目覚めよ!

文明批判と心の探求と

科学的理性による全体主義の成立


科学其れも自然科学の様に自然そのものを客体化して捉え世界を豊かにする思想が存在すると、其処で所謂科学への過信、依存のようなものが次第に醸成されて来るように思われてならない。

要するに其れが無いともはや一刻も生きて行くことが出来ず、しかも其れに対して絶対視して行かざるを得ないのである。


行かざるを得ないというのは、そうした絶対視し得る領域が宗教から科学へとシフトされて仕舞ったからなのである。

歴史過程の必然としてそうならざるを得なかったのだ。

宗教から科学への改宗とは其の様に必然の過程である。




謂わば歴史上の様々な要素の、其の雁字搦めでの一ピースでの結果として其の様な科学への信仰というものが確立したのである。

然し其の過程、改宗こそは謂わば魔の道行であった。

其れ以降の人類は一種の魔の領域を歩まざるを得なくなったのだ。


ただし自然科学と雖も其れを全否定し得るものではない。

自然科学のお蔭で我々はこうして便利で快適な今を享受して居られよう。

ただし其の便利さや快適さはそのままで幸福に繋がるというものではない。


逆に不便さや自然による圧迫が強くとも、其処で人間が幸福そのものに生きて行くことは可能である。





尚逆に今わたくしはある種合理的に自然科学を断罪すべきだと考えて居るのである。

以前にも述べた如くにわたくしは実は合理主義者だったのだ。


元々非常に論理的に考える方で、しかも無駄なこと、お化けのようなもの、迷信の類など、不合理領域でのものが大嫌いであった。

若い頃は此の人間の肉体の不完全性に嫌気がさして居て、其れで人間の体はサイボーグ化した方が人間がそうした肉の部分で悩むことも少なくなりよろしかろうなどとも考えて居た。

そうした方が人間の精神がより磨かれやがては神の如くに神々しき精神の段階へと昇華出来るのではないのかしら。




まあ当時読んで居たSF文學の影響があったのやもしれぬが。

然し其れとは反対にたとへば大宅 歩だの原口 統三だの、或は太宰 治だの芥川 龍之介だの、坂口 安吾だの何だのと兎に角手当たり次第に本を読んで居たので本当の本当はSFの方はさして重要だとは思わなかった。



芥川龍之介などはあの立派な岩波の全集を高校生の頃にすでに持って居た。

芥川龍之介は良く云われるように確かに理知的な文章だったが其れが物凄く理知的なものだとは実は全く思えなかった。


むしろ芥川の持つ感情豊かで温かみのある部分が表れた作品や書簡を具に読み込んでいくことが好きだった。

其の後三十歳前後で漱石を読んだが、ここでも永日小品というあの漱石にしてはこじんまりとして、それこそ何という事もないただの日常を描いた作品を愛読して居た覚えがある。




青空文庫ー永日小品
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/758_14936.html





そう言えば太宰の場合もそうで、例の中期の一種情緒の安定した作品群は好きだった。

無論のこと彼の基調をなすであろう破滅的な部分を愛し得て居ない訳ではなかったのだが。


文學の方は自分の中での専門と云えば専門なので勿論其れにつき色々と論じていっても良いのだけれど最近はどうも文學を論ずる気にもなれないのである。

文學をやって居るうちに即世界が腐る、或は世界が滅ぶような気がどうしてもして、其れでもうひとつの得意な分野である宗教の方に縋り付き論じて来ざるを得なかったのである。






自然科学に於ける功罪は、其処である種合理的に評価されるべきなのである。

兎に角理窟の上でどうのこうのということではなく、人類にとって其れが真に幸福を齎すものであったかどうかという視点でこそ評価されるべきなのである。


だから幾ら其れが表面的な幸せを用意したものであっても、逆に本質としての幸せを与えて呉れないものであるのならば、其の試みの多くが其処に否定されてしかるべきものなのだ。

そして事実上地球を破壊しつつあることの主犯格と考えられる自然科学には反論を行う余地など全く残されて居ないのである。





であるからして当然の如くに自然科学は牢屋に入り刑に服すべきなのである。

ところが自然科学は近代以降ずっと花形スターとしてやって来て居るのである。


スタアはいつしか近寄り難く畏れ多いものとなり、其処で即ち絶対性と権威化の象徴ともなろう。

すると、我々は科学的権威に対して物申すことが出来なくなる。

我々は自然科学の下僕となり其れに仕えーあくまで精神的にということーのみならず飼育化、奴隷化されて此の一種下らない生涯を自然科学の認証の為にこそ費やすのであろう。





即ち是が自然科学による人間の全的支配であり科学による全体主義の成立である。

科学の世界は今其の様に絶対権威化し個としての人間を抹消することであろう一種の全体主義国家を形成しつつある。


否、国家にとどまらず、グローバルな科学全体主義がすでに其処に成立して居よう筈。

科学全体主義は個としての人間の考えを抹消するだけではなく、非本質主義を此の世に蔓延らせていく。


本質主義とは、其処で合理的解釈や論理的検討を行うことなくただ本能の赴くままに科学的成果乃至は科学者としての地位、即ち権威を追い求める餓鬼道そのものの様を言う。

即ち科学の名を借りた餓鬼道が今世界中の先進国、新興国の間で繰り広げられて来て居る。





自然科学よ、矢張りお前もか。

資本主義、其れもグローバル化され金融化されし資本主義がヤバい思想であることは明らかなのであるが、其れと結託した形での自然科学の暴走が人類をして地獄の淵へと突き落とすことだろう。





