目覚めよ!

文明批判と心の探求と

現在とは矛盾そのものだが



重要なことはこの矛盾に満ちた現在そのものには矛盾は生じて居ないということなのである。


そうだ、現在とは矛盾なのである。

現在とは矛盾そのものだ。

という事は矛盾ではない現在というものはあり得ず、たとえば現在に対置される永遠、と云った概念には矛盾が一切存在しないということともなろう筈だ。


つまるところ時間が流れ現在化され得るところにこそ矛盾が生じていくのである。

対する永遠とはそも其処に時間が無いということなのである。


ならば生命現象に於ける自己矛盾性の発現は不可避のものともなろう。

生命とは其の様な必然としての矛盾である。


其の矛盾の様を、古より人類は様々な言葉でもって論じて来て居る。

たとえば地獄という概念は洋の東西に関わらず古くからあり、其の本質こそがこの自己矛盾的領域のことなのであろう。


自己矛盾即ちエゴイズムの蔓延による罪過の為に人類は地獄に堕ち其処でそれこそ永遠に苦しむのである。

これこそ地獄の業火に苛まれるというやつである。


本来ならば、そういうのこそを罪と呼ぶのである。

近代法が規定する罪など本来ならば、罪のうちには入らないのである。

罪とは本来其の様なより大きく捉えられし矛盾の筈だった。



其の罪に満ちた現在という矛盾に於いて、毎日様々な問題が飽きもせずに起きて居る訳だが其のこと自体には何ら問題がないということにつきわたくしは今語って居るのである。


其れは良い、悪いという価値基準では実ははかれない自己矛盾的な既定ー既成ー事実の積み重ねなのである。

私は前々回に人間という存在は悪いと申しましたがー性悪説のことだろうか?ー其れは其の様な捉え方をしない限り宗教というものが成立し得ないので其の様に述べたまでのことです。


然しおそらくは自己矛盾的に規定されし生命を、いや、其の自己矛盾性自体を悪いなどと決めつけることなど出来ないだろう筈なのだ。

という事は其の価値を決めつけられない、まさにフワフワの自己矛盾性に包まれて歴史の最後までこんな馬鹿げたゴタゴタを続けていくこと自体にこそ人間の意義があるのだと言えなくもない。


平たく言えば其の矛盾をこそ生きるのが人間存在の宿命であるということなのだろう。

其の矛盾を生き切るのがこのバカな人間存在としてのアイデンティティである。


さて、先にも述べた如くに、この我々というバカには、時間が流れつつあるということを知覚する能力だけは備わって居る。

其れで時間が流れれば流れる程にむしろ悪くなっていくだろう歴史の流れを其処に見て取るのである。



逆に時間が流れれば流れる程にむしろ良くなっていくものがあり、其れが世の流れを所謂理性的に判断し予測を行うことである。

其れでもって来るべき将来、未来が何となく分かって来るということである。


すると其処ではむしろ理性的世界とは反対であるところの、それこそ阿鼻叫喚の地獄絵図が描き出されて居るのであるが、其れでもめげずにー多くの人はそんなことつゆ知らずということなどもあろう。第一昔から屡、盲千人、目明き千人などとも申します、こうしてこともなげに日々を送って来て居る。


其の面でも我々は真の意味での自己矛盾者である。

自己矛盾的状況自体には何ら問題は無い筈なのに我々自身には大いに問題が生じて仕舞うのがこの浮世での苦しみの実相だ。




さてかってダニエル・ベルという米国の社会学者が色々と興味深いことを述べていたそうだ。

彼の思想的立場は近代主義を否定し宗教の重要性を説いたそうだからまさしく私の立場にも近いと言えそうだ。


彼は『イデオロギーの終焉』『脱工業社会の到来』『資本主義の文化的矛盾』などといった本を著したそうである。

『資本主義の文化的矛盾』では政治と経済と文化の三者は、絶対に相容れぬであろう矛盾するものになっていくとの結論を下したそうだ。


文化とは何かということを考えると、其れは結局幻想に対する真理方向への流れのことではないかと最近私は考えて来て居るのである。

何故なら文化とは屈折であり、ストレート思考即ち合理主義の範疇には入らないものなのだから。

其れは非合理主義を基調とするものなのであり、また現在を現在として生きるものでもなく過去や未来へと自由に飛び回り尚且つ色々と悩みながら大きくなっていくもののことだ。


宗教でも藝術でも、其れはあくまでもそうなって居るものである。

ただし宗教は人間に限度ー節度ーを求めるが、藝術が常に人間に限度を求めて居る訳ではないのだ。

然し藝術の抽出する精神の洗練度は結果的に人間に弁えることの美徳を齎すのではなかろうか。


また文化とは自己実現の為の過程であるべきだ。

政治と経済の力でもってして幾ら便利で暮らし易い世の中を作ったにせよ、其処に宗教や藝術が無ければ人間は本質的に快適には暮らせないのである。

何故なら人はパンのみにて生きる存在ではないからなのだ。




現在を現在としてストレートに生きる為だけに我々は生きて居るのではないのである。

よって金だけが全てなのではなく、また仕事だけが全てでもないのである。

かつ家庭だけが全てなのではなく、地域社会や国家だけが全てなのでもない。


人間には現在を生きざるを得ない上での精神的な苦しみが常につきまとう。

其の原罪としての苦痛に向き合う真っ直ぐな姿勢こそが宗教であり藝術である。


従って文化の領域には元より合理主義など通用しない。

文化は謂わば生もの、生きて悩んで居るものなので効率的でもなければ公明正大でもないのである。

おそらくはそんなグチャグチャでグニャグニャで訳の分からないものだからこそ真理に対して真っ直ぐなのである。



合理性とは理知性が分解されて出来たものだろうから、一言で云うと其れは冷たいものだ。

でも宗教や藝術は其処に血が通って居るからあたたかいのである。

理知性には知識と知恵の部分とがあり、合理性は知識偏重で知恵の方は宗教や藝術にも通じたものだとわたくしは考える。


だからたとえ宗教家は迫害され詩人や画家は早死にするにしてもだ、其れはあくまでもどこまでも人間的な行いなのだと言えよう。




文化は資本主義が過剰になっていくにつれ、その資本主義を育てて きた政治・経済・技術から背を向けてしまったのだとベルは述べたそうだ。


然し私の見方は其れとは少し違い、文化が背を向けたのではなく資本主義的に変わって仕舞った政治や経済や技術こそが文化から離れて行かざるを得なかったのである。

其の巨大になり過ぎた政治や経済や技術が文化の持つ真理方面への方向性と甚だしく乖離していったのである。


私は近代の大問題の第一番目の問題としてこの大、つまり巨大なる何か、ということを常に頭の中に置いて居る。

其の大は良いか悪いかで云えば必ず悪いことである。


しかも其の悪い部分は、人間が何か悪いものとして此の世に生を受けて居ることよりもより悪いのである。

最初に述べたように悪い人間が自己矛盾的に生きざるを得ないということ自体に何か大きな問題が生じて居る訳ではないのである。


我々は元々そうした罪過を背負って立つ存在なのであり、それゆえにこそ文化という屈折の部分を自ら求めて行かざるを得ない存在なのである。

然し其のことと、巨大な欲望でもって此の世界を切り刻みかつ掻き回しついにはブッ壊そうとして居ることとはまた別の問題である。

そうした謂わば後天的な罪過の方をこそしかと見つめかつ糾弾していくべきなのだろう。



ベルは経済・技術の暴走についても述べ政治はそのことを食い止められないとも述べたそうだ。

経済・技術は合理性を基準にして営まれる何かであるゆえ、ストレート過ぎて人間性を無視した利益追求が成されるからついには暴走して仕舞うのである。


そして政治は今や官僚主義が蔓延する巣窟と成り果てた。


然し決して文化は負けないよ。

たとえ世界が明日終わるにせよ今日文化は庭にリンゴの木を植えるのだ。

たとえ私が来年のたれ死ぬのだとしてもこうして私は言いたいことを言いつつ死んでいく。


かって老子は曲がって居る無用の木の方が真っ直ぐなー有用なー木より良いと述べた訳でしたが其れがまさにこのことを云って居るのである。