汚染されもはや役立たずともなろう。
嗚呼、罪深きかな、欲に捉われしバカ人類共。
私は今日テストで百点取りました、だとか、私は今日美人を手籠めにし最高に幸せです、だとか、私は今日ミサイルを発射致しました、私の思想は世界で一番でしかも私の力も世界一です。
だとか、そんなバカをいつまでもやって居るんじゃない。
この、バカたれ共めが。
第一バカはバカらしく大人しくしているべき。
何故そのやうに百点を取りたがる百憶を欲しがる百人の女を手籠めにしたがる。
おまへなんぞはほんたうは宇宙のクズである、クズ。
クズに思考能力は無いからもうまるで本能丸出し。
本能野放しの状態でのべつまくなしにやりたい放題だから危険極まりない。
のべつまくなしに一発病でのべつまくなしに金欲しい病でのべつまくなしに長生きしたい病でのべつまくなしにバカである。
バカ、つまり魂の程度が低い。
低過ぎる。
何故こんなんなっちまった?
結局は頭が悪かった。
どだいかの地動説自体が誤りである。
それから近代科学は全部誤りである。
さらに科学以前の人間の営為も須らく誤りだ。
即ち誤ること自体が人間の本質である。
だからこんなものになっちまってる。
人間は重い頭が首の上に付いて、それでもって胴から手足が二本生え股の間に何かが付いて居るよ。
こんなものが、ほんたうに世界の救世主などである筈がない。
逆にこんなものこそが世界の破壊者であるつまりは悪魔の手先である。
おお、悪夢よ、破壊神の齎す悪夢よ。
汝の醜い欲望が清い花々を汚す。
可憐なかの白い花々を汚す。
そんなに綺麗なお花だったのに、好んで其れを引っこ抜きどこまでも蹂躙する。
自然がそんなに美しいのに、そのままで完全で言外のものであると云うのに、あえて醜い観念でもって其れを屠り去る。
お前等は何故此の静けさの意味が分からないのか!
お前等は何故バカ―とかハゲーとか云いながらさうしてスマフォばかりを弄って居るのか。
静けさ、其れは真に上品なものの属性のことだ。
静かなものはハイ、私がやります分かりますとか言ってすぐに手を上げない。
無論のこと静かなものは不倫をせず校舎で一発なんぞしない。
静かなもの、たとへば其れが藝術のことである。
君は知っているだろうか、真の藝術とは静けさであることを。
アア、わたくしなどはもはや生まれつき此の静けさに充ちた詩人である。
従ってわたくしの周りには常にお星さまが煌めきまた常に真理の白い花々が咲き乱れて居る。
然し君等俗人にはこんな光景を想像することすら出来ないことだろう。
君等の周りには常に酒と金と女のドロドロの液体がへばりついて離れない。
尤も女やカネがドロドロになるとどうなるのか其れは分からぬが。
アアもうほんたうにいやらしい。
いやらしいことこの上ない。
そして臭い。
人間は臭い。
兎に角臭い。
2.に就いて
合理主義による世界の規格化は世界にとっての本質的な破壊を齎す。
何故なら世界とは合理化出来ない何かであるべきなのだから。
世界が腐って居るから合理化することが出来ないのではなく合理化すること自体が腐って居るから破壊が引き起こされるのである。
要するにデカいものは合理化してはいけないものなのである。
デカいものつまり全体的なものは合理の範疇を超えたものなのである。
対して小さいもの、生きてはいないものは逆に合理化しなければならないのである。
何故なら、人間とは自然なままでは生きられない厄介な生命なのだから。
自然は、逆に小さい領域の不合理さによって破壊され得る。
だから自然もまた壊れる。
生物も無生物も同様に壊れていく。
然し其れは全体の破壊には至らない。
小さな死の積み重ねで大きな生を成立させて居るのが自然の実相である。
だが人間の生は常に其れとは逆をいく。
だから人間にとっての破壊は、大きなものへの合理過程より生ずる。
逆に小さなものへの合理過程は人間にとっての本質的破壊を生じない。
なのでいまここで性の合理化は大丈夫なのかどうかと云う事を考えてみよう。
性はデカいものなのか、それともコマいものなのかと云うことを。
まあどう考えても其れはデカいものである。
デカいものは合理化などしちゃダメだ。
だから合理主義的男女平等ジェンダーフリーセックス思想こそはまさに最悪の思想である。
破壊神シヴァの命を受け近代教育が行うかの思想こそが日本を滅亡させ世界を粉々にし宇宙をドロドロに溶かし年端もいかぬ女共の股を軽々と開かせて仕舞う。
あれ、恐ろしや、恐ろしや。
破壊思想が世を蹂躙し全ての可能性を全ての未来を閉ざして仕舞う!
