目覚めよ!

文明批判と心の探求と

近代とは刹那の大花火大会

さて近代とは刹那の大花火大会であると前回述べました。

それにつけても花火というものは綺麗なものですねえ。

色とりどりに大輪の花の如き光の乱舞が見られまことに美しいものです。


無論この花火大会をそのままに鑑賞しつつ一生を終えることさえ出来る。

花火は花火で綺麗なのだから、其の綺麗なものを綺麗な儘にただ眺めていたって良い筈です。

其処で何で今花火なんだろうとか、花火の後始末のこととか、そういう舞台裏のようなことを考えるのは無粋というものです。



だから花火なんで花火なんだよ。

オイラは毎日観て居たいんだよ、この能天気な花火大会を。

其れが所詮は苦し紛れの花火であるにせよだ、今この一瞬に咲き誇る光の花々だけを見て居たいんだよ。


或は女。

女の若い頃、つまり若い女は皆綺麗だ。

こいつらの裸だけを是非見ておきたい。

其れ等肉花の咲き競う様を収集して是非この花火大会のツマとしてみたい。


なる程、近代というのはつまりは欲望の世紀なのですな。


酒と女とギャンブルの世紀、其の危ない非聖性の支配する時代であることこそが近代の実相である。

おおー、くわばら、くわばら、

あたくしのようなお上品な詩人はとてもこんな毛深い、ではなかった罪深い時代をわたっていけそうもないじゃあございませんの。




Wikipedia-自然哲学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E5%93%B2%E5%AD%A6


尚、以前に言及した自然科学の初期概念である自然哲学乃至は自然学という学問分野は個人的に非常に興味深いところを含んで居る概念である。


ー自然哲学の探求者の多くは宗教的な人間であり、抑圧的な宗教者と科学者の戦いという図式ではなかった[5]。 世界は「自然という書物」であり、神のメッセ―ジだと考えられていたのである[1]。 ヨーロッパでは近代まで、ほとんど全ての科学思想家はキリスト教を信じ実践しており、神学的真実と科学的真実の間の相互連結に疑いはなかったー上 記より引用ー

ともあるように、自然哲学者とは宗教的な立場にある人が行う学問的な立場だったのである。

また近代までは神学的真実と科学的真実の間に乖離する部分はなかったということも非常に興味深い事実なのである。


近代までというのは、無論のこと例のダーウィニズム、つまりは進化論の流れが発生するまでということになろう。

進化論と神学上の真実は相性が悪いらしく、事実キリスト教の諸宗派、諸団体に於いてダーウィニズムを否定的に捉えて居る向きもまたあるようだ。ー この件についても実は詳しくはないのですが。-


中には進化論を完全に否定して原理主義的なキリスト教を目指そうとコミュニティーのようなものの中で中世じみた生活を続けている団体もまたある。

でも私の場合そういうのは分からないでもない。


それはそれで良いのではないでしょうか。

逆に日本人は何で過激な仏教思想に嵌らないのだろうかなどとも少し思ったりします。


いや、待て待て然し、あのオウム真理教などは分類するとすればまさに其れに当たって仕舞うのかもしれないね。

まあでもあれは仏教ではありませんのですけれどもね。厳密には。




Wikipedia-人間中心主義

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E4%B8%AD%E5%BF%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9


近代合理主義批判の立場に於いては屡この人間中心主義という立場が槍玉に挙げられたりして来て居ります。


ユダヤ教キリスト教の創造観は、旧約聖書の創世記に述べられている。その中で神は人間に対して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」[1]と命じている。この「従わせよ」や「支配せよ」は緩やか過ぎる訳語であり、ヘブライ語の原語「kabash」は「鞭打って血を流してでも従わせる」といえるような強い言葉である[2]。 このように、「人間は自然を支配することを神から許されている」と信じてきたユダヤキリスト教が文明を築く中で、自然破壊が進んできた[要出典][3]。ー 上記より引用ー


なる程、矢張りそうだったのか。


人間中心主義という立場はこのようにまず宗教的な背景があって成立していたものだったのです。

ちなみにこれ、東洋の宗教や思想とは相容れない思想なのであります。


東洋起源の宗教や思想にはこの種の自然の支配欲、人間に対する自然の従属性といった概念がそもそも出て来ません。

特に仏教や老荘思想には逆に自然に寄り添って生きるとでも申しますかあくまで自然に対する謙虚な眼差しや行いが強く感じられるものとなって居ります。


其れで哲学者の梅原 猛先生などはこれら東洋の思想の、西洋起源の思想に対する優位性を強く主張されて来て居るのであります。

そして無論のこと私もこの考え方に同調して来て居ります。


西洋起源の思想に必然的に含まれて居るこの自己本位性の部分、エゴを押し通す部分、たとへば酒と女とギャンブルに走り易い部分、妙にあくどい部分、何やらとてもいやらしい部分、あたくしのようなお上品さにはまるで欠けている部分、自己の行いを客体化して見られないという視野狭窄の部分、実存的苦痛の多過ぎる部分、金と自由があれば神にも等しい存在であるとすぐに自己を神格化して仕舞う部分、等々がもう本当にヤバいっすよ。


