目覚めよ!

文明批判と心の探求と

理想論的な限定的社会


近代以降の文明世界を築き上げて来た知識人の方々にはむしろ一番大きな責任があります。

社会をこんなにして来て仕舞い、かつ地球をこんなにして来て仕舞った責任があります。


然し其の知識人層にしても、これだけ肥大化かつ虚構化した文明世界を俯瞰視することは容易なことではありません。


勿論作家の方々などはそれぞれに論点を定め文明に対する意見を述べられて来て居ます。

ですが其れは大元に於いて悲観的な末路を描かざるを得ないのが実情というところでしょう。


この様に現代文明の俯瞰視が難しいのは、其れが余りにも巨大化し過ぎて居ることなのです。

其れも小さいものが無数に連なり巨大なものになって来て居るのです。


其の逆に大きいものが少なく連なったものの方が或は安定的に存在し得るものなのかもしれません。

あくまで精神的なレヴェルでのことについては。




1.小さいものが無数に連なり拡大化する→大きいものが幾つか重なり縮小化する

2.国民国家が少なく連なり不安定化する→共同体が沢山連なり安定化する


1.は知恵のレヴェルでの見方で云えばそうなるということで、ここでの小と大は分析と全体論の違いを表して居ます。 拡大というのは勿論全体主義ー グローバリゼーションーのことです。縮小というのは前近代的に多様な世界であるということです。

2.は現実を俯瞰視すればこう見えるということです。封建時代の統治単位からすれば現代の国家の数は当然ながら少な くなって来て居ます。然し其処にはグローバルに展開される何かという要素が出て来て仕舞い、多様性の喪失とリスクの 増大とを齎す訳です。だから安定化するには国家を解体して統治単位を小さくしていく必要がある訳だ。統治単位を小さ くすれば共同体が沢山生まれ統治される単位としての小さいものの多くの連なりが生まれます。


ということは、考えの方では1.大きく考えー全体論的にー縮小化ー限定的にーして行動する方がより望ましい人類の知 恵として成り立つ訳です。

そして現実の統治の方では、2.統治単位を小さくした限定的社会でもって多様性を認めるーイデオロギーの自由化ーこ とが成り立つ方がおそらくは社会が安定化します。


云うまでもなく現在はどちらのレヴェルでも其の逆をやって来て仕舞って居ます。


大きく考えるというのは、煎じ詰めれば其れは人文科学や社会科学での考え方のことなのでしょう。

数的には還元し得ない、合理主義ではない考え方が其処には含まれて居る必要がある。

だから文學でも哲學でも藝術でも宗教でも何でも良い訳です。

兎に角大きく考えることの出来るのが非合理主義系の思考の特徴なのでしょうから。


対して今世界中にばらまかれて居る大きく見えるものの本質は皆小さく分けて考えたところでの分析型の思考の産物で す。

だから何度も言いますが其の小さなものが拡大、肥大を続けているだけのことなのです、現在の世の中の真の姿とは。


そういう分析型の思考の流れでは、人間も地球も真の意味での幸福へは至れないのです。

要らないような物ばかりが溢れた、そして訳の分からないような精神不在の人間が増え、まあはっきり言って其の様やニ ヒリズムの世界もいいところです。



だからこの思考の流れを逆方向に持っていく必要があります。

数的に還元されない、より統合的な全体論的な思考への転換をはかるのです。


其れは何故かと云うに、実際に今文明は全体論的な仕組みからの諌めを受けつつあるからです。

第一自然災害がそうでしょう。

火山の噴火や豪雨による災害の発生。

これに近々大地震が加わって起こることでしょう。


また地球は今危機に瀕して居ますが、其れもおそらくは全体論的に危機に瀕して居る筈なのです。

地球の仕組みでの大きな部分での何かが壊れかかって来て居ると申しますか壊して来て居りますね。-人類の活動によ りー


全体論的な思考への転換をはかることは、今後のそうした全体論的な仕組みからの諌めに対して真の意味で備えることに も繋がります。

だからこれからの時代は、人文科学や社会科学の知識人が頑張らないともう持たない世界に必然的になって来る筈です。

これからの人類の未来、この二十一世紀の問題を担うのはそちらの方の知識人層です。


自然科学や科学技術の賞味期限とでも申しますか、其れ等が役に立つ時代は実際にはもう終わって居るのかもしれませ ん。

其れは活躍出来る機関が短いものであったのかもしれません。

自然科学や科学技術の力のみでポストモダンの時代を成立させていくことはおそらくは困難であろう筈です。


自然科学や科学技術は今後環境への負荷を低減させる技術であるとか、或は地球温暖化への対策を行う理論や技術である とか、そうした20世紀に為したところでの環境破壊に対する尻拭いとしてのものとなっていく必要があります。

