目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

モロ出シの理性の治し方




モロ出シの理性の治し方







世界大百科事典内の理論的合理性の言及

【合理性】より

…それに対して,近代の資本主義における経済活動や官僚制機構における業務においては,目的内容の価値自体は問題にされず,もっぱら手段の効率性が一般に合理性の基準となっている。 歴史的に見れば,知識としての理論的合理性の萌芽は古代の各文明圏に見られた し,ギリシアにおいてすでに開花していたといえる。しかしそれを実践に応用し,技術を通じて自然を支配しようとする実践的合理性は, 近代の西欧に固有のものであって,この意味での合理性は〈進歩〉の観念と結びついて〈近代化〉の指標となる。…
※「理論的合理性」について言及している用語解説の一部を掲載しています。




此処に示されるような資本主義に限らず近代という時代の範囲での人類の行動自体が往往にして目的内容の価値自体は問題にされずに行われて来たものであったことだろう。

謂わば其処に目的内容の本質的価値や目的内容への道徳的、倫理的な意味での批判というものが含まれることなく行為、行動が営まれて来て居たのである。

然し、そうした一種の細切れの行動が一体我々にどんな現在を齎し得て居るのだろうか。




其処でどんな理窟をこねたにせよ、今我々の住する世界が妙に息苦しくそして未来さえをも閉ざされたものとなりしことはもはや疑いようの無い事実なのである。

地球温暖化と海洋の酸性化、其れに加え地球上のあらゆる生物種の絶滅に対するどんな云い訳が成り立つというのであろう。


無論のことそんなものは一切成り立たぬ。

其の理窟こそは屁である。

即ち屁理屈である。


さて、近代主義の擁護者達よ、もしも君等が近代の思考を擁護するのであればわたくしは即其の意見の悉くを喝破することであろう。

紛うことなき其の屁理屈こそが此の稀なる美しい星を蹂躙して来て居るのだ。


確かに君等が用意した御馳走の数々は一見わたくし達を豊かにしたかのように見える。

だが此の貧しい口に、其れ等の馳走の数々はむしろちっとも美味くない。


其れはそも口がまずいから、何を喰っても美味くはないんだよ。

むしろ飽食の果てに窒息しそうである。

満腹で満腹で、むしろもうゲロゲロだ。



この悪魔共めが!

此のゲロゲロを止めろ、今すぐに止めるのだ。




いずれにせよ、このやうな暴言によるストレスの解消はさておき、冷静に考えてみるに合理的ということは其れ即ち論理的に思考するということなのであろう。

ちなみにわたくしは或は天才型なのか、美術や詩や音楽が大好きだというのに他方で可成に理窟っぽく論理的に考える方なのだと思われる。


謂わば右脳と左脳の連結が柔軟と云うか直結と云うか兎に角相互に交流して居る方なのだろうと思われる。




其れで、実は男性の気持ちと女性の気持ちの両方が分かる。

無論わたくしは女ではないので本当の本当のところは分からないのであるが妙に細やかな点や表面的に大変優しい部分などは可成に女性的でもある。

ー実は其の女性的な面が生身の女性からは嫌われることが多い。ー




其の逆に意見などもハッキリしており第一自分で何かの理論を組み立てるのが好きだしまた色んなことを即決したりもし其処は随分男性的なのではあるがそのくせ意外とイジイジしてみたりメソメソしてみたりで行動力には欠けて居たりもする。


其れで或は生まれついての両性具有者なのかなあと思わないでもないのである。

ー両性具有者と云えばかのボウイ様の女装の趣味は可成の域に達して居たものと思われる。しかも彼はちゃんと結婚して居り子供も居たのだそうな。-




とあれ其の論理性と非論理性、理性的な部分と非理性的な部分の融合が可成に大事な部分であるように思われてならぬ。

謂わば理性と本能、上半身と下半身との結合が元々人類に於ける自然な形での幸福を形作って居たように思われてならないのだ。


其れがどうも近現代に於いては本能剥き出しの非論理、非理性での世界観が世界を蹂躙しつつあるように思われてならぬ。

だから其れが理性の逆流による本能モロ出シ、下半身モロ出シ、での一種のエロ動画状況を現出せしめて居るもののやうに思われてならぬのである。


ちなみにエロ動画というものは、むしろ其れを見過ぎると飽きる。

本当の本当のエロとは抑制であり従って其れは想像のことであり過激な画像でも実物でもないのである。




此の謂わばモロダシの現代文明はもっぱら手段の効率性を求め実践的合理性なるものを据えつつ歩んでいくもののようである。

現代文明に於ける合理性と自然に於ける合理性とで顕著に異なる点が此の実践的か否かということなのかもしれぬ。


実践的即ち其処ではものの道理、根本での行為の道理を考えていませんという立場です。

そしてどうも此処は理論的合理性の部分からまた分解されて仕舞って居る訳である。


一体何でこんなに分解が好きなのか分かりませんのですが、兎に角現代人は分解乃至は分業ということがお好きなようです。


然し其処まで分解乃至は分業するとなると、其処ではもはや全体もクソも無くそれこそエロ動画が其処に延々と映じられるやうな実に実に嫌らしい世界が出現することともなろう。




