目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

小国寡民への夢-1


Wikipedia-吉田松陰ー思想
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0#.E6.80.9D.E6.83.B3

之を見る限り吉田 松陰の思想は一見過激なものであったようにも思えますが其れが本当に過激なものであったのかどうかということはもう少し時間が経過してみないと分からないものなのかもしれません。
過激と云えば釈迦が説いた仏教の思想などは究極的に過激なものー悟りに至る為には家族や親族だけではなく国家に至るまで捨て去るという部分がーだった訳ですが、其れがどうしたことか今や仏教はむしろ体制維持、家族の維持、共同体の維持の為の教えということにここ日本ではそうなって来て居ります。
当初はそうしたものの否定乃至はそうしたものからの脱出こそが仏教の目標であり目的であった筈ですが其れが逆転して作用するようになって仕舞って居ります。
そんな風に時間が経過してみなければ事の本質は見えて来ないということが確かにある訳です。


其処でネット上で少し調べてみたところ、尊王攘夷の思想とは云っても松下村塾の「攘夷」思想はかなりに特殊なもののように思われた。

つまるところ其れは「開国的攘夷論」であると書かれて居る人も居られそう云われれば確かにその通りであるように思われて来るのです。


つまるところ吉田 松陰には水戸学の「攘夷論」のような鎖国固執した排外主義は無かったと其の方は述べて居られ、私としては其の部分も確かに同意出来るところです。
ただし開国すべきであることは分かって居るのに攘夷は是非実行しなければならないという部分は明らかに矛盾的な論理となって居り、従って其処では何が何やら訳が分からないといったことにもなりましょうが、然し其処で良く考えてみれば其れは尊王―倒幕―開国」の流れでの開国思想なのですから結局其れは所謂ナショナリズムに基づくものであって他の何ものでもないのでありましょう。
松陰は要するにこの国を「神国日本」として列強に屈 しないだけの国力を持った国家にしたかっただけなのでしょう。


事実後の明治新政府に於いて松下村塾出身者の何人かが政府の中心人物として活躍した為、松陰の思想は後の日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えていったのです。

だから松陰の思想はかの軍国主義に基づく大東亜共栄圏構想にも連なっていって居るのでしょう。

さて私の思想はそういうのとはまた全然違うものです。
確かに私は仏教徒共同体主義者ですのでどうしても左翼的-アナーキー-な考えの方に傾いて仕舞います。


最終的には国家という枠組みは是非否定されるべきだろうとそう考えて居ります。


ただし、日本という土地、郷土の場が消えて無くなって仕舞ったり他国から侵略されたりすることを決して由とはして居ないつもりです。

国家が無くなっても東京や大阪や愛知は絶対に無く なってはいけないのですよ。


だから其の点では私はむしろナショナリストなのです。

ただ、其のナショナリズムの範囲が国家以下のものへと随分小さ くなって居るのです。


ですから国家への忠誠や愛ではなくして、共同体への忠誠や愛で十分であるとそう考えるのです。


そして其の小さいナショナリズムの範囲を世界中にー逆にー拡大していくのです。

すると、所謂小国寡民ーあの老子の思想にある理想的な統治システムのことですーの文明世界となります。

いざそうなれば、地域的個別的に郷土愛や宗教は其処に保存することが出来ます。
そればかりか民族や文化や伝統も其の小さな範囲に踏襲されていきます。
また其の小さな地域での小さな幸福も担保され続けます。


戦が起こっても必然的に規模が小さいものとなる為、戦後の回復が容易となります。


この様に人類の活動は其の規模を小さくしていった方がより纏まり易くより多様でリスクの小さいものとなることだろう。


しかも其処ではもう少し緩やかな発展のみが可能となることでしょう。


近代の猪突猛進型の発展はもう沢山なのでもっとスローにしかももっと小さく進んでいくべきなのです。

小国寡民で、そして鈍で、ウサギかカメかと問われれば其れは明らかにカメの方である。


ー其のカメの価値を知らぬ愚かな人たちよ。

心して聞け、そして目覚めよ。ー


ちなみにウサギはカメを追い越して、其の様やまさに誰が見ても優秀だったのですが本当は馬鹿だったので結局はカメさんに負けて仕舞いました。

…ね。


などという理想論をもう長く私は展開して来て居りますが、一般人でこの思想の真に意味するところを理解した人はまだ一人も出て来て居りません。

ー職場などで屡こうした論議をして参りましたが所詮は机上の空論だと思われて居たようです。其れでこの論を展開したことで尊敬されたことは一度もなくむしろ馬鹿にされ続けて来て居りますね。ー