第一ロボットだの、ロケットだの、懲りもせずに一体いつまでやって居るのでしょうか、そんな全く不必要なことを。

だから其れが知恵の無い考え、分析型の思考から導き出される奇妙なものの具体例なのです。


第一人間は宇宙でなど暮らしていけません。

だから宇宙開発などは元より不要です。

勿論ロボットも要らないです。



人間にとって要るのはバランスの良い21世紀型の生活です。

自然や社会や個人を全体論的に把握し得る知足された生活のあり方です。


其れは知恵に充たされ自然を敬う新たなる人類としての文明世界のあり方です。


遺伝子操作や他の諸の科学的行き過ぎの世界を認めない上智を保った上での人間の確乎たる世界観です。



3.大きいものが幾つか重なり縮小化する

4.共同体が沢山連なり安定化する



大きな考えは必然的に未来を見据えた上での思考となるのです。

其処では所謂長期的展望に立って文明世界を再構築していくことが可能です。


縮小化するのは、エネルギー消費であり人類の活動範囲であり資源消費ー自然からの収奪の部分ーです。

考え方が大きくなると全体からまず行動が規定されていきますので部分部分での自己本位での消費や活動が抑えられ所謂 計画経済での計画的社会が成立します。


然しイデオロギーや創造的活動が制限される必要は其処には無い。

イデオロギーや創造的活動の自由により人間の精神活動は保証され従って其処に不満が生じるようなことはありません。


人間にとっては考えることが大事です。

考えることの自由、精神の自立性が最も大事なことなのです。


其処が担保されて居る社会ならば抑圧構造が見られないので人間の精神は常に自由であり得ます。

然し其の精神的自由が担保されて居る社会は共同体規模でのものに限られて仕舞うのです。


其れが国家にまで拡大すればすでに様々なアンバランスの問題が生じて来て仕舞うのです。

たとえばナショナリズムにしても、其れが国家単位になると大きな対立を生み大きな争いを引き起こすことに繋がるので す。

然し共同体規模での郷土愛や地域重視主義なんてとえも其処までの対立には至れない訳ですから元々其れでよろしいので す。


共同体に集う体制は基本的にどんな体制でもよろしいのですが、基本構造としての共同体単位でのバラバラな統治システ ムの集積こそが新たな文明にはふさわしい。

体制が異なれば無論争いの類も始終発生することでしょうが、其処は世界統治機構ー世界政府ーのようなものをつくり監 視し調停や戦後処理を行う権限を是非与えておくべきでしょう。



いずれにせよ地球を愛する文科系の知識人の方々は近代以降理系の分析力がぶち壊して来た環境と精神を元通りに立て直す責務を担って居るのです。

だからまずは考え抜きましょう。

                 

共同体が沢山あれば多様性も増しますので自分の合った考え方、暮らし振りの共同体へと移住しても良いのです。

藝術家などであれば藝術が盛んな共同体があれば其処へ行っても良いのだし金持ちの共同体が好きな金持ちの方は其処へ 行っても良く、また日本文化の残った共同体が好きなら其れを選び其処に住めば良いのです。


それからイタリア物が好きな方は是非伊太利の共同体を目指しましょう。

自然が大好きでいつも褌ひとつで原始人生活が送りたい方などは南方のジャングルの共同体や極地の共同体などがお勧め です。


宗教フェチで兎に角釈迦やキリストのように清貧での求道の生活を志す方はそれなりのディープなスポット的共同体がまた用意されていよう筈です。

女好きな方は是非女だらけのアマゾネス的共同体へ、ギャンブル依存症の方はギャンブラーの楽園の共同体へと。


要するにこれは真の意味での国際化であり世界化なのです。

現在グローバリゼーションが本質的に担って居る画一化と地域化の逆の流れでのものです。


そして何より其れが安定的に存続することこそが肝要なことです。

然し真の知性はそうした統治システムを可能とすることが出来る筈です。

分たれた筈の知の分野を統合し、文明のリスクを的確に把握しつつ考え抜けば、こうした一種の理想世界の成立も夢ではないのです。




尚、こうした共同体主義のモデルケースとなるものが徳川幕藩体制です。

270年弱にも及ぶ安定的な鎖国政策を成し遂げた統治システムとしての優秀さは今や誰もが認めるところなのでしょ う。


ただしこれを世界規模で行うとなると、そも其れが安定的に構築し得るものなのか、といった問題点は確かに生じて来ます。



1.民族や文化や思想や宗教の違いによる共同体単位での衝突を如何にして避けるか

2.徳川幕府に当たる世界政府の役割をどのように設定し得るか。



いずれにせよ徳川幕藩体制が築いたであろう安定的な文明の要素はおそらく今でも文明世界に適用可能な筈です。

近代以降の文明の性格は其の活躍の度合い、パワーが華々しい割には戦争や紛争、或は恐慌や不況などにより安定的に 継続されて居ないことです。

そして其処では何より限定される度合いが少ないです。


然し徳川幕府は自ら限定するー閉ざすーことにより幕藩体制としての安定的な社会を築き上げました。

閉ざすことにより、むしろ続けられる社会をつくったのです。

ところが完全に国を閉ざして居た訳ではなく、貿易や文化交流の面を限定的に発展させても居たのです。


従って其処には結構理想的な社会が形作られて居たのです。

あの士農工商という身分制にせよ、案外武士は農民には常に気を遣い民放で流される時代劇のように百姓に対していつも 威張って居た訳ではなかったのです。


それに庶民には楽しみも色々と与えられて居た。

だからこそ体制を長く続かせることが出来たのでしょう。


一時的な儲けや、一時の享楽によりかからず、長期を見据えた展望とリスクに対する敏感さとを保ち一刻も長く文明を存続させることこそが文明を推進させる側の責務であろう筈です。

そして其の継続的な文明のあり方の構築には、人文、社会科学系の知の集積がどうしても必要となるのです。




限定=安定につながること、其処では抑制、自制、自省などの要素によりリスクを最小化することが可能

規定=肉体及び精神を規定すること、自己規定、人間は欲望のままに生きては決して規定されません。宗教や道徳規範、倫理観などにより自己規定する必要があります。近代はこの最も大事な自己規定をどこかに忘れて来て居る。其れでは滅亡は必至です。

所謂消極性は悪いことではありません。其れは二元的対立の大事なもう一方の極です。どちらかを捨ててはなりません。文明は仏教から是非学びましょう。二元性を超克する為の智慧を。