本当の本当はこんな観念上の追求も全ては所謂幻想の泡の中でのこと。
本質的には其処には何らの意味合いも無くまた何かを変えていくだけに足る力もまた無い。
本当の本当は所謂愛、恋愛にしたってそうで其れも全て幻想である。
親兄弟も妻も子も恋人も全ては泡沫の如きもので其処には本質的実体的な意味合いは含まれて居ない。
此の世では真実は相対化されてのみ存在し其れが不変の実体と見做されるようなものとなるだろう可能性は無い。
つまりは皆泡沫のひとしずくで、其処に拘泥してヨカッタだの、悪かっただのと一喜一憂して居る我々はまるでバカそのものの態。
つまりは全部が幻想で、厳密には言葉さえも其処で信じるに足るだけの根拠を持たない。
と云えば不可知論の究極、ニヒリズムの究極、世捨て人の究極の考えのようながら多分はそれが、それのみが此の世の実相、本質を見ない、求めない世の中であることこそが此の世で可能な真の姿。
つまりは価値が無いのである、此の世のすべてに、本質的には其れは無い。
然し、無いからこそ求めが有るのである。
求めることが有るべきものであることこそが必要である。
即ち価値のあるもの、真に在ることだろう実体は此の世には出て来ない。
価値の無いものであるからこそ、此の世にこうしてさ迷い出て来て居て、其処で思想がどうのだの、愛がどうのだのと皆同じ様な馬鹿をやって居るのである。
だからつまりは我々は皆馬鹿だ。
馬鹿だからこそ今こうして生きて居るのである。
此の不実で不穏で不安な今を今を生きるしか能がないのである。
私は自分の馬鹿な観念の追求もそうしてある種達観して仕舞って居るから、本当の本当は其処に余り罪の意識も感じて居らず全部適当に受け流して仕舞って居るのである。
真実在への追求は厳密なものにしていけばしていく程にそんな風に逆にええかげんなものになっていく。
謂わばニヒリズムの果ての仙人化、まるで寒山拾得の如き無垢な心、かって宮澤 賢治が理想化した野の師父の生き様のように。
されど現実には言葉に捉えられ支えられまた或いは人間に捉えられ支えられまたは自然に捉えられ支えられ其れ等に拘って居るのがわたくしの表面上での姿。
本当はもはや拘っては居ないのだが拘って居るふりをしつつ生きて居るのが私の素顔の部分なのだろう。
そうしないと時間が止まって即あの世にでも行っちまいますよ。
時間を進めて、想念を巡らし、それにエッチなこともたまには考えてみる、そういう下らない遊戯のようなものをして居る、ま、虚しいと言えば其れも虚しいが下らないことを下らないままに行うこと自体が此の現実の世界に与えられた意味ということなのです。
尤も最近はたとえば不穏な世相のことなど他のことも考えないではないが、先に述べた如くに観念には本質的な意味での真理への遡及性に欠ける部分がある。
つまりは結局、考えても考えても何も分からない、其れでもって本当の世界の方へは行けないということなのである。
考えに考えて、其れでも真理の世界の方へ渡ることは出来ない。
何故なら考えること自体が、此の世でのみ役立つように出来て居るから。
どんな高級な考えを持ったにせよ、所詮其れは泡沫の如き世界を泡沫の一片として渡る為の手段でしかないのである。
たとえばノーベル賞級の学者の頭の中も東大を主席で出る人の頭の中でも皆そんなことだ。
いや、真理、真実在、そのようなもの自体が此の世では不要なものばかりである。
此の世はそうしたものとは縁が無いか薄いものばかりが暮らす場処のことである。
だからこそこうして今此処に居られるのではないでせうか。
そうした自己の本質的な矛盾性、ないしは無知、無明性に我々は何故気付けないのであろうか。
勿論私も分かって居ないのだが、分からないだけに確かに自分が馬鹿だと自覚して居る存在であるのやもしれぬ。
現代人はそうした気付き、一種の精神的な意味での気付きの面に対してひどく不感症になって居る。
自分は頭が良いと思い込み、人間は何でも出来ると特に自然科学者などはそのように思い込んで居る人が多いように見受けられる。
でも所詮はどんなに考えたって結局バカなのだぜ。
あくまで本質的には其のようにしかならないという話を今回はしてみたまでのことである。
でも其の話も事実でも無く真実でもなく価値のある他の何ものでもないのである。
考えの価値、観念の価値は本質的には虚である。
ただし現象界に於いては其れは実である。
本質的にはむしろ価値は無いが現実を進める推進力としては価値として認められるということである。
ただし其処に拘泥すること自体には元々価値は無いことである。
何故なら其れは虚としての実際の推進力であるに過ぎないのであるからして。
尚こうした考え方はかなりに東洋思想的なものではないのだろうか。
此れは勿論私自身の考えなのですが、おそらくは仏教や老子の思考法に親しんで来た私だけにそうした思想の影響を多分に受けて居ることだろうと思われるからなのである。
そして重要なことは、今世界が近代ナショナリズムという全体主義に席巻されることにより価値観の単一化、思考の多様性の崩壊という現象が引き起こされて居るのではないかと目される部分なのである。
つまり自分で自分のことを馬鹿だとは絶対に考えない、全部自分で考えられるーと思い込んで居るー完璧に利口なモンスター近代人ばかりが増えて仕舞い、いつも自分は頭が良くて価値がある、それに自由だ、平等だ、世界はいつも俺の為にある、などと考えて居る思考倒錯者が増えて来て仕舞い、其れでもって社会はそうしたモンスター共を皆一様におだて上げ満足させ飼育していかなければならない羽目に陥って仕舞って居る。
いや、確かに私も自分のことを頭が良いと何度も言いふらしたことがある。
然し其れは、本当は自分が馬鹿だということを人に示す為にそうあえて言いふらしたのである。
第一、本当に頭の良い人が自分は頭が良いなどと言う筈はないのである。
だから本当の本当は、私は自分のことが本当にバカだと思って居るのである。
或いは私個人のことではなく、此の世での考え自体、観念ということ自体が本当の本当は無価値で役には立たないことだろうと思って居るのである。
あくまで本質的にはそうしたこととなるということだ。
本質的には其処には何らの意味合いも無くまた何かを変えていくだけに足る力もまた無い。
本当の本当は所謂愛、恋愛にしたってそうで其れも全て幻想である。
親兄弟も妻も子も恋人も全ては泡沫の如きもので其処には本質的実体的な意味合いは含まれて居ない。
此の世では真実は相対化されてのみ存在し其れが不変の実体と見做されるようなものとなるだろう可能性は無い。
つまりは皆泡沫のひとしずくで、其処に拘泥してヨカッタだの、悪かっただのと一喜一憂して居る我々はまるでバカそのものの態。
つまりは全部が幻想で、厳密には言葉さえも其処で信じるに足るだけの根拠を持たない。
と云えば不可知論の究極、ニヒリズムの究極、世捨て人の究極の考えのようながら多分はそれが、それのみが此の世の実相、本質を見ない、求めない世の中であることこそが此の世で可能な真の姿。
つまりは価値が無いのである、此の世のすべてに、本質的には其れは無い。
然し、無いからこそ求めが有るのである。
求めることが有るべきものであることこそが必要である。
即ち価値のあるもの、真に在ることだろう実体は此の世には出て来ない。
価値の無いものであるからこそ、此の世にこうしてさ迷い出て来て居て、其処で思想がどうのだの、愛がどうのだのと皆同じ様な馬鹿をやって居るのである。
だからつまりは我々は皆馬鹿だ。
馬鹿だからこそ今こうして生きて居るのである。
此の不実で不穏で不安な今を今を生きるしか能がないのである。
私は自分の馬鹿な観念の追求もそうしてある種達観して仕舞って居るから、本当の本当は其処に余り罪の意識も感じて居らず全部適当に受け流して仕舞って居るのである。
真実在への追求は厳密なものにしていけばしていく程にそんな風に逆にええかげんなものになっていく。
謂わばニヒリズムの果ての仙人化、まるで寒山拾得の如き無垢な心、かって宮澤 賢治が理想化した野の師父の生き様のように。
されど現実には言葉に捉えられ支えられまた或いは人間に捉えられ支えられまたは自然に捉えられ支えられ其れ等に拘って居るのがわたくしの表面上での姿。
