Wikipedia-ユートピア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2
さて理想郷とは何であろうかと私は屡考えます。
と云うのも、地球の破壊に対しては一種の確信犯であろう現代の文明世界が一面では其の理想郷でないとは決して言い切れないからなのです。
第一現在我々は医療の発達で病気になってもすぐに治して貰えるのですし、様々な物を自由に選び取り個性的な生活を形作ることさえ出来ます。
思想、信条の自由も保証されて居り、其の他にも様々な便益に浴することが出来ます。
近代という世紀はまさにこうした人間の脳内願望を実現する為の時代だったのでした。
だから現在こうした部分が成し遂げられて居ない途上国にとってはこれらの成就こそが今後の国家的課題となることでしょう。
然し其の近代の思想の拡張はまた別の面での危機を孕んで居ます。
欲望の成就、願望の方向が一方通行的ですので其処では全体的なものへの配慮が欠けて仕舞い易いのです。
本来ならそうした全体のバランスに対する知恵の部分を第一義に据え、其の大の方を鎮めた上であとを細かくやっていくべきなのです。
其れは逆方向での向きだから人間はむしろ自滅の方向へ向かい進んで居ます。
多くの方々には近代文明は善で全体主義が悪だとそう信じ込まされて来て居る訳ですが良く考えてみれば近代文明自体が其の全体主義にほかならないのです。
ゆえに全体主義とはむしろ近代文明の基本構造であり必然的帰結なのです。
実際今現代社会はすべからく全体主義化して来て居ます。
もっとも私は本や他の理論に影響されこんなことを述べて居るのではありません。
私は自分で考えたことのみをここに書き記して来て居ます。
其処まで明確には感じてはいなくともこれはどうもおかしいなと思われる方には以下の本などがお勧めです。
AMAZON-〈凡庸〉という悪魔 (犀の教室)
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%88%E5%87%A1%E5%BA%B8%E3%80%89%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%82%AA%E9%AD%94-%E7%8A%80%E3%81%AE%E6%95%99%E5%AE%A4-%E8%97%A4%E4%BA%95%E8%81%A1/dp/4794968191/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1442539984&sr=1-1&keywords=%E5%87%A1%E5%BA%B8%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%82%AA%E9%AD%94
あの京都大学の藤井先生が書かれた本ですが全くこれは恐怖の現代文明批判の書です。
ただし真理、真実の方向をあえて見つめず恐怖を感じることを避けたい方には絶対にお勧め致しません。
私も読み始めたばかりのところですが、こんなものは他では絶対に読めないものだろうなと思いつつ丁度今有難く読ませて頂いて居るところです。→9月26日読了
其の内容はある種過激なものですので、大人しい方、家族思いの優しい方などにはお勧め出来ません。
文明と闘うのであればいつ野たれ死んでも良い位の覚悟をお持ちの方だけに是非お勧め致します。
其の全体主義による管理社会の危険性はかってのユートピア文学やSF文学の分野に於ける重要なテーマでした。
ーマルクス主義からは「空想的」「非科学的」と批判されたユートピア思想であるが、理想社会を描くことで現実の世界の欠点を照らす鏡としての意義を持っているーWikipedia-ユートピアより抜粋して引用、とのことです。
だから何故人間は常に理想社会を描く必要があるのかということです。
ユートピア思想、ユートピア文学は18世紀までの西欧世界にとっての理想社会のあり方と其の理想社会が孕む問題点ー自己矛盾性ーとを纏めたものです。
