目覚めよ!

文明批判と心の探求と

求めないのに求めてみる

 
 
愛の本質的な意味とは、生の維持にこそ存する。
然しながら其れは同時に自己矛盾性に捉えられて居るものである。

対して多くの宗教は其の自己矛盾性を緩和してエゴイズムの発現を抑えていこうという、其れ自体が其のまさに自己矛盾的な行為なのであろう。

つまりは愛に捉えられ過ぎて仕舞うという、其の愛すれば愛する程にエゴの発現からは逃れられないという構造は人類畢生の宿痾であり現世に仕掛けられたひとつの大きな罠である。
然しながら当然のことながら、其のことが見えて居る人間というものはごく僅かな人々ばかりなのだろう。

普通の人は普通の人のように本能に任せて生き愛を語り生殖を行い子孫を残して、其れで満足して死んで行くのである。
其れでは其の自己矛盾性自体は如何ともし難く、其れで時代が下るにつれー世代を重ねて、愛を重ねてー増長していくエゴにより自分らの首を絞め続けていくのである。

だが本能に囚われ生きる個のレヴェルに於いては死の受容は難しい。
死は、其の自己矛盾性を一時的に麻痺させる機能を有する。
つまり生きて居る状態であるよりも死んで居る状態である方がエゴの発現は認められずより矛盾の少ない状態なのである。

故に死ねば、生きて在る今のワタシの状態よりも諸の矛盾性は減じ聖なる領域からー真理の領域からー近しい状態に置かれるということになる。
然し其れでは問題は何も解決して居ないのである。
自己矛盾性に捉えられしエゴの発現、増長の問題が、である。
此の生の意味とは何か?
だから其れが其の自己矛盾性の解体の為にこそ与えられしものなのである。

エゴの領域、其の自己矛盾性を最大限に増長させ、自己愛、家族愛、組織への愛、国家への愛、そうしたものに強くとらわれ生きることは生の本質的な意味に於ける純粋な履行などではない。
我々は其のように生に囚われ、かつ性に惑わされ、地域や国や、そして自然への愛に惑わされ、知らず知らずのうちに矛盾的要素を加速させていくこととなる。

ではそれらをすべて捨てて、死ねばよろしいのでしょうか?
生きて在ることで色々とここまで叩かれるのであれば、もういっそのこと死んで仕舞った方が悩みが少なくなるので良さそうだ。

ところが残念なことに死んで花実が咲くということもまた無い。
何故なら生きて居ることで解決すべき問題なのがエゴを如何にして抑えていくかという部分だからである。

生きて居るうちにエゴを抑え存在として与えられし矛盾性と共存出来るようにすることこそが人間存在に与えられし最後の課題である。
其のように世界を捉えると世界が明らかに見え、此の世には無い筈の真理の世界が此の胸に飛び込んで来る。
そう勝手に向こうから飛び込んで来るのさ。

其のように距離をとる、問題の両極に寄りかからない、矛盾性自体とも、また矛盾性の無いものとも結合しない、つまりは中道ー中庸じゃないですよーの立場、生からも死からも距離を置いた、性からも無性からも距離を置いた、まさに其の立場により自己矛盾性を解体して行くことが可能なのだ。

いや、流石に仏法は真理を語って居たのだ。
私が考えた存在論と仏法は今まさに其処に融合し不変の光を放つに至った。

其れで、わたくしは此の光を引っ提げて余生を過ごしていくということとなる。
わたくしの精神に於ける闘いはこれでもう終わりである。
わたくしはもうそんなところに至ったのだ。
だからもう語るべきこともなく求めるべきこともない。ー精神的にはー

ただ、現実的には私はか弱い詩人で鋭くはあってもとっても脆いんだ。
脆いから、今私は彼女を求めて居るんだ。

彼女は来年還暦になるそうだが何とか私をケアする立場になって呉れないものかしら。ー勿論私も彼女をケアする立場として努力はするつもりながらー
其れで何とか口説こうと思いこちらは懸命なのだが其の思いが伝わるのかどうか、其れは神のみぞ知るところである。
いや、仏様のみぞ知るところである。

彼女は何と高校の先輩だった。
東京の女子大を出たそうなので私の観念論議を聞くだけに足る知性はある。
般若心経の意味も分かるそうだから知能の方は十分である。

後は体の方での相性と食事の方での趣味だとか、そんなごく現実的な部分になって来つつある。
でも大枠の方での真面目さは似たようなものなので後は初のデートをどこで行うかということを考えるばかりだ。
其れに備え歯槽膿漏や水虫もなるべく早く治さないとね。

其のような訳で、今、自称の詩人は、愛からは距離を置き、なおかつ愛を求めるのである。
愛に含まれるエゴの本質構造を見抜きながらも、かつ其れを捨てたりはしないのである。