さて現代という時代は一体どこへ向かって進んでいこうとしているのだろうか?
其の行き着く先、其の進み方が良いのか悪いのかサッパリ分からなくなって仕舞うことが多い。
と云うのも価値観の浮動性、相対性のようなものが常に其処に存するので、自分つまりは個々人のレヴェルに於いてもサッパリ分からず、また社会的なレヴェルに於いても確たる指標のようなものを指し示すこと能わずで、其れで結局はそちらの方もサッパリ分からない。
要するにそうした本質的な問題の解体、本質的な価値観の解体というようなことが徐々に徐々に起こりそしてやがてはそういうのが積み重なって訳の分からないー制御の効かないー世の中になっていくのだろうなと私は以前からそう考えて来て居た。
つまり近代とは本質乃至は本質的な価値の解体の過程である。
ただし其処で云う本質乃至は本質的な価値というのは、人間に対する制御を伴う社会維持システムとしての価値のことである。
たとえば封建体制や宗教というのがまさに其れに当たるだろう価値のことである。
然し近代システムとはそうした前近代的な価値をむしろ壊すことで成り立っていく何かなのである。
其処で何故人的社会的な制御を本質として捉えるかという問題が生じるが、其れはあくまで文明にとって歯止めがあるかどうかという基準でもってして本質であるか非本質であるかという決定を下すべきだと私の場合はそう考えるのである。
ところが其の基準を他のものに差し替えてみれば近代的な価値観はスッカリ逆に本質を伴う価値にもなり得る訳である。
一言で云えば、其の価値基準を自己中心性、エゴイズムの範囲でのものに寄せていくと近代的な価値はすべからく是とされる本質的な価値ともなり得るのである。
即ち快不快で云えば快、苦楽で云えば楽、ということを限りなく追及して来た時代こそが近代ということになる。
其れは個のエゴの方から見ればまさに快哉と叫びたくなる程にエエー良いーことである。
ところが封建時代には個は封建制自体に抑えつけられ確かに今ほど何でも自由に出来るという訳ではなかったことだろう。
然し明らかに社会的な意味での抑制は効いて居た。
しかも其れにプラスする形で、宗教的な世界観が十分に機能して居たのである。
云うまでもなく宗教もまた抑制を行うものである。
其の様に前近代的な世界観の元では謂わば二重に人間に対する抑制が効いて居たのである。
然しながら、近代は其れ等の抑制をとっぱらって仕舞った訳である。
逆に言えば抑制をとっぱらったからこそ近代なのである。
ところが、其処でひとつ大きな問題が生じることを見落として居た。
其れは抑制の撤廃に伴う本質問題の危機ということである。
其処が所謂近代に於いては本質的なものの在り方自体が危うくなるといった話である。
其処で事の本質を問うことが成立しにくくなり、やがては本質を問うという古代から連綿として続く人間の精神活動にピリオドが打たれるということだ。
つまり其処でもって人間にとっての本質が無くなる、失われるということなのである。
尚この考えは純粋に私の考えでありどこかの学説でもなければ作家の意見の引用などでもない。
私には前々からそう感じられて居るので其れを言語化、概念化してみたということであるに過ぎない。
と言っても其れに近い意見、学説はおそらく多く存在して居ることだろう。
たとえばあのニーチェなども矢張りこれと非常に近い考え方だったのではないだろうか。
すると昔読んだニーチェが私の頭の中で掻き回されて私の考えとしてポコッと生まれただけのことであるのやもしれないね。
ともあれ人間にとっての本質的な価値の解体の時代を近代以後の人間は生きていかざるを得ない。ーやっぱりこれはニーチェだな、どう考えてもー
其処でニーチェの場合は超人という概念が登場するのであるが、私の場合はそんなスーパーなものは必要ないと思って居りーどだい私は大袈裟なものは嫌いだ。元々地味で生真面目な人間なので。でも実は変なことは好きで、たとえば人と違うことをしたり非常識的に考えてみたりすることは好き。其れも勿論適法の範囲で。ー、其の代わりに目覚めた個人という概念を置いてみることとしてみた。
然しどうも其の目覚めた個人という概念も超人臭いと申しますかもうほとんど超人概念と一緒のもののようだ。
ただしひとつだけ違うのが、ニーチェがキリスト教に代表される前近代的で宗教的な価値観というものを否定的に捉え其の価値観に代わって超人としての新たな人間の蘇生力に重きを置いて居たのとは違って私の場合はむしろそうした前近代的な抑制力としての宗教の力をむしろ最大限に評価して来て居るという部分なのである。