資本主義の勃興と共に、或は進歩史観、ダーウィニズムの成立と共に、近代の思想世界ー近代の思い描くところでの理想世界ーが成立し其の流れが現在に続くものとなった訳ですが、実は其れ以前からすでにこうした文明の理想化の流れが人文科学上の学問の流れの上ではあった訳です。
然し19世紀以降には近代思想こそが人類にとっての理想郷を実現する為の思想になったのです。
即ちより豊かにそしてより進歩して生きることが文明にとっての最大の課題となっていく訳です。
ゆえに現在はまさに其の思想の延長線上に成立して居るのだと言えます。
然し其の考えが定まるまでは他にも様々な形での理想郷の在り方が存在して居たのです。
前回に私が述べた小国寡民制或は多様な共同体制での理想郷の在り方などもそうした考え方のひとつとして成立するものでしょう。
尚、私がここで否定されるべきものとして考えて居るのは、
1.統治の上での思想の普遍化及びヘゲモニーの顕在化
2.多岐にわたるレヴェルでの全体主義
3.ひどい差別、著しい格差
ですがたとえば差別に対する保護に対しても行き過ぎがあってはならないのだし、またたとえば女性は働きに出なければならない、などという考えも一 面では逆に全体主義に連なります。
こうして、~しなければならない、という考えは明らかに全体主義に繋がっていきます。
其の部分を少し柔軟に設定しておかないと現代社会は必ずや管理社会の度を強め過ぎ其の結果全体主義化していくことでしょう。
1.女性は男性と同等、ゆえにドンドン働きに出よ。→全体主義(倒錯平等思想主義)
2.タバコは害悪そのもの。ゆえに世界的に禁煙を進めよ。→全体主義(嗜好の自由を奪う主義)
3.戦争には二度と参加したくはない。ゆえに戦争に関係した動きをすべて否定する。→全体主義(利己的危険忌避主義)
4.企業は国際的に競争して其処でそも利益が出ないと存続出来ない。だから人件費を出来得る限りに切り詰める。→全体主義(企業最優先主義、人間抹消主義)
5.派遣社員は人間扱いされて居ないことが多いが其れでも生きて居るだけまだましだと思い企業の為に死力を尽くすべし→全体主義(企業軍国主義、人間抹殺主義)
6.子供にはスマフォを是非持たせなくてはならない。何故なら21世紀こそはまさに情報化の世紀である。→全体主義(倒錯情報教育主義)
7.人間は精神など磨く必要はない。だからややこしいものにはなるべく触れるな。真理や真実を遠ざけて生きよ。其の事によりまさに幸福は実現されよう。→全体主義(精神破壊主義)
3.戦争は誰でもやりたくはありません。然し自己矛盾性を抱えて生きる人類は其のやりたくもない戦争を行う愚かな存在です。ゆえに職業軍人という ものが存在して居るのです。人類の自己矛盾性を滅していかない限り人間は戦争とは無縁ではあり得ません。あの永世中立国でさえ、自国軍は保有して居ます。戦争を本当にやりたくないのであれば、むしろ宗教家になるべきです。あの共産党にしたって政権を担えばやがては赤軍を組織するであろう筈です。
4.5.企業による人権の抑圧構造はまるで初期の資本主義としての矛盾の露呈の如き様相を示しつつあります。労働環境は悪化する一方でまた格差も拡大していくばかりです。
6.教育の質の劣化、いや、そも今は教育が成り立って居ないレヴェルにまで落とし込まれて来て仕舞って居ます。其れもこれも現代社会を貫く根本の思想が誤って居りかつ全体主義化して居ることから引き起こされて居ることです。子供ー18歳以下ーにスマフォを持たせるとロクなことにはなりませんのでそんなことはもう今すぐにお止めなさい。
ちなみにこうして~を止めなさい、と言う大人が今皆無になって来て居るそうです。社会や組織に対する遠慮や社会風潮に対する迎合からなのか、悪いものは悪い、止めるべきことは止めなさい、とはもう誰も言えないのです。それどころか親が子を叱ることさえ稀になって居るのだそうな。何でも子供にも人権や思想、信条、価値観の自由があるのだそうで、其れで親でさえ子に対する躾を放棄するという末期的現象が日本社会には蔓延して来て居る。ちなみに其の部分も他の国ではそうではないそうである。欧米ではいまだに厳しく子供を叱るのである。でもそんなことは当たり前のことだ。其の当たり前のことが出来な くなって仕舞った経済大国のこの日本。武士道の精神がかっては根付いて居たことだろうかの国の真の姿がこれである。
