さて事の本質を問うということは、非常に難しいことで、其れは我々に与えられた此の一種低級な精神にとっては生半可なことではないことなのでしょう。
そう我々の精神は実際とても低級で、第一私などにしても毎日がまるで其の低級な欲望のオンパレードを見ているだけのようなことで、其処では物欲だの愛欲だの自己保存欲だのにまみれ、まみれ続けて、何だか分からないがドドメ色の或は半腐乱の、いや十分に腐った間違いなく腐った腐敗臭を放ちながら生存を保って居るばかりのことなのでありましょう。
世間の人々は、其の中でも少しは感度の良い人々は、そういう牢獄のような現在に嫌気がさしてたとえば仕事に走ったり宗教に走ったり酒色にふけったりギャンブル依存になったりでこれまたロクなものでもない訳ですが、まあそれでも何とか前へ進もうとしていることだけは尊敬に値する其の本能力の豊かさなのではあります。
対して本能力の弱い私はもうそうした諸の事には興味が無くて、其れでまたぞろ仏教の事など考え心の安定をはかろうかと思うのですが、実は其れもこのところ少々面倒くさくなって来て居り、だからその辺のことも結局は物欲で紛らわせていくということなどを屡やって居ります。
或は食欲を充たすことで適当に紛らわせて居たりするものです。
このように低級な欲望の累積の結果此の現実が実は形造られて居るということが確かにあります。
其れは自己矛盾性の発現ということで、現在とは其の矛盾性そのものであるということにほかならない。
純粋な観念性の突き詰めは其処では成し得ないということである。
畢竟人生は観念化出来ないし生命も観念化出来ないということなのです。
だから現実上の出来事は負の方向性を持ちやがてすべてがそちらの方面へなだれ込んでいきます。
其れは文明に限らず、文明以前での生命の流れも結局そちらの方面へなだれ込んでいって居たのである。
つまり生は必然的に負債でありマイナスそのもののものなのであります。
なのに一体誰が此の世をさも良いところであるかのように喧伝して仕舞って居るのでしょうか。
低級という言葉を使ったので、其れに対する高級ということも考えてみましょうか。
高級ということは、本能領域ー煩悩領域ーを離れて自立性を獲得して居る観念的な領域のことだと定義出来ます。
つまり此の世ではどんなに高級に見える物でも本当は高級なものでもなんでもないものです。
謂わば釈迦級の悟り、キリスト級の贖罪の意識以外には何も高級なものなど此の世には存在して居ないということなのです。
大金持ちは大豪邸に住んで居るので高級そうには一応見えますが実は低級です。
学者は沢山勉強をして偉そうに見えますがこちらも実は低級です。
私は実際真面目そうで、たとえば物欲といっても銘木ボールペンとか21世紀の資本とかいう高い本だとか、つまりは文房具の方で紛らわせて居るだけで余程罪は少ない筈ですがそれでも結局低級です。
其の自立性に貫かれたものは必然的に此の世からは消えていって仕舞います。
逆に言えば此の世こそがそうした非自立性ー不純性ーの顕現の場であるということなのです。
不純というのは、元々純粋ではないものだから顕在化出来ー現在化出来ー其処に時間が流れるものとなるということです。
対して純粋なものー純粋な存在ーは観念領域に止まりそれこそ悟りやら天国やら、つまりは神やら仏やら、そうしたものへと必然として昇華していって仕舞うということです。
それで、何で此の世の中がちっとも良くなっていかないんでしょうね、ということを考えてみましょう。
所謂繋がった皆がこんなに日々努力を重ねて居るのに何で良くなっていかないのでしょうか。
特に此の地球の方はドンドンまずい状態になって来て居ます。
近代以降の三百年で人類は自然を矢鱈にぶち壊して来ました。
其れで銘木ボールペンに使う銘木などもワシントン条約に引っ掛かり輸入出来なくなりつつある。
私の大好きな紅木やら紫檀やら、そうした世にも稀な美しい木がもはや手に入らなくなりつつあるのだ。
だから其れが当たり前のことである、ということを言って居ります。
現実化、現在化する諸価値とは其の様なマイナスの方向性を持つもののことで、其の負債性の顕現こそが現実そのものであるということなのです。
だからこそ此の世で起こり得ることは元々良くはならないものばかりであるということなのです。
物質であり同時に精神でもあり得るとという其の中途半端性こそに生命であること、つまり時間が流れる存在であることの負債が背負わされて居る。
だから生命とは負債であり瑕疵なのである。
結局生命とは牢獄である。
人間とは矛盾の極である。
其の矛盾そのものを生き、やがては滅びることとなるだろう。
其の瑕疵であるところの不完全な場に、理念も理想もー純粋な観念の一切がー構築出来ません。
観念的理想は、厳密には此の世に構築することが出来ない。
そういう意味で、近代が生んだ諸科学は本質的に無価値であり其れは幻想であるに過ぎないのである。
そうした意味で諸科学は人間を本質的に救うものとはなり得ない。
此の世にこうして彷徨い出でて来て、様々に悪さを働き、すなわち地球を壊して、銘木やら鉱物やらを愛でつつも収奪し、狂気と搾取の限りを尽くし、我々人類はああ、楽しいなあ、何でこんなに毎日が楽しいんだ、明日は明るいなあ、俺の息子も優秀だし、娘に至っては大富豪の大豪邸に嫁に入って将来は安泰だ、今日も食いものは旨いわ、俺の女房は美人だわで、おお、まさに此の世の春よ、輝かしい俺の未来よ、此の世のすべてに乾杯!サア、今日も元気だ、まさに快食快便で安眠だー。
馬鹿野郎!
お前のような俗物性の集積が此の世の中を腐らせて来て居るんだよ。
あの倉本 聰氏を見よ。
氏は倫風誌上に二号に亘り様々書かれて居ましたが、其れは矢張り厳しい語り口でもってして書かれたものでした。
本質主義、本質論とは常にそういうものなのだろうと私は思います。
特に今、耳に心地よく聞こえる言葉のほとんどは嘘だと云っても良いことだろう。
本質とは所謂常識とは正反対の部分、立場から発せられるもののことである。
そうした意味では仏陀もキリストも矢張り正しいのである。
真理への道は長く険しいが、其れは確かに本質論であり本質主義だった。