逆に大きな死の積み重ねで小さくて沢山なイノチの連なりを成り立たせて居るのが文明。
でも大きな死、其れこそは恐い。
ほんたうに怖い。
どだい74億人もの人権と自由と豊かさなど一体誰がどう保証して呉れると云うのか。
そんなものはまさに空理空論である。
だから地球上では其れは無理なんだ。
どだい無理な話なんだ。
宇宙へ移住しないともう無理なんだよ。
限定の解除が近代の思想の根幹には横たわる。
限定の解除は可能性の追求を認めると云う事だ。
自由とは限定の解除である。
平等とは限定の解除である。
然し限定自体は解除出来ない。
限定即ち非合理性は合理化の対象とはならない。
だから自然は部分を合理化することなく破壊しつつも永続していく。
其の合理化が破局の為の行いであることに気付かないままに。
自然→小さなものの死の積み重ねで大きな生を存続させる営為のこと
人間→大きなものの死の積み重ねで大きな生を破壊する営為のこと
故に可能性は、あえて追求するべきものではない。
故に自由は、あえて求めるべきものではない。
故に性は、あえてそっとし触れずにしておくべきものなのだ。
人間の思考は、近代以降まるでダメである。
つまるところ頭が良いのに頭が悪い。
と云う自己矛盾に陥って仕舞って居る。
事実科学が進めば進む程に人間の心は貧しくなる。
カネやモノは得れば得るほどにもっともっと欲しくなる。
女が出来ればつひHもやって仕舞う。
然しそのうちに飽きるのでもっともっと上等の女の肉体を欲して仕舞う。
愛の構築も何も無く実はその辺のところが男性の本音である。
だからあえて抑える。
抑えるとより女の価値が見えて来る。
不細工な女房や彼女が持つ大きな価値に其の時初めて気付かされる。
文明も一緒だ。
文明もマヌケでしかもバカだ。
こんな詩人みたく利口でない。
詩人みたく藝術のことが分からない。
ああ、文明、おまへはもう本当に厄介者でしかも役立たずだ。
おまへのことで我などはもうどんなに長く思い悩んで来たことか。
おまへなんか我自身ではなく他のバカ共の拵えた何かに過ぎぬのではあるが、そうかと云って知らんぷりは出来ずこうしてわざわざ付き合って来てやって居る。
どんなに感謝しなくちゃいけないことか其処でよーく考えてみよ。
さて大の合理化を止めよ!
とこの度詩人は述べた。
然しむしろ人間は小の方を合理化しておくべきなのである。
小と云うのは、医学でもって病気を治したり掃除をしたり風呂へ入ったりご飯を食べると云う事である。
然し其処には不倫や援助交際は入って居ない。
其れはあくまで大の合理化になるからダメなんだ。
そればかりか限定そのものを合理化する過程を歩むのが近代の実相だ。
平たく言えば人間が人間でなくなっていく道程こそが近代に於ける全的な合理化過程なのである。
全的な合理化過程=AI化、世界の支配者がAIに置き換わること、なのだろうか。
そして以降は精神論や道徳律などが何の役にも立たない世界が待ち受けて居ることだろう。