そして其のエロ動画をこそ我々は好んで日々鑑賞して居るのである。

無論のことそんなものは理性の理の字もなく本能まみれ、つまりはゲロまみれでクソまみれの汚らわしい世界そのものなのだ。



ー尚、今回は下ネタの方に振り過ぎましたので其処はお詫び申し上げます。ー





其の論理と本能、理性と本能の連結ということは元々人間にとって最も大事なこと、むしろ人間にだけ可能な課題であるような気がしてならない。

自然には枠としての合理性はあっても其れが所謂理論的合理性そのものであるとは限らない。

自然に於ける合理性は論理つまり二次分解過程に於ける理性よりもより瑕疵性の少ないものであろうと其処で考えられるのである。



よしんば自然に於ける合理性が理論的合理性に近いものなのだとしても、其処に所謂実践的合理性が生じ得ないだろうことは明らかなのである。

だから自然に於ける合理性はより大きい合理性の範疇でのものだ。



自然に於ける合理性は其の様に謂わばよりデカい合理性である。

対して人間の考えるところでの合理性は其れと比して小さいー狭いー合理性である。



其れを具体的に言えば、



例1.近代以降の人間にとっては、理論的合理性からもより豊かに生きることがむしろ当たり前なのであるからして、其処で山や海や地面を削り其れでもって色んな物を作りついには都市というものを拵えました。ところが色んな物を作って居る最中に其処で色んな変なものが出ることとなって仕舞いました。其れでも欲の深い人間達はそんなものは屁の河童とばかりにむしろドンドン地球を削り続けまさにモロダシの欲望でもって生きて参りました。

すると、21世紀という時代を迎えた人類は地球の温暖化という大問題を抱えもはや八方ふさがりでお手上げの状態にあります。

対してモロダシではなかった自然は其処で何より理性ーより大きな理性ーと本能が連結して居たお蔭で其処でどんなに弱肉強食の状況を繰り広げようが、或はメスばかりを追いかけて生きていようが、他の生き物の食い物ばかりを横取りして生きていようが、はたまた自分の子を食い殺そうがどうしようが、兎に角其の位のことではビクともしない合理的整合性、全体性が其処に確保されて居りますので、其の自然の仕組み自体には何らの影響を加えることなく今でもこうして皆仲良く暮らして居られます。


ところが何せ人間は頭が二重、三重に壊れて居りますので、其処で本当の本当はモロダシどころかモロ壊し、モロ殺し、もう皆殺しじゃー、ということで兎に角余りにも下品で其処に理性のかけらも感じられない、其の様に無体な餓鬼道の世界を此の地球上に繰り広げて来て居ります。





例2.より分解されし合理性ー理論的合理性とさらに分解されし実践的合理性とでーで人類はやがて月へも行きましたが本当は月にウサギさんが宿っていないということを其処に証明して仕舞いました。が、本当の本当は月にウサギさんが居ると思って居る方がまだしも幸せなのです。また徳川幕藩体制 の時代が結構幸せで居られたのも其れと同じ様な理由によるものです。地球の周りを太陽が回って居るという考えなども同様の理由で其の考え方こそがむしろ人間や環境に対して優しいものです。


其処を少し難しく述べれば其処ではそも理論的合理性の成立が為されて居ないにも関わらず、たとえば幕藩体制では実践的合理性の方が確りと確立されて居る分決して非合理な世界のものではないのです。さらに地球の周りを太陽が回って居るという考えはたとえば宗教という立場から説明することは幾らでも出来ます。


宗教は確かに一種の非合理領域ですが、其れは元々理性の体現者であるところでの神や仏と繋がりしものなので前近代的な意味での合理性を宿したものでもまたある。ゆえに近代的な合理性と比せばあくまで非合理領域のものとして考えざるを得ないということである。ですので宗教が科学的であった時代もまたあったということともなろう。たとえば釈尊の説かれし原始仏教の教説は非常に論理的なもので一種科学的なものです。またたとえば錬金術などにしても自然科学と比せば其れは確かに嘘くさいものですが此の錬金術からこそむしろ近代科学への流れが生じて来ても居るのです。






以上のことからも、合理性と云ってもどうもスケールの違い、分解度の違いがあるようにわたくしには感じられる。

其れでもって歴史上の経験則からしてもより大きく問題を引き起こす可能性が高いのはより小さく分解、分割されたところでの合理性である。


だからこそ観念というものはスケールが大きい方が良いのである。

スケールが大きい合理性とは、実は論理と本能、理性と本能との連結部分に関して繋がり易くかつ其れが分断されて居ないのである。


其れが謂わばオカマ状態でありつまりは両性具有性のことなのよね、そうした完全性が欠落すると全体論的な理性の認識力を見失い易い。

だから理性がそのままで、論理性がそのままで、合理性がそのままで全体を見失い易いということなのではない。


謂わばより分解されし理性、より分割されし合理性こそが全体を見失い易く即ちヤバくて下品でモロダシなのである。



もうモロダシだけはやめてーーーー。

と先ほどからわたくしの中の女性がそう訴えかけて居りますのよ。