さて、先の話に戻るが、近代という時代の流れの中で人類はトコトン快楽を追求しつつ生きて来たということであろう。
然し其の流れの中には抑制を欠いたことでの魔の領域への流れということが必然的に組み込まれて居た。
人類の歴史の中で自ら抑制を効かすことでようやくバランスを保って居た何らかのものが近代に至ったことでぶっ壊れていったのである。
だから近代という人間の世紀は必然的にバランスを欠いた時代となり得るのである。
其のバランスを崩すものの正体につき今回私は述べさせて頂いた。
其れはエゴイズムのことである。
自己本位性のこと。
近代科学と資本主義社会に共通して体現されて居る性質がひとつだけある。
其れは其の自己本位性のことである。
では其れ等を続けていくとどうなるのだろうか。
別にいいじゃん、今日もまた飯は旨いわ、夜のエッチは楽しいわ、何でもアマゾンで簡単に手に入るわでまさに毎日が極楽だよー。
アホ、まー確かに其れはそうも言え俺もそうなんだぞよ。
然しあたしは仏教徒でもあるんだよ。
確かに真の意味での仏教徒ではないが仏教徒である部分もまたある。
だから自己本位なるこの呪縛を如何にして解いていくかということを常に考えて居るのだ。
お前さんのようにただのアホではない。あくまで屈折したアホだ。ーそれでも同じアホではあるのだがー
どうも自らに課す制御、これが大事である。
一方で近代は無制限に制御を外していこうとさえして居る。
近代ということ自体が、人間から諸の枷を外していこうとする試みなのだ。
其の試みは規定ということ自体、即ち其処で規定するー自らを律するーことが本質に属する行為であると云うように考えるのであれば其れ自体が自殺行為なのである。
謂わば、自分で自分の首を絞めて滅していくという行為そのものだ。
自ら進んで本質的な価値を壊して居る、其れでもって苦しくなるから本質を問わない人間になろうとするか或いは本質そのものを分からなくする、そして其処で浮動的な価値、非本質的な価値観にあくまで寄りかかり現在化する方向へと価値を逆転させる。
すると必然的に過去も未来も見えなくなるから、現在というこの瞬間、其のエッチの一瞬、其の買い物依存症の物欲依存症、其のゴルフでのナイスショットでの刹那の快感、または似非宗教での勧誘による快感、テストで百点が取れたことへの快感と万能感、科学技術上の大発明による達成感と万能感、経済上しこたま儲かったことへの達成感と万能感、或いはそうしたバカバカしい世の様を見るにつけ余りにも寂しいので余計に家族愛や国家愛へ走るというこのゾクゾクするような刹那感とスピード感。
ああ、哀しい哉、この刹那感。
楽しくも哀しい、このスピード感。
本質が解体していく世の中では一体何が本質であるのかということさえもが次第に分からなくなって来る。
そういうのを価値観の多様性だと見る向きもあることだろうが、私は其れは詭弁であるとそう考えて居ます。
価値観の多様性とはそういうゴチャゴチャでグタグタの状態のことを云うのではない筈です。
少なくとも精神の上での自立性の無いそうした虚無的な状態からは多様性なんていう高級なものは出て来られる余地が無いのでありましょう。
何にせよ、エゴイズム、これがどうも鍵である。
何に対してのカギであるかと云えば、人間が真に幸福な状態を得られるかどうかのカギなのである。
然し此の世が元々牢獄のようなところなのだとすれば、結局そうした本質化の試みもすべて水泡と帰すものであるのかもしれない。
だったらこのままでいくか。
目覚めないで、脳みそが眠ったままで、アホに徹して、暗くなればエッチばかりして、或いは物欲に走っていやそればかりではなく時折は危険思想にでも首を突っ込んで、至極適当に、そして刹那的に、其処に真の希望なく、其処に真の愛もなく、ただただロボットとアンドロイドとプラスティックに囲まれて、それこそ一級品の思考なき人と我はなる。
近代思想に磨かれピカピカの、実に面妖な、そして色キ○の、哀しい、哀しい、現代自称詩人さん。
常にエゴに覆われ、盗撮もやりかねない、其の自制心なき現代の大衆の一人として雄々しく日々を生きていく。ー尚私は盗撮はしません。-
おお、其れは其れはご立派な。
其処までいけばアンタは本当にもう超人だぜ。
おんみこそが超人バロム1だ、多分。