近代とは欲望の追求という幻想をより忠実にそして徹底的に履行していくという試みであった訳です。
其の欲望の追求とは然し一種自己矛盾的な行為でもあった訳だ。
何故なら欲望の追求ということ自体が真の意味での欲望の成就には繋がらないからなのであります。
本質的に欲望を成就させたいと願うのであれば、人間はまず諸の欲望を抑えていかねばなりません。
かって大昔に釈迦やキリストが追求したこととは実はそうした本質的な意味での人間の為の欲望の成就でした。
実際仏教でもキリスト教でも、其処でまず禁欲ということが語られて参ります。
本質的な意味での欲望の成就とは、其のように逆に欲望の制限であり其処に枷乃至は壁を設けることなのです。
近代が見誤った思想の根幹にあるものとは其のような制限であり抑制です。
制限乃至は抑制が逆に欲望を充たすのであります。
また自由を欲するのであれば、逆に自由を制限乃至は抑制するところに初めて真の自由があたえられましょう。
1.子供を甘やかして育てると良い子には決してならない。
2.人間を甘やかして生かせると良い人間には決してならない。
現代社会は行き過ぎた人権意識や平等、自由の観念でこの両方を成立させて来て仕舞って居ます。
其の様にして仕舞った元凶はたとえばこの日本国でしたら日教組などの左翼思想にあるばかりではなく近代そのものの思想にこそあります。
真の意味での欲望、と申しますか人間としての自己実現を目指すのであれば、たとえばすべからくをストレートにに処理して仕舞うことなどはもう止めて頂きたい。
3.教師が生徒を殴る→犯罪である
4.女性は是非働くべきで家には居ない方が良い→世の流れで正しい
これがストレートな思考の典型例です。
ところが実際昭和の時代にはみんな殴られて大きくなって参りました。
またみんな悩んで大きくなって参りました。
ソッソッソークラテースかプラトンかー。
勿論やり過ぎは良くはないが教育上の指導を全部犯罪に結びつけて仕舞えば其処では躾も何も無くなります。
また女性が働けば働く程に男性の仕事が減りおまけに相対的に賃金も下がるので男性の社会的地位は低下し余計に頼りない、そして暴力を制御出来ない男性が増えて来よう筈です。
だから、男性を制御したいのであればまず男として認めておだてて給料をちゃんと与えることです。
男性側の面子を確りと立ててあげるということだ。
すると家庭が安定するので結果的に家に居る女性も自己実現することが出来よう。
其処に於いて初めて子の躾なども確りと出来、のみならず離婚率も減り家庭内暴力も減り万事に円満な中流家庭が達成されよう。
其の位のことは、かっての良妻賢母ならば皆知っていた筈だが今の女性はたとえば大学まで出ておきながら何でこんな簡単な原理が分からないのだろうね。
暴力とは畢竟其れは破壊のことではなく本質的建設の為に費やされるべきことです。
何故なら此の世の中には女性原理と男性原理というものがあります。
女性原理は生きることの保守であり維持でありつまるところは其れは本能的な愛である。
男性原理とは生きる為の闘いであり革新であり破壊であるが同時に其れもまた観念的な愛である。
実はこの二種の愛のせめぎ合う様が此の世の実相として提示されて居ります。
女性原理の方は、結局は本能的な愛のことですので何も人間に限ったことではなく生命現象には典型的に見られることでしょう。
然し男性原理の方がより観念的で革新的であることは言うまでもないことです。
そして観念は常に屈折して居るのです。
其の屈折は屡破壊=暴力の衝動に結びつきますが、其れはあくまで観念的な破壊であることを見破って置く必要がありましょう。
つまり男性の暴力とは、本質的には愛の補完の為の破壊、真の愛を実現する為の防衛とでも云うべきものなのです。
ゆえに暴力が全部悪いということではありません。
近代の見誤りの思想がそういうことにいつの間にかして仕舞いましたが、暴力とは人間に対する観念上の必然的圧力のことで謂わば其れぞ愛のムチのことです。
