目覚めよ!

文明批判と心の探求と

弱者の思想の大切さ

amazon-キリスト教邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』 (講談社+α新書)
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キリスト教は数少ないまともな宗教のひとつであるという感じがわたくしにはして居りますが、仏教と同様に長い時を経た宗教でもありますので其処は何かとよからぬものがまとわりついたりして当初の純粋さを失う羽目になって居ることだろうと其の様に思うので御座います。

宗教というものは往往にしてそうなるものと相場が決まって居るもので、其の純粋なる教えというものはなかなかそのままに時を越えて存在出来ないものであるように思われます。

ゆえに不純と云えば不純、堕落腐敗と云えば堕落腐敗の様を呈して居るのが現代に於ける諸宗教の偽りの無い姿なのではないかと思われます。


さてニーチェには『アンチクリスト』という著作があり、これが近代以降のキリスト教に対する痛烈な批判となって居た訳です。


「神は死んだ」という言葉で有名なニーチェは近代以後の時代の無価値化、虚無化の過程を明らかにし、そうしたニヒリズムの時代を生きる為には超人としての意志力が必要であるとした。



Wikipedia-フリードリヒ・ニーチェ-思想
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7#.E6.80.9D.E6.83.B3

彼は、ソクラテス以前のギリシャに終生憧れ、『ツァラトゥストラ』などの著作の中で「神は死んだ」と宣言し、西洋文明が始まって以来、特にソクラテス以降の哲学道徳科学を背後で支え続けた思想の死を告げた。
それまで世界や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えた。自己との社会・世界・超越者との関係について考察し、人間は理性的生物でなく、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。さらには絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中 で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。
すなわちニーチェは、クリスチャニズムルサンチマンに満たされた人間の持つ価値、及び長らく西洋思想を支配してきた形而上学的価値といったものは、現にここにある生から人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。その流転する世界の中、流転する真理は全て力への意志と言い換えられる。いわばニーチェの思想は、自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。
-上記より引用-

ここにもあるように人間は理性的生物ではないといったくだりなどは私などもまさにそう思いますね。
人間とはそんな高級なものではないです。
少なくとも大衆レヴェルでの思考、行状を具に見ていく限りに於いては。

また人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるといったくだりも全く其の通りなのだろうと思いますね。この辺りはまさに仏教的とでも申しますかかなりに東洋の思想の影響が見て取れる部分です。
人間が悲劇的な存在であると同時に喜劇的な存在であるという見方もまた一種とても情けない見方ですがまさに其れも当たって居るのではないで しょうか。

然しルサンチマンこそが人間の諸の苦悩の原因であると彼が考えた部分は、私の場合其れは違うと思って居ます。
第一ルサンチマンは弱者だけが持つ心性では無い筈です。
それにそもそも強者というのは一体何のことでしょうか。


人間はすべからく皆弱者です。

金や権力または精神の持ちようで強者になることなど出来ない。
何故なら人間は元々限定された生命でありしかもエゴの領域に他の生物よりもより深く繋がれし劣等生物ー心の上でのーであるに過ぎない。

そういう変な者がこの宇宙に於いて何ひとつ威張ることなど出来ない。
どんな教祖様だろうと実は威張れない。
お釈迦様とイエス様以外はほんの少しも威張れない。


だからあの大川  隆法氏なども実は全然威張れない。

もっともUFO学園の何たらとか云う映画が今度封切られるそうだがそれだけは少し興味がある。
ただ其れは新興宗教団体がそも今何でUFO学園なんだという一種のキワモノ見たさの心理が其処に働いて居るからであるに過ぎない。


其のルサンチマンを基調としてニーチェキリスト教批判を展開して居ますが、私は其の部分も当たって居ないとそう考えて居ります。


と言うのも、私は弱者が好きなんです。

ルサンチマンを常に持たざるを得ない弱者こそが大好きです。
でも強いて言えば其れは大衆ということではなくルサンチマンを抱いて何かと闘って居る知識人の方が私はより好きです。


そんな立場が弱い知識人の大ルサンチマンが嫌いではない。


だからそうした弱き者、不足して居るがゆえに自己実現の難しい者への同調と愛和の精神はどうしても必要なものだと思って居る。


いやむしろそうした不条理性を生じざるを得ないこの不完全な世の中であるからこそルサンチマンを基調として世の中に訴えていくべきだろうと思うのである。

世の不条理な部分を、それも声高に。

そういう訳ではわたくしはルサンチマンをもってしてネチネチと社会批判することなどがむしろ大好きです。
世の中に対する恨みツラミ、不満、批判、否定、戦闘ーただし精神的な意味でのー、位はしておく方がむしろまともだと思って居る位です。


また東洋の思想や宗教には、この弱者の思想というものが其処から明らかに読み取れる訳です。
老荘思想などは特にそうなのですし、仏教にしても初期の仏教は元々人間を全部ダメな弱者として扱うという思想なのですからある意味では其れは弱者の思想なのです。


老子などは其の部分をむしろ逆に弱い者こそが強いなどとも云って居りますね。

或は剛直なもの、役に立つものよりも曲がって居て役に立たないものの方が良いなどとも述べられて居ります。


この部分は非常に面白い洋の東西での価値観の違いということになりましょう。



其のニーチェは然し確かに仏教には好意的な見解を述べて居ます。

でもニーチェが本当に仏教を理解して居たかどうかという段になるとどうも其れは分かりませんね。
またニーチェが本当に東洋の思想を理解して居たかどうかという段になるとどうも其れも分かりませんね。