近代という時代は、其れを一言で評せばまさにバランスを欠いた時代である。

バランスを欠くということは、調節が下手だということなのである。


人間は元来欲望のカタマリなので、所謂自己中に陥るとバランスなど取れよう筈もなく欲望の成就のみを目指し無限に突き進む。

食欲も性欲も征服欲も宗教上の欲も無限に解放していくこととなり易い。


自己中に陥ると、どうしても其の欲望の調節が出来なくなる。

かって宗教は其のことを常に教えて呉れて居た筈だが、かのニーチェが語りし如くに今はもう其れが機能して居ない。


第一京都の寺社などに油を撒いて回って平気で居る感覚の人間が増えて来て居るというのに、其れで一体何の調節なのだろうか。

実は調節も何もなく、現代人にあるのはただただ食欲と性欲と征服欲と宗教上の邪な欲ばかりなのである。


つまりは煩悩まみれのアホ。アホだらけの巨大な群れだけが其処に存して居る。

其の煩悩まみれのアホの群れが調節なんて高級なことは何も出来ないのでむしろカメに、むしろ其のカメさんになることだけを考えていくべきなのだ。



吉田 松陰は確かに開国的攘夷主義者だったことだろう。

其処で開国が必然のことであったのならば、松陰の思想は当時のものとして正しいものであったような気がしてならない。


何故なら其の後も列強による侵略を許さず日本を保存したのは開国による近代化の力によるものにほかならない。

そして其の力はほかでもない、この日本が自ら切り開いたものだった。


と言えばまるで右翼のようなもの言いですが、右や左は関係なく地域性や文化は是非保存されて居なければならないのだ。


松陰の思想とは或はまずこの日本の地域性や文化の保存を目したものではなかったろうか。


ー尚、私の場合はむしろ鎖国政策による幕藩体制を高く評価して来て居る。先に述べた小国寡民の統治システムはこの幕藩体制のよう なものなのだ。其れをむしろ世界中に拡げていこうというのが共同体主義者としての私の考え方の基底にはある。つまり幕藩体制の継続の方がむしろ本当の意味での日本の安定と幸福の継続だったのではなかったかとそう考えても居る。然し現実的には其れが不可能だったので松陰の思想も其の時点に於いては正しいとして見ざるを得ないのである。ー



ただし松陰は北海道の開拓や琉球の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、満洲台湾フィ リピンの領有などを主張して居たそうだからまあ矢張り其処は例の大東亜共栄圏の思想へと直接連なっていく。
尚普通左翼は大東亜共栄圏の構想を認めるべくもない筈なのだが、私の場合は大東亜共栄圏の思想はアジア圏に於ける欧米諸国の侵略を食い止めるという一定の効果、成果はあったろう筈だと最近考えて居るのである。


現在の世界情勢の問題は、即欧米諸国による近代化の問題へと収斂していく。

近代化の問題は人類に突き付けられた最後のそして最大の難問なのである。


世界が近代化すれば、其処での諸の限界は目に見えて居るのだ。

資本主義と科学技術により豊かさを実現するという テーゼは、限界を知ることなく無限に突き進むという、とんでもない自己矛盾性を孕むものであった。


其処では自身が自然からの産物であるという事実を忘れ、母である自然自体を壊し、収奪の限りを尽くして居る。


ー逮捕だ、逮捕。本当は其処で人類みな逮捕なんだ。


そうだよ、お前たちこそは皆犯罪者なのだよ。ー


でも松陰先生は右の人なりに闘って居たのだ。

其の大問題の近代化と格闘した揚句に早死にしたのである。


そんな彼曰く、

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし