目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

愛の普遍化の行方


ちなみに高校生の頃わたくしはMary Christmas!と教科書の裏に書き綴りが違うと其れを発見した英語の教師に怒られたことがありました。

カトリック 南山教会の紹介
https://www.youtube.com/watch?v=YBAw6EwsQlE


さてこちらは今夜わたくしが立ち寄る予定ーあくまで予定であるだけなので止めて仕舞うのかもしれないがーである南山教会の紹介動画である。

元より仏教徒であるわたくしにはクリスマスなどという行事は本来余り関係が無く、其れでいままでは何となく食して居たクリスマスのケーキだの何だのというものも本年は一切止め其処でむしろ根本仏教講義の方を勉強する予定であったのだが、習慣というものは恐ろしいものでこの時期になると教会の方につい浮気心が起こって仕舞うといった次第である。

第一南山教会の辺りはここ名古屋市でも一等の高級住宅街で木立に囲まれた豪邸が多くありこの辺へ夜行くだけでも頗る気分が良くなる。ー無論のこと空気も良くイルミネーションなども綺麗だー


それにわたくしの父や叔父は南山大学の出身なので其処は何だか知らないが昔から縁があると云えば縁がある。

わたくしはあくまで仏教徒として教会へ行くことに決めて居るので、其処でいつも仏教徒の私ではありますが、などと嫌味たらしく述べながら教会へと入っていくのである。


最終的にはわたくしは宗教の垣根を越えて現代文明のあり方につき話し合いたいと思って居るのであるが、さりとてわたくしはタダのアマチュア宗教詩人であって教会側の偉い人が対応して呉れるものとも思えない。

其れでそうは思いつつもいまだに其のことが果たせずに居ることが少し悔しい。


然しわたくしは年中行事のひとつとして行われるクリスマス自体を否定するものではない。

否定はしないが可成にバカバカしいものだと思って居ることもまた確かなことだ。


無論のこと其れは仏教徒である筈の日本の国民が何故こうも安易にクリスマスを祝えるのかという点につき合点がいかぬからなのである。

クリスマスとは元々宗教儀礼の一種であると考えられるが此処日本国でのクリスマスは其の本質の部分を欠いたクリスマスなのであるから単にクリスマスのようなことで楽しみます、ということであるに過ぎず当然ながら其れは矛盾的クリスマスの最たる例であるに過ぎないのである。



Wikipedia-クリスマス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9


クリスマスということ自体にも様々な矛盾的要素がありキリスト教系の新興宗教団体であるエホバの証人の機関誌にはクリスマスなどは認められないなどとも書いてある。

キリスト教という宗教も当初は人間にとって非常に厳しく矛盾的要素の少ないものであった訳で、ということは要するにイエスキリスト自身がそうした何処までも真っ直ぐな人であったということなのであろう。


対して仏教というものも釈迦の説きし原始の教説は人間に対して非常に厳しいものであった訳だが時の流れと共にそうした純粋な部分が溶解し甚だ不純かつ矛盾的なものとなっていくのは如何ともし難い現実的矛盾過程なのだと申すほかは御座らぬ。

いずれにせよ聖というものの成立はかって普通に存在して居たのだったが其れが時代の変化と共に変質、変容しやがては解体されていくということの問題は人間の精神を本質的に問うていく時に大きなカギとなる何らかのものであろうことは想像に難くない。


たとえば中世以降はキリスト教圏の国々に広く行き渡って居るマリア信仰につき常常わたくしは考えてみたりもして居る。

マリア信仰はキリスト教の教義自体には無かった筈だが教会内部でも時の流れと共に認められていったもののようだ。


然しイエスキリスト自身は母であるマリアのことをただの女として捉えて居るフシがあり従って其れは大事な母親でも何でもなくましてや聖母様などでもなかったのである。

釈迦自身も女性に対しては常に厳しく、ゆえに自らの子を産んだ妃に対しても最終的には捨てるという無慈悲な行いしかして居ないのである。


此処でわたくしが言いたいこととは、宗教即ち真理領域での思考というものは常識的判断乃至は感情的判断に決して従わぬだろう無慈悲なものでもあるということなのである。

人類を代表する知恵を持ち合わせて居たことだろうこの両者にしてからもが、其の様に常識的判断乃至は感情的判断には決して屈して居らずまさに母ちゃんや妻のことなど全然顧みたりはして居なかったのだ。


いや、当時は兎に角女なんて全然大事な存在ではなかったのである。

だからクリスマスの夜は愛する人と過ごしたいなどという一般的な感情はタダの行事に由来するものなのでありキリスト教の本質とはまるで別物であろう幻想であるに過ぎない。


ただしわたくしは其の幻想を否定するものではない。

第一現代は幻想の時代である。

すべからくに幻想を持ち其れを生きることで幸せだと勘違いして居ることの幸せが現代人の幸せそのものなのだ。


逆に言えばそうした幻想を持ち得ないことだろう目覚めた人々の心中は複雑である。

たとえば愛する人など居ないのだとしても愛する神があれば其れが本当の愛と呼べるものなのだろうか。

愛する妻や子への愛こそが偽りであり仮のものであると見て取り妻子を捨てて出家した釈尊は果たしてどんな気持ちで其のことを行ったのだろう。


此の愛ということの抱える問題は古来より宗教や藝術に於ける枢要なテーマとなって来た。

愛は自己矛盾することなくして成就せず、愛の限界は即自己の限界であり即ち自我の限界でもある。


この愛の限界を超克する手立てはあるのか?

仏教は其れに対し愛を捨て去ることを教義に据え、キリスト教は其の愛を普遍化することを教義に据えた。


愛の普遍化とは、其は果たして可能なりや否や?

其れで其のことにつきひやかしに行くつもりで、今夜わたくしは教会へと出向くのである。


否、教会の周りを自転車で一周しクリスマスの雰囲気だけを是非感じて来たいのです。