目覚めよ!

文明批判と心の探求と

加島 祥造先生追悼 「死」は無駄に消えるんじゃない






でっかい何か=自然に繋がっている我々は元来空虚なものではない


元々其れは何か充たされたものなのだ



だが空虚さを空虚さとして感じてしまう我々には自然における真の豊かさが見えてはこない


謂わば変化を「受けいれ」ないでいるからなのだ



過去や未来に捉われると人は現在を生きられない


だから苦しむ


逆に現在をありのままの自分を受け容れることこそが今を生きることなんだ


受けいれる


すると楽になれる



観念の牢獄を離れて人は自由になれるんだ




死は変化そのものであり再生につながること


だったら何でそんなものを恐れる必要などがあるのだ


その変化や自然との絆は


体では分かっていても頭の方が拒否していることに過ぎないんだ



だから受けいれる


現在を受けいれて過去や未来に蝕まれるな


どんなに悲しいことも


またどんなに大きな矛盾も


共に受けいれる



受けいれることでしか成らない何かを受けいれる






言葉とは虚であるとかってわたくしは申しました。

ゆえに言葉とは嘘であり自己矛盾するものです。

言葉の縁に立つ詩人には其のことが痛いほどに分かる。


言葉の持つ意味の裏腹さ、其の不実な様はまるで海底の牢獄の如くです。

あらゆる虚の圧力に支えられ

其れは存在して居る

またはあらゆる虚の圧力に押しつぶされ

其れは存在して居る


でも悲しみとは現在である。

とわたくしは逆にそう考えるのです。

先生のご意見はごもっともなのではありますが、わたくしは現在を受け容れることなど出来ません。


受け容れるとはタオの上での真理の言葉であり、仏教で云う所での放棄とはまた違う方向性での一元化のことなのでしょう。

大元との一元化、溶け込む方での観念上の解決の仕方ですね。



人間は奇形生物ですので、つまりはこうして頭が特殊に肥大化した化け物ですので、気を抜いて接していてはいけないとわたくしなどはいつも気を張って彼等に接して来て居るのです。

勿論自身も人間ですので其の阿呆さ加減が良く分かって居る分あえて受け容れることなど出来ない訳です。


ただ、真理とはあくまで「受けいれる」ことであり「求めない」ことです。

もはや言葉を信じては居ない詩人に言葉の上での信仰のありかを先生は指し示して下さいました。

ですがわたくしにとっての真理とはあくまで捨て去ることであり求めないことです。


逆に悲しい現在は過去や未来に飛ぶことで相対化することが出来よう筈。

絶対化されし現在こそが諸の固執を生み出します。

だからわたくしはあくまで「捨て去る」のです。

捨て去ることで逆に現在を失うのです。




現在を失うと
過去や未来が見えて来る

まさにその代わりに
現在つまり現実を失う

其の牢獄を
どこまでも生きる

悟れないそして今でもない今を
呪いつつも生きる




其れがわたくしの精神の上での基本的なスタンスです。



真理ではなく生活でもなく

現在ではなく愛でもない

懐疑でもなく死でもなく生でもない

詩ですらなくつまり言葉でもない



自分を見つめず人間をただ見つめる

或は自分の中の人間だけを見つめる




人間は今どうしようもなく世界を破壊していくばかりです。

しかもそのことを望まないにも関わらずそうせざるを得ない訳であります。

だから人間には世界の究極の問いが常に突き付けられて居ます。



一体何で?



という其の問いこそが。



欲望が世界を変え欲望が心を変えます。

先生が仰ったように、欲望も一面ではまた大事です。

行き過ぎない限りでの欲望が生を成り立たせています。



然し行き過ぎる欲望は調和でもなく、再生でもなく循環でもない真の意味での死を世界に齎します。

わたくしには彼等がすでに其の最後の欲望を解放して居るかのように見受けられる。




なので求めない

求め過ぎないことこそが大事だ


求め過ぎることこそが破壊である

求め過ぎることこそが死を生と分離させ得る

真理でもなく生活でもない

其の幻想こそが破壊を齎す



永遠には生きられない人間が求め過ぎて永遠に生きようとする

虚の豊かさに酔い痴れ求め過ぎて仕舞う

要らないものばかりを此の世にばら撒き

本当の豊かさ、真の幸福について考えようとしない



そうした現在を生きるほかない哀れな生き物が我々人間であるということだ。



先生、わたくしは従って、先生の歩まれた道とは別の道を歩んでいきます。


第一わたくしは先生の様に学識豊かでもなければ女性にモテる訳でもない。

それにわたくしは至極不器用なのでしてね。

其の不器用さが謂わば詩人としての高倉 健並なのでそうした不器用な論なり詩なりをものしていきたいとそう願って居る者です。




だが最終的には「受けいれる」ことを受け容れるのかもしれない。

でも今は其の時ではありません。

そして「求めない」ことこそを追い求めていくことでしょう。



死が再生であるために

生が死でかつ死が生であるために

そして受け容れられないことのためにそうしていくことでしょう。