目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

望ましい合理化の範囲ースケールー

労働基準法改正により企業に年5日の有給休暇消化を義務づけ!

http://worklifefun.net/obligation-of-five-days-off/

有給休暇の義務化で本当に有給を使えるようになると思いますか?

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10136537850


元来日本人は勤勉かつ働き者で、そして個としての生き方よりも団体としての生き方を大事にするといった、それこそまるで働き蜂か何かのようなクソ真面目な民族なのである。
然し真面目というものは、実は団体の生み出すまとまった成果のみにあるのではなく、たとえば藝術家が生み出す作品の数々や学者、科学者が生み出す論理的な道筋としての結論といったものであるように個としての人間が生み出す目標に対しての真面目さというものもまた存在して居るのだろう。


其れで特に後者のタイプの人間には自分の作品や考えを纏める時間が是非必要になることだろう。


実際どうも人間には其の二種の人間が存して居るように思われてならない。



わたくしの場合は明らかに後者のタイプなので休みを取れるようになることは矢張り大層嬉しいことだ。

そして無論のこと前者のタイプの人にとっても日頃酷使しつつある体を休める為の時間は是非必要である。

だから労働環境はこのように法制化、法整備しつつ改善されていくべきなのである。

即ち労働者を或は人間を人間扱いしない社会ではいけないのである。





なんとなれば企業が金を儲ける、というのは、壊してはならない地球を少しづつ壊して其の利益とやらを頂いて居るということなのである。
資本主義社会に於いては元来此の視点が欠けて居るゆえ、其処で会社の経営者側がつい大きな顔をして労働者をコキ使ったりして仕舞うのである。


されど本当に立派な人間、出来た人間というものは、このように自然や労働者を搾取して自分だけが金持ちで居たいなどとは思わない筈なのである。



以前にも述べて居るように資本主義社会とは、或は近代社会とは花火大会のようなものなのであり、刹那の、そして世界への破壊の爪痕を残さざるを得ないものなのである。

利便性の追求、豊かな暮らしの追求は必然として破壊を招く。


謂わば破壊なき豊かさはあり得ないのである。


花火のような光の乱舞、其の輝きも、其れをみて華々しい気持ちに浸ることなども実は皆其の破壊から齎されて居ることだろう爽快さのことだ。





またたとえば自動車は速い。

其れもスポーツ車ならば時速二百キロ位はすぐに出せよう。
其処まで出さなくとも150キロ位で高速道路をすっとばすと相当な快感が味わえる。


ちなみに我は昔車が好きで今思えば屡かなりの無茶をして居たのでありしが、其処で得られた快感というものは当然のことながら一瞬のことであり、つまりは180キロの暴走もワインディングロードを攻めるのも結局は永続することのない夢の如き刹那の快感の体験であるに過ぎない。



いや、そればかりか、あらゆることが其の夢の如き脆く儚い体験であるに過ぎない。


恋愛も親子関係も、仕事や表現、好きだったものや嫌いだったものの全てが其の幻そのものだ。


ましてや資本主義に於ける利便性の追求、豊かな暮らしの追求なんてのはむしろ一番幻のことで元々其れはいつ捨て去っても良いような類のことなのだ。

だから何故我々はこんな下らないことに血道を上げつつ生きるようになって仕舞ったのだろうか。

実際今の世の中は要らない物で溢れかえり其の傾向と反比例するかのように真理のことば即ち精神は失われていくかのようである。





が、資本主義に於ける根本の矛盾性が休みを取ることで解消される訳では元よりない。


小さい処を細々と改善したにせよ根本の処で居座る矛盾が解消される訳ではない。


むしろ大きい処を革命する、いや、改革することこそが必要である。


即ち大矛盾の方をこそ根本的に解消すべきなのである。




有休の取得の法制化による義務化は、謂わば小の方での合理化である。


合理化は、全部が全部悪いのではなく、このように小の領域では合理性を是非持たせるべきなのである。


然し、大の方の領域での合理化はどう考えてもマズいのである。




たとえば金融経済による中間層や低所得層の破壊、科学技術による自然の破壊、未来に於ける人類及び社会のIT化による人間自身の破壊などが皆此の大の方の領域での合理化の結末である。


