目覚めよ!

文明批判と心の探求と

「映像の世紀」より思うこと


人間とは何かということを問うていくこととは、人間の精神そのものを問うていくことにほかならない。

人間はこの長きに亘る歴史過程の中でひたすらに自己矛盾的領域を拡大させて来た。


また其れを爆発的に行ったのが近代以降の人間の歴史であると考えられる。

近代とは人間の思考が端的にまたより強調されて現れ出でた何かなのである。


ゆえに近代を考えることは人間の本質を考えることである。


近代とは人間に与えられしひとつの、そして最後の宿命なのである。

宿命的に其れは避けられずまた誤魔化すことが出来るものなのでもない。


近代はこのまま人間存在の首を絞め続けていくことだろう。

近代が人間を絞殺し、絞殺されつつある人間こそが近代という道のりを形作るのだ。



其の様こそがこの自己矛盾過程の終焉である。

我々はまさにあの火中に飛び込む蛾のようにただ黙って其の時を迎えることだろう。


然し我々には幽かな光がまだ残って居る。

朧げでいかにも役立たずに見える其れは精神の光なのだ。


哀しみのありかについて問う力が、そして自らの欲について自ら問う力が、其の精神そのものであり光でもある。




新・映像の世紀-NHKオンデマンド
https://www.nhk-ondemand.jp/program/P201400121100000/


さて最近わたくしはこの新映像の世紀という番組を繰り返し視聴して来て居ります。

其処には興味深く、かつ示唆に富む内容が盛り込まれこれ以上勉強になる映像は他に無いのでは?などとも思わせるものです。

すでに第三集まで視て仕舞いましたので、昔作られたー90年代にー映像の世紀の方も是非また視てみたく思いました。


現代人の抱える一番の問題は現在化された現在に於いて精神的なゆとりが持てないということなのでしょう。

つまり考える時間など其処にはそも無い、思考が真の意味では成立しないということなのであります。


其の様な社会に慣らされて来て居る、調教されて来て仕舞って居るということである。

其処でわたくしは其の流れにはむしろ抗いたい訳です。


詩人としては是非抗いたいということだ。

でもサラリーマンとしてまた一生活者つまり庶民として抗うという訳ではないんです。


あくまで私の中の半分の詩人が抗いたいからこうして妻子も持たず他の何ものにも拘束されずちゃんと抗って居ますよといった意味でです。

あくまで精神的に其のことを行って来て居るということです。





   


http://moviemaga.blog20.fc2.com/blog-entry-8723.html


映像の世紀」はNHKの方でも有料で全部視聴出来ますがこちらの方では無料視聴することが出来ます。

私はつい先程第一集の方を十年振り位に視てみましたが矢張り非常に興味深く視られまさに勉強になる番組でした。


かって私はこの「映像の世紀」を全部ヴィデオに録画して半年に一回位は視て居たものでした。

ところが三年前にヴィデオ機が壊れたのでもはや視ることが出来ません。


おそらくヤフオクでヴィデオ機の良いのが超安く売られて居るのでしょうがヴィデオ機を接続したり操作したりすること自体がもはや面倒なので買い替える気にもなりません。

すると当時から私が編集して居た膨大な情報の入ったヴィデオテープが全部屑と化していくのであります。


そう私の部屋にはそうして数百本のヴィデオテープが埃をかむったまま放置されて居りますが実はこれでも以前に三分の一位は処分して居るのであります。


兎に角エロ物よりはこうしたお堅い内容の番組乃至はDVDが好きなわたくしはこの手の番組にはすぐに貪りつくのです。




其の「映像の世紀」第一集を半分だけ視て驚きました。

なぜなら漱石トルストイといった文學者のエピソードが紹介されて居る部分が私にはとても新鮮だったのです。


番組の中で漱石は紀行文のようなものとして当時の欧州の印象をサラリと述べて居ります。

然し漱石の、文明への、そして人間存在そのものへの懐疑的な眼差しはどこまでも徹底して居るように見えます。


漱石には近代文明への不信感が何よりあり、其れで近代化していく日本に対しても大きな不信感と絶望感を持たざるを得なかったことだろう。

だから漱石は常に癇癪持ちで機嫌が悪いことで有名でした。

ですが其れはあくまで文明の本質を見定めてのことだったのだ。


近代の大衆ー近代に於いていつも機嫌が良いー勘が悪くて馬鹿だから近代の危うさなんて到底見抜けない、だからいつも生活が楽しい。

近代の知識人ー近代に於いていつも機嫌が悪いー勘が良く利口だから近代の危うさに絶望しかついつも不機嫌である。


という当たり前のことですね。

ただしわたくしは決して大衆の敵ではございませんので、そこはあしからず。


逆に大衆を持ち上げたいからこそわたくしは宗教詩人をやって来て居るのです。



そして実はもうひとり、二十世紀を代表する大文学者であるトルストイが番組に登場します。

トルストイは1904年に日露戦争に対する反戦論を発表して居ります。


其の反戦論にはたまげました。

日本は一切の殺生を禁じた仏教徒の国であるにも関わらずあえて其処で殺生をなし、かたや露国はすべての人々の兄弟愛を公言するキリスト教徒であるにも関わらず其処であえて其の愛を踏みにじる。

其の様な精神の矛盾性、自己矛盾的状況の発生につきまず言及されて居たのです。


この様に文學者とは或は文化の力とは、人間の行いの上での問題の本質をしかと攫むものであるべきです。


商業主義や世の風潮に流されてこの本質への訴求力を失ってはならないのであります。


ゆえに今日的に藝術は大衆化されるべきではなく、逆にトコトン世間の人から煙たがれるような存在になるべきなのである。



当時トルストイは世界で最も有名な大文化人で、露西亜ではまさに後の映画スター並にも扱われ彼が訪れた町には常に黒山の人だかりが出来て居たそうです。


其のトルストイは然し最晩年に至り絶望して居たそうです。

何に対してかと云えば、人間に対して絶望して居たのであります。


ある時彼は妻を家に残して家出をしました。

そしてとある駅で倒れ、そのまま帰らぬ人となったのです。


大文豪のこの死に様を、今我々はどう受け止めたら良いのだろうか。


漱石が、そしてトルストイが悩みに悩み抜いたこの人間そのものへの不信と矛盾との様を。