目覚めよ!

文明批判と心の探求と

詩聖タゴールの詩-1

 
 
タゴールは私が青年期に愛読して居た詩人の一人である。

他に特に好きだったのはリルケの詩だったが、それでも今思い返せば一時期はタゴールばかり読んで居たこともあったのだった。



タゴールは詩聖とされている、かってアジア人初でのノーベル文学賞をとった古の大詩人である。


ちなみに私が書く詩とひとつ共通して居るところは宗教的な概念がその詩のなかに盛り込まれて居ることである。


つまりは私も根が宗教詩人なのだからこそタゴールの詩の世界観はむしろごく自然に理解することが出来る。


だからそのあたりの思いを元に今回タゴールのことを書き連ねてみようと思った次第である。






詩集 ギタンジャリ(GITANJALI)
ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)
訳:高良とみ 
http://linden.main.jp/tagore/gitanjali.html





わたしの歌は 飾りを捨てて しまいました。
衣装や 飾りについた誇りは もうありません。
飾りものは わたし達が 一つになることを 妨げます。
それは あなたとわたしの間に 入って
その響は あなたの囁きを 消してしまいます。

あなたのみ前に わたしの詩人(うたびと)の虚栄(ほこり)は はじらって消え去ります。
おお 大いなる詩人よ あなたの足もとに わたしはすわります。
あなたが歌を吹き給う 葦の笛のように ただわたしの一生を
素朴な まっすぐなものに させて下さい。




王子さまのような衣装や
宝石のくさりを 首につけた子供は
遊びの喜びを すっかりなくしてしまいます。
一あしごとに その衣装が 邪魔をしますから。

それがすり切れてしまったり
塵に まみれることを恐れて
子供は 世の中から 離れて
動くことさえ こわがるでしょう。

母よ 飾りの束縛は 無益です。
子供を 健やかな大地の塵から しめだして
みんなのくらしの中の すばらしいお祭りに 行くたのしみを
うばい去ってしまうのですから。




愚か者よ 自分の肩の上に
自分を 運ぼうとするのか!
乞食よ 自分の戸口へ
物乞いに来るのか!
何でも 背負い切れる人の肩に
お前の重荷を すっかりゆだねて
後悔して 振り返ったり なさるな。

お前の慾が 息をかけると
ランプの灯は 消えてしまいます。
それはけがれているのです――
不浄な手で 贈りものを 受け取ってはなりません
聖(きよ)い愛から 献げられたものだけを おうけなさい。


ー上記より抜粋して引用ー




7より



あなたのみ前に わたしの詩人 (うたびと)の虚栄(ほこり)ははじらって消え去ります。
おお 大いなる詩人よ あなたの足もとに わたしはすわります。



まずタゴールは例の谷川 俊太郎氏が鳥羽の連作で提示されていた大きな詩の上での問題にも当時すでに直面していたのだと考えることが出来る。それは詩人の虚栄は元来存在していないということなのだ。タゴールの言うあなたーおんみーというものは、神であり自然でもある人智を超えたもののことを云う。


そうしたものこそが本当の意味での大いなる詩人なのであり、うたびととしての自らはその前に座るべきものであるに過ぎないのである。謂わば言語の象徴性を超える言語以前の完成の世界、完璧な美の世界というものが自然界ないしは神の領域にはあり、言葉のシャーマンとして詩人はその前にただ座してその御技を観覧しているほかはないのである。



8より



ここには、


母よ 飾りの束縛は 無益です。


とある。


王子さまのような衣装や宝石のくさりを子供に呉れてやったとしても、それで本質的に子供が楽しくなるー幸せになるーということではないんだ。自分の子供だけは金持ちにしてやりたいだとか、或は頭を良くして現代社会に貢献できる人間に仕立て上げてやりたいとかそうすぐに普通の親は考えがちなのだが人間をそういう方向性に規定して仕舞う事自体が実は愚かなことであるのかもしれない。

ちなみに我には子が居ないがもし男の子が居たら矢張り是非僧侶になって貰いたい。有難い法を頂く立派なお坊様となってこの濁世を少しでも浄化する方向へと教化していって頂きたいものだ。もっとも我が国の仏教の将来は暗いそうである。現在我が国の三割位の寺が荒廃していて、其処には住職も居らず寺が荒れ放題になって居るのだそうだ。そうなって居る理由のひとつに現代人の宗教離れということがあり、さらに宗教にはなるべく金を使いたくないという我々庶民の切実な金勘定の方の事情もある。兎に角日本の仏教の未来は暗い。が、息子がもし居たらそれでも是非仏教の世界に縁して貰いたい。いや子供が男でも女でも兎に角修行者にしていくべきであろう。




9より



お前の慾が 息をかけると
ランプの灯は 消えてしまいます。
それはけがれているのです――
不浄な手で 贈りものを 受け取ってはなりません
聖(きよ)い愛から 献げられたものだけを おうけなさい。




何と、人間のー汚れたー欲が息をかけるとランプの灯ー真実のーが消えて仕舞うのだという。


汚れた手ー心ーでこの世の様々なものを受け取るなとも宣う。


さて、この汚れ、ということが現代の社会にとっては最も重要な意味を持つ概念なのである。



何故ならこの言葉こそは、現在現代社会にとっての死語となっている概念だからなのだ。


この汚れ、穢れということは宗教や祭祀などの世界に於いて屡言い表されて居ることばである。


然し、現代に於いてはほとんど意味不明の言葉であるに過ぎない。



勿論何となくならば現代人にも意味が分からないでもない。


然しそれでもどうも分からない。


一体何が汚れているのかということがそも分からない。



つまり現代人は自らの心の汚れに対して全く無頓着なのであり同時に汚れという概念についても全くの不感症なのである。


だから私はその様こそがおそらくは現代人の心の病であろうとそう考えて来て居るのである。


然しながら矢張りというべきか、詩聖タゴールはその点についてもはっきりと言及して居たのであった。