つまり、不完全な人間の理性は大の方の領域で活躍することで必然的に破壊を齎して仕舞うのである。



完全なる理性、即ち神仏に於ける理性というものは、其処に極楽やらエデンの園といったものを現出せしめはするが、其処で決してそのやうな破壊を齎しめるものではない。


其のやうな破壊、即ち大矛盾を殲滅せしめる為にはむしろ其処で大規模な非合理化、非論理化、非秩序化を行う必要があろう。


其の非合理化、非論理化、非秩序化とは、其れを一言で纏めれば非グローバル化する、或は中世化するということでもある。


近代以前の非合理的で非論理的で非秩序的な世界観を取り戻した方が宜しかろうといった話である。



ただし其れもそのままに歴史の歯車を戻せと言って居る訳ではないのである。


其の様な非合理性を据えた新たな枠組みでもってして不完全な理性の齎す破壊から逃れていった方が良いということなのである。

だから金融経済の齎す虚の利益追求と格差社会から逃れ、科学技術が地球をぶち壊すことからも逃れ、未来に於ける人類の愚挙即ち自己破壊からも逃れていく必要があろう。




ただ、大の方での非合理化は当然のことながら非常に困難である。


大の方での非合理化が成ればおそらくは百年後も人類の存続が可能となるのかもしれぬのだが惜しいことに其れを行うことが大変に難しい。


かように合理化といふものは、其れが適用されるべきスケールというものが元より存して居るのだろう。


近代以降の文明が犯した過ちとは、其の合理化の適用の範囲を違えたことなのである。




ではもう一度申しますよ。

合理化は、小の範囲でこそ行うべきこと。
合理化は、大の範囲で行うと破壊を齎す。


ゆえに近代以降文明は破壊への必然の過程を辿ったのであるに過ぎない。





尚、このことはわたくしが直観したところでの最新の概念です。
ちなみに最近わたくしはどうも此の直観というものが多い。


それも何かについて調べ物をしたりして居る時即ち学んで居る時などに頭の中でピッと出て参ります。

此の部分は、丁度量子力学の世界を検索して居る時に出て参りました。

以前述べた鏡のイメージなどは、かのダヴィンチの鏡文字のことを調べて居る折に突然出て参りました。


共に超論理的帰結、結論であるということなのでしょう。





合理化とは論理化であり秩序化である訳なのでしょうから近代合理主義により合理化されし現代の都市文明空間は須らくが論理化されかつ秩序化されて来て居ります。


然し論理化されかつ秩序化されし空間はやがて自己矛盾化し崩壊への途を辿ることでしょう。


まあ其処は自然との関係に於いて自己矛盾化して仕舞うということなのだろうと思われます。




だから其の大の方の都市空間ー人工空間ーはあえて非合理領域へとほぐしておきます。
それこそ雁字搦めではない大雑把かつ適当で、おまけに柔軟なものへと変えて仕舞う必要があるということです。


然し人間の生活自体は合理化されて居ても良い筈です。
たとえば部屋がグチャグチャに散らかって居ては其処は人間の生きられるところではなくなるので合理化して掃除を行います。
するとたとえ古くて小さな部屋でもとても快適に住まうことが出来るようになる。


また人間の体は物理的な合理性により存在することを継続して居ます。

ですので医療という合理化で病気という非合理領域を排し健康に過ごせる様にもなる訳です。


ただしこの小の方の合理化にも自己矛盾領域が発生致します。


何せ掃除をしませんと部屋はまたすぐにグチャグチャに散らかるのだし、薬の御厄介になり病気を治すとはいえ最近は抗生物質の効かない耐性菌などが増えて来ても居りましょう。




対する大の方での合理化は、おそらくは其処で自己矛盾領域が最大化され建設の意図が破壊へと逆流を始めて仕舞うのではないかしら。


要するに大の方での不完全な理性の働きはむしろ非常に危険であるということなのでしょう。

この様に合理化することの範囲またはスケールということは、非常に重要なことのように思われます。


合理主義的な経済学や合理主義そのものである科学技術の世界観に於いて、其の自己矛盾領域の拡大により不安定化しかつ格差化しつつある現代社会に於いては、其の合理化の度を抑え非合理的な修正を施していくことは真の意味での建設を此の地球上に於いて行って行くということにもなりましょう。