よって教育の本義を今一度問うていく必要が是非あり。
7.真理や真実を遠ざけて生き物質主義、唯物論の世界にドップリと浸かって生きて居るとやがては精神が腐って来ます。其れを避ける為には是非大きい部分での真理や真実の世界を見つめていく必要があります。文學や宗教、藝術の世界はそうした大きな精神の世界を対象とするものです。出来得る範囲で、 そうしたものとの接点を持ちましょう。
見方を変えればー視点をずらせばー現代社会は確かに一種の夢の世界を実現して来て居ます。
其の実現の様は一種の離れ業によりようやく実現にこぎつけたものでした。
数々の戦争や紛争を経た上での人権への抑圧構造や貧しさや不自由や病気といったものに対する挑戦。
そうした負の要素と向き合い闘って来たのは確かに近代の努力であり近代の思想に於ける結果的勝利でした。
然しながら、其の勝利にさえ矛盾性は仕込まれて居たのです。
ゆえに近代世界は理想郷などではあり得ないのです。
特に全体主義的な傾向が今現代社会に蔓延して居るだろうことは看過出来ない重要な事実です。
だから其処で何故そのようになって仕舞うのかということを掘り下げた上で見つめておく必要があります。
もう一度言いますが、近代は我々に近代人としての恩恵を確かに与えて呉れて居ます。
本質的には其れが空っぽの恩恵であるにせよ、我々には其の恩恵に対しひとまず感謝して享受して置く必要は確かにあります。
ですので私は其処で感謝しつつも異論を述べ立てて来て居る訳です。
近代が成し遂げたことに対する感謝と、近代そのものへの呪詛に対して共に考えていかなければならない立場に私が居るからなのです。
近代の普遍主義、拡張主義はもはや完全に時代遅れのものであろうと私は捉えて来て居ります。
むしろ特殊性、土着性、郷土性のようなものにこそ価値を認めるべきであり、そうした要素を継続させる爲の安定的な経済や政治のあり方を目指すべきです。
其処ではもはや拡張しないのですから限定的な特殊の連なりである体制が組み上がります。
多様である世界を一元化して経済成長や科学技術の進歩を全体主義化することには元々無理があります。
世界に負荷がかかり過ぎるという意味での無理です。
其の無理の代償として我々は様々な形で近代的な果実を得て来ました。
然し無理を押し通すという意味での破壊は次第次第に各方面で我々に忍び寄って来て居ます。
破壊とは安定の正反対です。
人間の生の幸福が安定にあるのだとすれば、其れは究極の不安定化を指しますので当然ながら幸福を目指すことではありません。
宗教とは元々そうした限定的な一元化のことを云います。
理想郷とは安定化した社会でもってしかも継続的に行えるものでなければならない。
其の為には社会にとってどんな要素が必要なのでしょうか。
私は其の要素につきもう何年も前から述べて来て居ます。
ですが私の考えはあくまで理想論ですので実現する可能性は元々低いものばかりです。
然し破壊に対しては理想もまた必要となります。
結局理想は現実化せず、破壊に対する実行力を持ち得ないのだとしてもたとえばあの宮澤 賢治などは其の理想につき生涯を費やして語って居た筈ではありませんか。
破壊、不安定、全体主義、などの現代文明を象徴するキーワードは医療の充実や人権の保障、思想や信教の自由といった一見すれば正の概念と対を成して存在して居るものです。
つまり其の振幅が大き過ぎるのです。
現実上の振幅が大きいから、継続的ではあり得ないのです。
逆に概念上の振幅が大きく、現実上での振幅は小さい方がおそらくは文明が安定化します。
つまるところは私が前回述べたところでの共同体主義での社会構造の方が文明世界は安定化して存続出来ます。