目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

分析知の集積の時代


一言で申せば近代という世紀の流れを形造るものは分析知の集積です。

然し其れは常に一方通行での流れですね。

だから近代に欠けて居る部分とは逆に全面通行性とでも申しましょうかそうしたものなのではないでしょうか。


分析知の反対語を考えますとつまりは其れが綜合知ということになりましょう。

其れを私の言葉で置き換えれば全体知ということになります。


其の綜合乃至は全体ということが大事です。


まさに木を見て森を見ずではダメで、逆に森を見てから木の事を調べていくのが宜しいことかと存じます。


さて我々のような詩人は全体性即ち綜合知の部分に常に生きて居る者です。

何故だか知らないがそうした立場に置かれて仕舞って居る者です。


そういうのは結構しんどいのでありますが、まあ其れも我が運命と諦めて日々を何とか頑張って居ります。



ところが其の分析知の流れこそが近代に於ける人間の生活をより豊かにして来ました。

大の方ではなくて小の方の流れでこそそうしたことが成ったということであります。


では先に述べた綜合知の流れで其のことは可能だったのでしょうか。

いいえ、其れは成りません。

其の大の方の思想、考えの流れでは其れは可能ではなかったのです。


逆に小の方の思想であったからこそ其のことが成ったのです。

近代の豊かさを実現させたのはそうした一種の離れ業によるものでした。


謂わば大を捨てて小に拘ったからこそこの豊かさを手にしたのです。

でもそんな離れ業は長続きしません。


何故なら其れを続けていれば大と小の、其の本来あるべき均衡が崩れて仕舞い大の方からしっぺ返しを受けて仕舞います。

其の様な自己矛盾性が初めから組み込まれて居ります。

存在とは其の様な
自己矛盾性が顕現していく過程のことを云います。


現代文明が環境やエネルギーと云った分野で大きな負債を負って居るのは周知の事実であり其れを原理的に説明すれば其の様なことになるということです。



近代は前近代には保たれて居ただろう其の分析知と綜合知の程よい流れを分析知中心の流れに変えていって仕舞いました。


だから其処でまさしく木を見て森を見ず、という諺の通りのことになって仕舞うのです。

実際近代という時代に於いては小さいことがすべからく得意ですね。



ーでも科学はこのバカでかい宇宙を対象として調べても居るじゃないか。

あの飛行機だってこの大きな地球上の大陸を繋いだようなもので、そういう意味ではデカい。

こんな風にすべからくデカいことを可能としたのはそれこそ近代の力だ。


前近代なんて、たとえばお籠に乗ってエッホエッホと江戸から京の都まで行くとしてだ、其れで一体何日かかるというのだ。

そんな悠長で非効率的な世界は小さい、小さい、だからお前さんの言って居ることは全部逆だ、逆。

本当はこの現代こそがすべからく大で、昔のことは全部小だ、この天邪鬼めが。



オイオイ、ちょっと待て。

物理学、天文学、生物学、医学、其の他諸の学問、また宇宙開発、資本主義、近代哲学、などは実は皆小さい、小さい。

つまりは器が小さい。

たとえば天体物理学がいかに宇宙の果てのことを調べて居るにせよだ、其れは単なる分析知の集積だ。

だから其れは小さい。

従って宇宙の全体像をそれだけで把握することなど出来ない。


それから非効率的で悠長な世界こそが最も大きい。

また弱いものこそが強い。

そして曲がったものこそが真に役立つ。


ただし天邪鬼であることだけは受け止めておいてやろう。

其れで君の気が済むのであるなら。ー



尚今思えば、大きいことは良いことだなどというチョコレートのCMがわたくしの幼い頃にTVから良く流れていたものでしたが、あの高度経済成長にしてからもが実は小さいことだったのであります。

其の様に部分的な利益性、限定的な豊かさ、分析的に得られる果実=成果のすべてが小さいことです。


大きいこととは、部分には偏らない全体であり、分析ではなく綜合、統合であり、またたとえば一般人ではなく詩人であると云ったそういうことです。


たとえばあの宮澤 賢治などは確かにそうした宇宙観のようなものを自然に持って居た詩人だったのだろうと思われます。

謂わば彼自身がコスモスの所有者だったのですね。



さて今回わたくしは大と小という概念に於ける一般的認識に対して異を唱えて居る訳です。

大のように見えることが実は小である。

小のように見えることが実は大である。


ということにつき述べて居ります。


たとえばグローバルな世界、交通網や情報網で繋がれた、或は経済上の連携や其の他諸の連携で成立して居る世界規模の世界とは実は小さな世界の出来事であるに過ぎない。


何故なら其処では価値基準の単一化が進み、かつ同方向性での流れが加速していきますから逆に多様性が失われていくのです。


其処で多様性=大、です。

画一化
=小、です。


つまり
グローバルな世界とは大きいものでもなんでもなく逆に世界を矮小化していく流れでのことです。


其の様に認識に於ける誤謬が屡罷り通って居るのが現代社会に於ける精神の流れの特徴なのです。


ゆえに其処でまずはこの大と小の区別、認識の仕方を正しくしておくべきことが大事なことかと存じます。



たとえば老荘思想に於いてはこの大と小の認識がそれこそ正確に展開されて居ります。


老荘思想に於いてはまさに大きい方の思考の流れ、つまりは綜合知のことが語られて居るのです。



其の部分が近代の思考、思想の在り方、立ち位置とは逆方面での立場ということになろうかと思う。


そしてそうした逆方面での思考をないがしろにして居てはいけない訳です。



綜合知、つまりは智慧、知恵、の部分が実は最も大切なことです。

何故なら近代とは其の部分を圧迫しつつ行って居ることだろう大花火大会なのですから。


其の大花火大会は一種の離れ業により成し遂げられて居ることでもある。

其の離れ業とは元々あった知の全面通行性を一方通行に変えていったことである。

それは其の方が分析知の流れには都合が良いものであったからです。



一方通行にして、かっては共に流れて居たところでの人と自然の流れを切り離して、自然のみを客体化して捉え対象化し分析知でもって其れを切り刻んだ。

切り刻んだ自然から得られた部分を科学技術と云う魔法でもってあくまで人間にとっての価値あるものに造り直していく。

と其の様な離れ業でもってして近代という世紀は成立して来て居るのであります。


まあ其処には優秀な花火師の方々が多く居られる筈です。

多分物凄く優秀なんでしょうね。

或は全科目百点取れる位に優秀なんだろうか。


ちなみにわたくしが塾の先生の時に中学生の社会科の中間テストか何かを生徒さんに混じって共に解いてみたことがあったのでしたが、実は其の時に92点くらいしか取れなくて、ワ~、先生の癖に百点取れない、ワ~と物凄く生徒さん方に馬鹿にされた思い出があります。

其の時に私は、先生と云ったって色々あろうがよ、俺位の頭の出来の先公も居れば、或は体調が悪い、女にフラれた、パチンコで負けた、等の理由で調子が出ず百点にならないことの方が実は多いとそう考えよ。それこそが現実を学ぶということである。それこそが多様かつ奇々怪々な人生の上での実相を其処に学ぶということである。

とそう確り教育しておきました。

然し其の事をいまだに覚えて居るということは百点取れなかったということを矢張り随分気にして居たのでしょうね、ずーっと。