第一小保方さん、あの方はどうなされて仕舞ったのでしょう。

三年位前にわたくしのアホな上司ーフェミニストで勉強嫌いの上司ーが小保方さんのファンで、何やら物凄く嫌らしい視線でTVに映る彼女のことなど良く視て居 たものです。

然しわたくしは当時からこのやうに女科学者がでしゃばり世に注目されるようなことはロクな結末を迎えないものと即座に読み切りこの騒動自体を否定してかかって居りました。




矢張り観念の幅の狭い女性は是非家庭に入り其処で掃除洗濯家事裁縫に勤しみ、さらには逞しい良い子を産み其の子を確りと育て上げるべきである。

尚、わたくしは観念が浅い、つまり女の浅知恵などとは決して言って居りませんので、悪しからず。ーちなみに女の浅知恵という言葉は現在では死語、加えて女子供などという言葉ももはや死語化して居る。ー



確かに実際に観念力のある女性は結構居られます。

ただどちらかというと観念的要素の統合力と其の統合の結果の視野の確保、全体像の把握といった部分に弱みを持って居るように思われてならない。




尚是は元々男女の役割分担の違いから生じて来て居ることだろう自然な観念の傾向性なのです。

第一男女では体の作りも違うのだし頭の中身の方でも得意な分野が全然異なって居りましょう。


其れを全部同じだと云って居る近代の思想の中身は本質的にお粗末そのものです。

バカ思想からはバカな行動が生まれ、バカな行動の積み重ねによりバカな文明が形作られ其処からのバカな結末として人類はやがて滅んでいくのでありましょう。







自然性は人の合理性を超越する
http://ameblo.jp/cruyff1225/entry-12025535988.html


なる程、此処でこの若者の方はなかなか鋭いご意見を展開されておいでです。


曰く、



ー僕たちの「理性」という土俵が一番賢くて正しいものだと思い込んでいるんですから。理性ほど非合理的なものはなく、それを超えるものがあると気付いてはじめて理性は強くなれるのに、それに気付くことだってままならない。

それでは人は、いったい理性ではなく何に従い生きればよいのか。

僕は、自然の生き方に従うべきなのだと感じます。ー以上より引用


ーなぜなら人も自然と同じく、豊かに生きるためには光と、それを受ける程度の空間が必要なのです。ー以上より引用






まさに素晴らしい思考の展開です。

特に理性程非合理的なものはない、といったくだりなどはまさに的を射たご意見です。

理性とは所詮は分解、分割のことですので、其れ自体に全い合理性が確保されて居る訳では無く謂わば確定的かつ全体的なものではない。


ユラユラとした、まさに一種の陽炎の如きもの、全い理性の影のようなもの、或はそんなものなのかもしれない。

其の様な仮象としての理性に寄りかかり、逆に非合理的な展開を必然的に生み其れに突き動かされ踊らされつつ我々は今を生きて居ります。





ただ、人間は自然界の生き方をそのままに履行していくことは出来ません。

人間に出来得ることは、仏になる方向性を選ぶか、其れとも近代思想を奉じて餓鬼道へ墜ちるかという其の選択だけです。

或は神を信じて救われるか、其れとも近代思想を奉じて地獄へ墜ちるかという其の選択だけです。


ただし自然界の仕組みは人間にとっても大いに参考にはなるものです。





また人が真に豊かに生きる為には、仰る通りに真の意味での光と余裕、余地のようなものがどうしても必要です。

確かに此の一見明るくなり闇を排除したかのような現代社会の本当の姿は仰る様に陰だらけなのであります。


我々は明るさに背を向けあえて暗い暗い一本道をまっしぐらに駆けて居ることだろう何か下らない生き物です。

だから光こそが必要なのですが、其の光は本質の光であり真理の光であり本来ならば其処で得られずには居られぬ性質でのものの筈です。





ですが此の止めどない科学的時間、資本主義での飽食の時間を生きる我々には其の光自体がもはや見えて来ない。

見えて来ないばかりか、もはや其れを感ずることさえ忘れかかって居る始末である。


人が真に豊かに生きる為にはまず其の感覚、感性、それから思想を取り戻すことが何より大切です。

其の様に我々の感覚も感性も思想も、此の近代という三百年の間に破壊されて仕舞ったからなのであります。


そして其の再生せし思想でもって闇を見つめます。

宗教を味方にし真の意味での光を建設した上で、さらに其処でしかと闇を見つめる必要があります。


太宰も芥川も安吾漱石も皆其の闇の部分につき書いて居ります。

其の闇の深さを見失ったのは常に我々自身なのでありましょう。