本当はもはや拘っては居ないのだが拘って居るふりをしつつ生きて居るのが私の素顔の部分なのだろう。
そうしないと時間が止まって即あの世にでも行っちまいますよ。
時間を進めて、想念を巡らし、それにエッチなこともたまには考えてみる、そういう下らない遊戯のようなものをして居る、ま、虚しいと言えば其れも虚しいが下らないことを下らないままに行うこと自体が此の現実の世界に与えられた意味ということなのです。
尤も最近はたとえば不穏な世相のことなど他のことも考えないではないが、先に述べた如くに観念には本質的な意味での真理への遡及性に欠ける部分がある。
つまりは結局、考えても考えても何も分からない、其れでもって本当の世界の方へは行けないということなのである。
考えに考えて、其れでも真理の世界の方へ渡ることは出来ない。
何故なら考えること自体が、此の世でのみ役立つように出来て居るから。
どんな高級な考えを持ったにせよ、所詮其れは泡沫の如き世界を泡沫の一片として渡る為の手段でしかないのである。
たとえばノーベル賞級の学者の頭の中も東大を主席で出る人の頭の中でも皆そんなことだ。
いや、真理、真実在、そのようなもの自体が此の世では不要なものばかりである。
此の世はそうしたものとは縁が無いか薄いものばかりが暮らす場処のことである。
だからこそこうして今此処に居られるのではないでせうか。
そうした自己の本質的な矛盾性、ないしは無知、無明性に我々は何故気付けないのであろうか。
勿論私も分かって居ないのだが、分からないだけに確かに自分が馬鹿だと自覚して居る存在であるのやもしれぬ。
現代人はそうした気付き、一種の精神的な意味での気付きの面に対してひどく不感症になって居る。
自分は頭が良いと思い込み、人間は何でも出来ると特に自然科学者などはそのように思い込んで居る人が多いように見受けられる。
でも所詮はどんなに考えたって結局バカなのだぜ。
あくまで本質的には其のようにしかならないという話を今回はしてみたまでのことである。
でも其の話も事実でも無く真実でもなく価値のある他の何ものでもないのである。
考えの価値、観念の価値は本質的には虚である。
ただし現象界に於いては其れは実である。
本質的にはむしろ価値は無いが現実を進める推進力としては価値として認められるということである。
ただし其処に拘泥すること自体には元々価値は無いことである。
何故なら其れは虚としての実際の推進力であるに過ぎないのであるからして。
尚こうした考え方はかなりに東洋思想的なものではないのだろうか。
此れは勿論私自身の考えなのですが、おそらくは仏教や老子の思考法に親しんで来た私だけにそうした思想の影響を多分に受けて居ることだろうと思われるからなのである。
そして重要なことは、今世界が近代ナショナリズムという全体主義に席巻されることにより価値観の単一化、思考の多様性の崩壊という現象が引き起こされて居るのではないかと目される部分なのである。
つまり自分で自分のことを馬鹿だとは絶対に考えない、全部自分で考えられるーと思い込んで居るー完璧に利口なモンスター近代人ばかりが増えて仕舞い、いつも自分は頭が良くて価値がある、それに自由だ、平等だ、世界はいつも俺の為にある、などと考えて居る思考倒錯者が増えて来て仕舞い、其れでもって社会はそうしたモンスター共を皆一様におだて上げ満足させ飼育していかなければならない羽目に陥って仕舞って居る。
いや、確かに私も自分のことを頭が良いと何度も言いふらしたことがある。
然し其れは、本当は自分が馬鹿だということを人に示す為にそうあえて言いふらしたのである。
第一、本当に頭の良い人が自分は頭が良いなどと言う筈はないのである。
だから本当の本当は、私は自分のことが本当にバカだと思って居るのである。
或いは私個人のことではなく、此の世での考え自体、観念ということ自体が本当の本当は無価値で役には立たないことだろうと思って居るのである。
あくまで本質的にはそうしたこととなるということだ。