- さて、一体罪とは何であるか、ということである。
わたくしは存在とは罪深いものである、とそういつも述べて来て居る。
其の罪深さとは限定という存在の本質に起因する。
まさに其の存在の限定性が、罪を生じさせる。
生じさせて仕舞う。
故に限定だから、罪なのである。
瞬間即ち現在だから、罪なのである。
或は不完全だから、罪なのである。
全体ではないから、罪なのである。
まさに罪はそのやうにして生じる。
在るから、罪だ。
逆に云えば無いものは罪に問われない。
無いと在るとの閾、其の違いに就いてが大きな問題だ。
たとへば在るものは無自性である。
即ち縁起により全ての存在は無自性であり、またそれによって空である。
などと大乗仏教では説かれる。
然し無いものは存在しない。
無いものは空ではない有自性そのものである。
在るものには常に波風が立ち、故に変化せざるを得ず、本質として不完全かつ不安定だ。
無いものは安定して無く、其処には変化が得られず、また多様でもない。
謂わば無いので在り得、元々無いのでなにものにも分たれない。
つまりは無いものを分けることなど出来やしない。
謂わば此の無いといふ段階こそが眞の存在だ。
また男でもない女でもない、生命でもなく非生命でもない眞の存在だ。
なので別に女だけが罪深いのではない。
男も鉱物も海水も皆等しく罪深い。
大きいところでは。
- 五悪
- 殺生
- 偸盗
- 邪淫
- 妄語
- 飲酒
- 十悪罪
- 殺生(断生命)
- 偸盗(不与取・劫盗)
- 邪淫(欲邪行・淫妷・邪欲)
- 妄語(虚誑語・虚妄・偽り)
- 両舌(離間語・破語)
- 悪口(悪語・悪罵)
- 綺語(雑穢語・非応語・散語・無義語)
- 貪欲(貪愛・貪取・慳貪)
- 瞋恚(瞋、恚害)
- 邪見(愚癡)
- 五逆罪
- 殺母
- 殺父
- 殺阿羅漢
- 出仏身血
- 破和合僧
とのことである。
このやうに宗教的次元に於いて初めて罪は成立する。
或は哲學的次元に於いてしかり。
然し、宗教と哲學の無い時代に於いて罪は成立しない。
そして逆に其の事実からこそ罪の意味が明らかになる。
ゆえに今、まさに今、此の罪の意味が手に取るように分かる。
在ることの罪と、猥雑な様。
其のザワザワとした不快な心根が逆に手に取るように分かる。
全体では無い罪は、わたくしを形作る。
其のわたくしが行為し、現在を形作る。
然し其の形作られた現在は罪からの贓物なのだ。
ゆえに我我は今其の罪をこそ生きる。
老いも若きも、猫も杓子も、男性の下半身も、女性の下半身も、もうまるで全てが其の罪深さに捉えられている。
現在が罪で、明日が来るだろうこと、過去があったことなどが、皆其の罪のお蔭である。
陽が輝き、鳥は囀り、川は流れ海はたゆとうことがまさに其の罪のお蔭である。
お陰様で。
もう、罪様様。
左様に在ることは罪で、無いものに罪は生じない。
では生じることと、生じないことの一体どちらが良いのか?
生じないことの方が良いに決まって居りまする。
即ち「見ざる、聞かざる、言わざる」という叡智が其処に含まれてもいよう。
無いものは静けさに充ちて居る。
嗚呼まるで夜のしじまのやうに其れは寡黙だ。
対する煩きもの、鬱陶しいもの、限りなく膨張する世界、
思想、欲望、男女関係、ズバリ淫行、
などはもう限りなく膨満してかしましく煩わしいことこの上ない。
ハテ、このざわめきとは何か?
このざわめきこそが生の主体であり、煩悩の主体である。
或はこのざわめきが好きか?
好きだからこそこうしてわざわざ出て来て居るのである。
此の倒錯の世界に。
かようにざわめく莫迦はざわめく世界が大好きだ。
尤も我は、
実は余り好きではない。
実は煩い世界が大嫌いで、
おまけに煩い莫迦女も大嫌いで、
寡黙な男性か、
または寡黙な掃除の出来る女が大好きだ。
たとへばかの手塚 治がかって語りし生のエロスのようなもの、
そんなものに陶然として魅入る、或はヘロヘロにされるなんてのは金輪際御免である。
では生はエロスか?
エロなのか?
そうだ、エロだ。
エロ以外の何ものでもない。
我我はエロから生まれそしてエロの世界へ戻っていく。
だが其のエロこそがわたくしは嫌いだ!
エロをもうええ加減に止めよ、
そうして限りなく静謐な、
限りなく暗い、
限りなく死に近い、
限りなくざわめかない、
限りなくエロでない、
そんな完璧な世界へと旅立とうではないか。
サア、いまし我と共にかの天界へと出向かう。
それにしても手塚 治は何で生命にエロを感じて居たのだろうか。
対してかって釈迦は女なぞ糞便の詰まった革袋だとか何とか喝破して居たものだがまさに其の通りで畢竟生命なんぞ糞便の詰まった革袋である。
然し藝術は其の糞便の詰まった革袋を美化してやまない。
クソ女をクソ女だとは云わずに、嗚呼、アナタはまるで花のよう、まるで野に咲く一輪の花のよう、まるでアヤメかカキツバタのよう、否ユリの花のよう、
おお、何と美しい、そして香り高い一輪の花であることよ!
とか何とか云いつつ生命の莫迦さ加減に妙に媚びる。
無論のこと其のエロはアガペーへと昇華され得るのだが、現実には此のザワザワの世界はほとんどの場合がエロで終わって仕舞う。
つまりはエロの方が多い。
より多いエロ。
其れは女の下半身のこと。
であるのでエロは罪、
罪こそはエロ。
よってエロースは断じて罪だ。
生命の豊かさも勿論罪だ。
花の美しさも可憐な彼女の睫毛も全てが罪だ。
こんな風に美しい罪が此の世には一杯だ。
其の罪作りな、或は罪深い何やらでもうはちきれんばかりなのだ。
生じることは罪を生きること。
生きることは罪。
だが死んでも罪。
宇宙を充たす静けさは、
たとえどんなに堅固なものでも、
わたくし自身の静けさではない。
罪の果てに生まれ、
たまに恋をし、
そして病んでいくが、
いつまで経っても解けることのない、
此の謎めいたざわめきに、
其の狂おしく、
間違いで、おまけに罪深い、
其のざわめきの全てに今クソッタレと言ってやりたい。
今まさに其れを言ってやりたい。
デーモンと天使が番う此の世の実相に、
其の一言をだけ投げかけておきたい。
ーちなみにかのマハトマガンディーは常に3匹の猿の像を身につけ「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と教えたとされて居るのだそうな。ー