愛のムチであることがより望ましく本来的、本質的な暴力としての意味であるということです。
つまり暴力の本質とは建設の為の観念的革新であり防衛であるべきということなのです。
尚この男性原理と女性原理のせめぎ合い、二元的対立と協調の様は大変重要なことですので現代の良い子の方々は此処をこそ確りとお勉強しておきましょう。
然しながら、世の流れが女性原理にばかりかまけて国力の維持、国民の幸福を願うばかりのようになると逆に其の国家は滅びていきます。
なんとなれば、防衛し革新し暴力を理念的に解放する役割は男性原理の方にこそ存するからなのであります。
可愛いと思う、甘やかす→ほとんどの場合ダメになる
あの獅子のように我が子を谷に突き落とす→大抵の場合強い良い子に育つ
わたくしは是を行うのが男性原理の役割だと考えて居ります。
現代社会の不幸は、この男性原理が喪失しかかって居ることにこそあります。
ですので大変大事なことが実は欠けて仕舞って居ります。
暴力とは、本質的には其れは推進力のことなのです。
それも未来を見据えた上での推進力のことです。
従って其れは観念力のことです。
この観念力の著しい減退が見られるのが現代の社会的状況なのだと申せましょう。
対して今世の中では女性兵士なども増え、たとえば自衛隊におきましても空自初の女性パイロットなどもお目見えしたそうです。
然し、生命を産み出す筈の女性が本当の本当に戦闘なんてアナタ、出来ますか?
出来る筈がないではありませんか。
ボーダーレスと云ったって、超えてはならぬ一線、言ってはならぬこと、やってはならぬことがある筈なのじゃないでしょうか。
たとえお前は何でも言って居るだろうがと言われても、わたくしの場合はアマチュアの詩人なのですからそれなりに言わなきゃならないことがどうしてもまたある。
でも寿司屋でカレーライスが食えたり、薬局で豆腐を買って来たリすることが本当に便利なことなのだろうかと疑問に感じることが多い昨今である。
思えば小泉政権の掲げた新自由主義路線からの流れが自民党をぶっ壊すばかりかこの日本国自体をブッ壊していったのである。
規制緩和とは謂わば愛のムチではない暴力そのもののことである。
だから其れは単なる暴力のことである。
単なる暴力は、別に教師がやるかやらないかに関わらず犯罪である。
元より観念の暴発は愛のムチではなく、まさに其れこそが本当の意味での暴力ともなり得ようものです。
其の様に観念とは暴力性を孕むものですが其れは男性原理としてこの世の未来を見据え防衛かつ革新し、大枠では女性原理の欲する世界の維持、現体制の保守を補完する為の愛のムチのことである。
従って此の観念の暴虐性つまりは愛のムチの力、防衛的戦闘力や観念的変革力を失いし現代社会は思想的に完全に片手落ちの社会ともなろう。
観念とは左様に一種難しいもので謂わば現実とは逆方向の流れのことなれど、そは必ずや本質としての愛の成就に繋がろうものなのである。
男性原理と女性原理との二元的対立の超克とはかように難しいものを孕む微妙な問題である。
然し現代社会の抱える問題とは実は其の二元的対立の超克自体にあるのではなく、其処で男性原理の方が虚弱化して其の分が女性原理の方に転嫁され其処でもって一元化が即されて居るという異常な状況の方にこそ存する。
分かり易く言えばついに女性が戦闘機で敵機を撃墜するかもしれない、また戦闘で敵兵を射殺するかもしれない時代となって仕舞ったということだ。
ですのでわたくしは今世の女性の方々に語り掛けて居るのです。
あなたがたは、本当の自由、本当の安定とは何かということを考えたことがおありだろうか。
世の誤った思想の流れに感化されず、常に清く正しく美しくあり、おまけに貴方様には何より精神の品格が備わって居いでだ!
そんな立派な女性をこそわたくしは是非口説いてみたい。
此の世には口説いてみたい女などもはや居らぬので、是非貴方様にそうなって頂きたい。
其れが其れこそがこのアホ詩人よりの愛を込めての御願いである。