するとかって神は汝ら人間がすべてを支配せよ、とそうのたもうたのですね。

自然を屈服させよ、自然を従属させよ、自然から収奪せよ、自然を搾取せよ、これぞ不当労働行為だー、自然を全部食べちゃえ、みんな食っちまえ、やっつけちまえ。なんとなれば俺だけがこの俺だけが偉いんだからよー。何せ神からも其れを許されちゃってるんだからよー。これこそが其のお墨付きなんだよー、へへへへへー。


ああ、何と罪深いことであろうか。

我々東洋の民族が遥か古より連綿 として受け継いで来た自然との付き合い方の真理、まさにあの、自然は大切にしませう、自然は神様です、山は神様、海も神様、我々人間は神様からおすそ分けして頂くんです、其の日々の糧を。


神様は沢山居て、其れはエホバ神とかいう一神教の神様とは全然違うものです。


それに日本は神国でもってして大和魂が云々かんぬん。


ここからしても我々教師はあの日の丸に是非頭を下げておくべきである。

ただし日の丸と軍国主義とは無関係であると考えた上で。


だからあえて私は君が代も歌うよ。

別に関係ないじゃん。

君が代軍国主義は。


其処で私は古より連綿として続く東洋の思想に敬意を表し頭を下げるのである。

からして根本的には今の世の中 一体何が悪いのか、問題なのかということを其処でよーく考えてみよう。

要するに自然に対する謙虚さを失った心の問題なのじゃないですか。


とあれ、其の様な歴史的過程のもとに近代という大花火大会は画策されていったのであろう。



Wikipedia-環境倫理学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E5%A2%83%E5%80%AB%E7%90%86%E5%AD%A6


ここでの環境思想の分化という部分に以下の分類があります。


  • 自然中心主義(naturecentrism) - 人間とその他の自然は自然環境の中で共生しており、人間は自然を改変する際に節度を持たなければならないという考え方。
  • 生命中心主義(biocentrism) - 人間とその他の生物は、生態系の中でお互いに有機的な関係(食物連鎖など)をもつ共同体の構成員であるという考え方。構成員の中で人類だけが自己利益のために環境破壊を行っており、それに応じて人類は生態系全体に対する責任を持つとされる。自然中心主義よりも積極的・進歩的。
  • 生態系中心主義または生態圏中心主義(ecocentrism) - 生態系の中で人間もその他の生物もみな平等であり、それをかく乱するものは、生態系を元のあるべき状態に戻す義務を負うという考え方。生命中心主義よりも積極的・進歩的。
  • 人間非中心主義(anthropo anti-centrism)または弱い人間中心主義(weak anthropocentrism) - 生態系・自然・生物のことを、判断し保護し責任を負い権利を保障するのはあくまで人間であり、ある部分では人間中心的な考えから脱することはできないという考え方。ある部分とは、例えば人類の生存に関わる究極の選択において、生態系と人類のどちらをとるかというときには人類をとらざるを得 ない、という非人間中心主義の限界を示した。環境に配慮して人間中心主義をできるだけ抑制する立場。
  • 環境主義(environmentalism) - 自然はそれ自身のために存在し保存されるもので、人間にとっての損得を基準とするものではないとし、人間のほかの利益と同等に、あるいはそれよりも環境問題の解決を優先する考え方。1970年代ごろから台頭し、環境保護運動の中核をなす考え方。ー 上記より抜粋して引用ー


この様に様々な立場での自然に対する考え方があり、また抜粋した部分以外にも様々な考え方が存して居ります。

東洋の思想は自然発生的にまたは内発的にここで云う自然中心主義に当たるように成り立って来たのではないかと思われます。
然しこうして見るとすでに其れよりももっと積極的であり進歩的な考え方も成立して来て居るようです。

ただし人間非中心主義を除きいずれもが非人間中心主義(anti-anthropocentrism)に立って環境問題の解決を図るものとされて居る訳です。
非人間中心主義とはつまりは人間のエゴを抑えていこうという考え方であり試みであろう筈です。
然し人間全体としてのエゴを抑えるということは、これはもう並大抵のことではございません。


ここからしても人間というものは一種の奇形生物です。

其のことを私の言葉で語れば、一方通行性のようなものが妙に肥大化した生物とでも申しますか、兎に角自分の方向性だけを頑なに持ち其れが何かとてもチャカチャカして居て煩いものです。


其の様に肥大化した自我を常に放射状に張り巡らせて我々は生きて居りますので、其の様やまるで金平糖のようなトゲトゲのあるばい菌みたいなものです。

ところが自分たちは自分たちで其れで正しいとそう思い込んで居りますので、其処ではかなしいかな、自分の真の姿が自分の目に映って居りません。


ただし我々にも目はありますので勿論其処に映って居るものがあるにはあるのです。

其れが今ですとロボット開発とか宇宙開発とか人間の寿命を延ばし病気と闘うこととか、其の他諸の訳の分からない価値に振り分けられて居りますが本来ならそういうのには皆順位をつけて本当に今やらなければならないことから優先的にやっていくべきなのでありましょう。
たとえば野菜を工場で作ったりも盛んにして居るようですが個人的にこれなどは少し面白いですね。


何故なら近い将来に近代三百年に亘る自然破壊のツケを喰らって人類の何割かが飢えるという可能性は十分にあります。


だからそういうのがあのお寺さんなどで見る地獄絵図の有様そのものなのでありましょう。

あのおどろおどろしい地獄のもよう、餓鬼道、畜生道の世界というものは将来現実に起こり得ることです。