目覚めよ!

文明批判と心の探求と

精神なき現代の価値観について


現代という時代の価値観は一言で云うと人間存在の持って居るもともとの精神性のようなものを解体していき、物質的な領域ー即物的な力ーやシンボル化された領域ー言語による規格化された象徴性による力ーにのみ価値観を置いて推進されたところでの非精神的な領域での世界観のことを云う。
 
要するに精神が其処に存在して居ない時代のことを云うのである。

純粋な意味では其れは存在して居ないのだ。

だから現代人にとっては其処でもはや精神的な領域のことなどそも何も分かって居ない、まるで分からなくなって仕舞って居るのだ。

しかも其の人間の白痴化の過程で一番怖い事は自分自身の其の精神の解体につきほとんど何も気付いて居ないということこそにある。

たとえば今現代人は誰もが物質的な豊かさを追い求めつつ日々を送って来て居る。

我我の日々の生活は物質的な豊かさを追い求めるということの為の日々の連なりとなって居る。
誰が好き好んで物質的な豊かさなど要らないとそう宣うことだろうか。

勿論誰もが豊かになりたいのでこの今という時を生きて居る。

然し物質的、即物的な豊かさというものは本来ならば人間にとって部分的な、或は限定的なものであるに過ぎない。

対する全体的、非限定的なものに精神的な領域というものがありコレが本来ならば人間存在の行動を規定するべきものであろう筈だ。

ところが近代以降の人間存在は其の物質的、即物的な豊かさというつまりは唯物論の世界にどっぷりと浸り其の本来の大事な領域のことをスッカリ忘れて仕舞った。
つまり、物質的な豊かさを追い求めるということにかまけて一番大事な精神の領域のことを忘れるか失うかして来て仕舞って居るのである。

其の結果、当然ながら精神の方は次第次第に貧困という状態に陥っていく。

そう物質的な豊かさを求め過ぎるとむしろ精神は貧困になっていく。

こうした当たり前の原理ないしは真理のようなものを、何故現代人は認識出来なくなって来て居るのだろうか。

ただし其れは大きく求め過ぎるとそのようになるということであるに過ぎない。

自分なりの節度を保った求め方はこの苦の多い人生を誤魔化して生きていくことの為には是非必要である。

それもあえて仏教徒的に言うならば、たとえば女や酒やクスリに溺れるのではなくちょっとしたモノやスポーツの方に熱心であることの方がずっと安全安心でよろしい。

然したとえば投資で大きく儲けようとしたり他人を出し抜いて大きく偉くなろうとしたり女房に飽き足らず妾を囲ってなんてのは其処でそも精神の持ち方の根の方が悪いので真理方向からすればそうした行動は愚かなことということになる。
人間が真に幸せになるということは、むしろ物質的な或いは精神的な欲望に於ける自己規制を如何にして上手にかけていくかという部分にこそ存して居るのである。

つまり其の自己規制をとっぱらうか或は失うかして仕舞った先には本当の幸せというものは存在し得ないものなのである。

人間が本当の意味で幸せになるということはそうした自己規制の堅固なやつをむしろ自ら進んで己に課していくということであるにほかならない。

逆に規制を無くせば豊かになれるかといえば其れはなれない。

そうかといって規制ばかりかけているような人生にも意味はない訳で、だからやっぱり仏法が諭すように両極から離れた真ん中の道を歩んでいくことを選ぶのが人間の生き方としてはより望ましい筈だ。
 

ー以下は以前に少しだけ書いてみたもの。ー
 
畢竟ー物ーとは人間の精神にとって謂わば内部存在のようなものである。
だからこそ物の領域ー自己にとっての所有物の拡張、所有物への知識の拡張、 非所有物への知識の拡張ーに深く与して生きることにはほとんど何の意味も無い。
そのようなことでは人間の精神は磨かれることも無ければ、また精神の領域が其処に拡がるということも無い。

精神が外部へ向かって成長していくことの為には、むしろ物質的、即物的な豊かさということを減じていくことのみにより其れが達成され得るのだ。
逆に精神が物質界に囚われて、或いはこの現象世界のみに囚われて、つまりは現在性、瞬間性、現実というこの一点にのみ囚われ続けて仕舞うと、精神は限りなく貧しくなっていく。
 
其の貧しいということは、明らかなものの見方を阻害する。
明らかなことがそれ即ち清らかなことなのであるから、貧しいということは其れ即ち穢れて居るということにも等しい。
 
そのように現代人の一般的認識は汚れて来て居る。
求めることが多過ぎるのでそのように汚れて来て仕舞うのである。

だからむしろ求めないことを考えていく方が良い。
まず物質的な領域に於いて。
次いで精神の領域に於いても。

もっとも精神の領域に於いて求めないということは、実はそれは可成に難しいことだ。
誰しも家族愛だの自己愛だの、そうした最終的には自己矛盾性に陥っていくだろう領域をむしろ積極的に掲げ持つことでこの現実世界を生き抜いて居る。

其れ等エゴの領域とは無関係では生きられないのが人間存在であるということなのである。
然しその自己矛盾性は、現代社会に於いてより拡大していく方向にある。

自己矛盾性を縮小していくのがひとつの良い方向性だと思われるにも関わらず、その真逆を行くのが我々現代人の精神の愚そのものなのである。
それで求めれば求める程にかえって渇望がひどくなり、次にはより高級なものやより珍しいものを求めたがることともなる。

然し私が言っているのは、そのことを止めよと言って居るのではない。
そうした節操のない欲望の解放の流れを変えた方が良くはないだろうかとそう述べて居るだけのことであるに過ぎない。
それは事実私自身がそうした道を歩んで来たからなのである。
私はかって私自身の精神の貧しさについて余りにも無知であった。
不覚にも、自身の精神の貧しさについて全く気付けないところに住して仕舞って居たのだ。

然しながらそれは私個人としての病気ではなく現代人としての病にほかならぬものでもあった。
そして其の流れを逆向きにすることで私は現代という時代を外側から見つめる眼を得た。
そのことによりその求めることへの執着の思いを逆方向へ向かわせるのである。
俯瞰視することで自己の欲望を客観化して捉える、つまり主観の対象概念として欲望を客体化するのである。

思うに人間存在とは精神性ー観念力ーと物質的な側面の融合体でありもとより純粋などちらのあり方にも与し得ないものなのである。
だから元々物質的な側面にばかり目を向けて居る必要はなくまた神様仏様のように純粋な精神性の顕現でもあり得ないものの筈である。