目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

裏返しの世界を長々と生きる我我


もしこの通りの事実なのであれば、矢張り思想乃至は宗教の受け持つ精神の力は大きいと改めて感ぜざるを得ない。ラスベガス銃乱射事件、「イスラム国」が関与認める


其れも両面にわたり其のやうなことが言えるのである。


所謂善悪の両面にわたり。



このやうに力と云うものは現象界に於いて二分割される。


即ち善きこと望ましきことと、悪しきことあってはならないこととに分解され得る。



ところが、真理の世界に於いては其の分別をこそ捨てていけとたとへばそう説かれる。


だがそうした思考と云うか精神ほど理解し難いものはない。


分別による知即ち認識を逆撫でされるが如くに感じられるが故に。



信仰の力は現世に於ける矛盾を乗り越えるべく授けられし力なれど、其れが即矛盾化し対立の淵源ともなる。


其れが宗教に於ける自己矛盾領域のことである。



宗教はあくまで個としての精神を規定するものだが、同時に社会的に精神を規定する。


規定化すればする程に其の規定力は強くなる。


ゆえに宗教が、まさに宗教こそが社会を規定し続けて来ていた。



宗教の規定力とは左程に大きなものである。



然し其の大きな力もまた所謂善悪の二元的分別の知の方へと傾き易い。


即ち善悪の分別を生じさせて仕舞う。


この善悪の区別での構築こそが世界を破滅の淵へと落とし込んでいく。



分別即ち区別こそが、全一なるものに対する負の過程であり誤りの過程である。


区別即ち限定の世界では其のやうに全ては矛盾化し避けられぬ対立の場、避けられぬ破壊を生じせしめて仕舞う。




善があるから悪がある


聖があるから穢れがある


論理があるから本能がある


バカが居るからリコウが居る


山があるから海がある


昼があるから夜がある



嘘があるから真実がある


現在があるから永遠がある


死があるから生がある




生の断片は二辺の対立の上での寄せ集め。


どんな断片の対立にも元より意味はない。



分かたれたものには結局意味などない。



意味のないものは無価値だ。


でも価値があるから無価値がある。



意味なきものは現れ、そして意味あるものは現れることがない。


ゆえに現象すること、これだけがほんたうの無意味である。


されど意味あるものは現れることなくして在る。



信仰があれば一方に無信心がある。


矛盾があれば一方に真理がある。



全ては全一なる方向を逸れて此処へ落とし込まれる。


冥き眼が其の道程の道先案内人だ。


二辺の対立へと向かわせることだろう道先案内人だ。



概念の世界は左様に何処まで行っても暗くうち沈んで居る。


むしろ概念だけが世界を規定するにも関わらず。




対立は避けられぬ

対立の無い世界など無い

世界は対立だけで出来て居る

尤も対立こそが共鳴を生む

対立なくば共鳴もない


悪なくば善もない

物質なくば心もない

心なくば物質もない


小乗なくば大乗もない

大乗なくば小乗もない

戦争なくば平和も無い


穏やかさは怒りの裏返しで

怒りは穏やかさの裏返しだ


菩薩は修羅の裏返しで

聖なるものは魔の裏返し


裏返しの世界を長々と生きる我我

其の認識は常に曇っている


鏡のやうに磨かれた心で覗き込むとそう分かる


世界の秩序の死と死なない限りでの生とが良く分かる

あらゆるものは夢のように儚い

そしてどこまでも重い


罪の意識に苛まれ何処までも重い

事実なんという重さだ

まるで自らを支え切れぬ程にも重い