ニーチェの超人思想というものは実存的存在がルサンチマンを排した力への意志を持つことで超人化するというものなのでしょう。

然しどだい実存主義自体が人間にとっての本質或いは人間の規定ということを余りにも軽視して来て居るように私には見受けられる。
たとえばあのサルトルなどは、人間にあっては実存が本質に先だつ、人間の本質をあらかじめ規定するような神は存在しない、人間は各自が自由に自己を創造していくほかなく、その創造の責任を自らに引き受けなければならない存在である。

などとも云って居たのですね。


この考えは、私の場合余りにも人間を信じ過ぎて居るように感ぜられてならないのです。

また翻れば近代科学もそうで、資本主義社会も全くそうです。


弱肉強食と云うか何と言うのか、兎に角其処には弱い者が弱い者として当たり前に存在するという視点が欠けて居るように私には思われるのです。

そして煎じ詰めれば其処が東洋と西洋の考え方、価値観の違いなのではないだろうかとも思うのです。


だから東洋の思想に理解を示して居た筈のニーチェにしても結局は超人思想に行き着くこととなって仕舞います。


いやー、意志とか力とか実存とか、そういうのが彼らは好きなんですねー、どうも。

もっとも其れも昔の思想に於いてはということになりますがね。

とあれ、キリスト教に限らず宗教がかっての様な人間の規定力、抑制力を欠いて来て居るであろうこともまた確かなことなのであります。
ニーチェキリスト教批判にはキリスト教の不純性ーつまりはあのイエス様の教えとの乖離が存することーをついた部分もありましたが其の部分については確かに当たっていることなのでしょう。


其処は仏教にしても同様に大きく不純化して来て居りますので致し方ないことではないかと思われるのです。



でもキリスト教にしても仏教にしても弱者への視点というものは常に存在して来て居る訳です。

其の弱者というのは社会的な階層の意味の上での弱者ということではなく共に人間とは全部弱者であるという視点のことです。


私はこの視点こそが近代という人間の世紀に完全に欠けて居るものであることをここに是非訴えておきたい。

確かに我々は弱いし其れに馬鹿でもある。
おまけに薄給の身で体も弱くあと何年生きられるかも分からない位だ。


でも魂があるだろう、この草魂が。

其のバカ魂、庶民根性、負け犬根性、低級根性、何でも欲しがるこの根性、生まれつきの下品、生まれつきの社会のドレイ、生まれつきの薄給、 生まれつきの女居ない病、生まれつきの…、生まれつきのスケベ。


ただし、逆に近代は社会的に弱者を救済し人間を平均化するという試みでもまたあった訳です。

だから私の云って居ることは其の部分とはまた少し違った部分のことを述べて居るのです。


もっと人間全体としてのことを述べて居るのです。

ホモサピエンスとしての弱者乃至は弱きものへの抑圧ということにつき今回述べさせて頂いたのです。


尚私の提唱して来て居る目覚めた個という概念は実存主義で云う個人主義のようなものとは全く違うものです。

実存主義では人間を本質存在ではなく個別具体的かつ主体的な事実存在として捉えて居るそうですが其の概念も私のものと似て居るようでいて矢張り全く違うものですね。


私の云う目覚めとは認識に於ける全体論としての目覚めと云うことであり、一言で言えば個が近代による洗脳を解いて精神としての自立性または自由を獲得しようといった概念なのであります。

ゆえに個々人の精神活動に於ける方向性の転換ということが多分に其処には含まれて居ります。
ただし全体論として目覚めるということは、むしろ個としての思考、行動が規制ー規定ーされる部分が発生して来るのだが、たとえそうではあっても洗脳を解くことで少なくとも精神の自立性は其処に獲得することが出来る。


其れから其の精神の自立性を宗教が邪魔をするものとは私の場合そう考えて居ないのです。

云うまでもなく宗教は否応なく精神の規定となり得るものですが、其処で正しい宗教を選ぶ限りは其の個の精神の自立性と宗教上の教え、教義とは矛盾しない筈であろうとそう考えて居ります。


教義と云えば近代合理主義教、近代欲望病、近代倒錯思想病、の方が余程に危ないものを含んだ教えだったのではないかとそう睨んで来て居ります。

小さい頃我々は学校で世の中が進歩していくのは良いことであるかのように教わったものでしたが、其れも今考えてみれば其れも皆こんな世の中にして仕舞う試みであった訳で、其処からもまあ本当に現代社会の価値観というものは一筋縄ではなくよく分からないものです。


が、私は近代的な価値観の全てを否定して生きる者では実はありません。

近代が成し遂げた小さい部分の価値はむしろ前近代が保って居た価値を遥かに凌ぐものがあることでしょう。
ですがどうも近代という時代は大の方のことが常に苦手である。


精神にしても環境にしてもまさに其の大の方の価値観の方のことで行き詰まって来て居るのであります。

だからこそわたくしは其の部分にメスを入れつつ色々と書いていくのです。
其れが詩人の仕事として近代の大の方の後始末をして居るということなのかなあ。