目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

観念の傾向性

 
ろくでなし子さん再逮捕、北原みのりさんも 「女性と性」の論客2氏を相次ぎ逮捕 弁護士「不当逮捕だ」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141203-00010003-withnews-soci


個人的に女性は男性よりも自らの肉体性により強くとらわれて居る分、観念的に飛躍(=成仏)する機根に欠けるのではないだろうかと私は思う。

前回に観念なんて本質的には虚の価値だと述べたばかりなのではありますが、其れを逆に捉えれば観念は現象界に於いて本質へと至る唯一の方策であり道程でもある。


観念なくして人間存在の魂の飛躍はない。

本能領域に強くとらわれて生きて居る者に魂の飛躍はない。

たとえ千年生きたにせよ其れは無理なことだ。


其れから上で書かれて居るが如くに『女性器=タブー』とされる社会的な傾向があるのは女性蔑視、女性差別に繋がるとのことであるが、個人的に女性器は矢張りヤバいものであると感じており其れは矢張り布団の中や暗い森の中や或いは場末の風俗店などでひそかにそして淫靡な雰囲気のうちに鑑賞されるべきものであろうと思って居る。

然し其れでは確かにいかにも不平等なので、いっそのこと平等を期して男性器の方ももっと猥褻なものであるとの社会的通念を醸成すべきなのであり、 『男性器=タブー』という風にいっそのこと決めて仕舞えば自然に『女性器=タブー』の方ももっと普通に受け容れられる土壌が出来上がるのではなかろうかと其のように思って居るのである。

つまり、私の場合にはあくまで『性=タブー』ひいては『生=タブー』なのである。

ではお前は生を否定して居るのかと問われれば、其れは決してそうではなく無論のこと生が生では無いものに飛躍する為の唯一の手段ないしは場所であるということを良く分かって居るからこそ私はそんなことを言って居るのである。だから『性=×』ひいては『生=×』なのではない。



ただし、『性=○』ひいては『生=○』なのでもない。

性つまり生はそういうひそやかなものであるべきである。

其れ等は少なくともこれみよがしに陳列するものでもなければ、また其れ等が完全に否定されたとえば性器の無いロボットの方が余程にましだなどと考えるべきものでもない。


あくまで生=欠け、傷、矛盾、必要悪(本当は要らない方が良いがしょうがないから出て来て居るもの)、なのである。

其処を契機として上へ上がる為の悪所としての経験値が生として刻まれるものの正体であり実質なのである。


尚、其のようなことからも、女性器のタブーからの解放ということが即女性の解放となるものでもなく、また生の肯定が即観念の飛躍に繋がるものでもないのである。


其のようなことは結局枝葉末節のことで、謂わば本質を見て居ない戯論の類のものである。


尚、女性の本質は、観念の範囲が狭いところにこそある。

肉体性(本能領域)に縛られて、観念の飛翔力が弱い為なかなか飛躍することが出来ない。


ただし男性の中にも其の飛躍力の弱い人が結構居て、或いは女性の中にも飛躍力の強い人が稀にだが居られる。

だから逆に女性の観念の力に負けて仕舞う男性という構図も其処に考えられない訳ではない。


あくまで一般論としては其のようになって居るという話である。


椎名林檎「いつも死を意識」「子ども5、6人産む」 5年半ぶり新作

http://withnews.jp/article/f0141117000qq000000000000000W0110601qq000011118A#



もうひとつ、こんなものを読んでみてビックリ致しました。

三十代の人はどうも我々五十代、四十代よりもより悩みが深いのかもしれないですねえ。


不可視かつ制御不能なものを遠ざけようとする文明のあり方に対する疑義が此処に示されて居て、しかも彼女は死と本当に向き合いつつ生きて居るという自覚が前々からずっとある訳です。

まあ藝術家なので其れも当然のことなのかもしれませんが、特にー日本の文化っていうのは、常に「明日は知れぬ身」って考えるのが基本じゃないですか。自然なり、色んな過去のもとで生かされている、生かしていただいている。だから、いつでもすぐ横に死がある、という意識を持っているのが通常だと思うんですよね。ーなどと語られて居る部分などは全く凄い洞察力です。

いやはや、どうもおみそれしました、てな感じですかな。


このように女性にも一種カンが鋭いと申しますか、或いは観念の幅が広い人が確かに居られるということです。

個人的に、引用させて頂いた彼女の意見には全く同感です。

日本文化の通底には本来このような無常観があるべきである。

然し現実には其のあるべき無常観が壊れかけて来て居る。


いや、壊れかけて来て居るのではなく、結局其れも隠蔽されて来て居るのかもしれない。

実際近代文明は死を隠蔽するという癖を持って居ますが、特に日本人の場合には其れに加えて日本文化の本質面の隠蔽という文化的な離れ業が時代の流れとしてどうしても必要であったのかもしれない。


其のようにあくまで一般的には隠蔽され続けて来て居る訳です。

然し彼女のように鋭い感性でもって其れを引きずり出して来ることも出来ない訳ではない。


男性とか女性とか、そういうことではなく、どんな感性を持ち、どんな観念の網を張りめぐらすかによって、人間の意識は様々な段階に規定されて来るのではないかと思われます。

ただし一般的には女性は其の観念の持ち方が弱いか或いは狭いということは確かに云えることかと思います。

だから男性と女性は完全に平等つまり同じではなく本質的に違うものです。


確かに人間としては様々な点で平等ですが、精神の傾向性の違いがかなりにあるという点に於いて本質的に異なって居ます。

其の点についても上で彼女は分かり易く言及されて居ますね。