目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

目覚めよ!-6

 
 
さて時折宗教に頼る生き方なんぞしなくて良いのではないかという意見を耳にしたりする。

だが、そうした人は死を前にして一体何を心の支えとして生きていくのだろうか。


はっきり言ってそこは藝術なんぞは何の役にも立たないのである。

藝術は人間の苦悩や病気の苦しみを多少減じて呉れることはあるかもしれないのだが、もっと根本的で実体的な喪失感ーつまり死への恐怖などから救って呉れる訳ではないのである。


たしかに藝術は死をモチーフとすることもあるのだが、あくまでそれを客観視して表されるものなのであろうからたとえば死の恐怖への実体性に対して大きな力を持つものではないのである。


またそこは哲学などでももしかするとそうしたことになるのかもしれない。


哲学というのは元々観念性が強い考えなので、それが頭の中の論議だけで終わって仕舞っている部分が無いとも言えないのである。

すなわち本を読んで分かったようになって仕舞うものだが、実際に自分が死ぬ段になればおそらく哲学上の死の定義、概念などは全部ふっとんで仕舞うものなのかもしれない。


実際私の周りで宗教など要らないと言って居る人は、

1.人間にとっての本質的な苦に思い及ぶことがない人
2.人間にとっての本質的な苦がまだまだ自分からは遠いと思っている人

のどちらかのように見受けられる。

ところが2.の人は若者ばかりかというとそうではなく、すでに65歳ほどになっているのに1.も2.もやって仕舞って居る人がたしかに居られるのである。


私が知って居る人でそういう考えの人がひとり居るのだが、この人、一言で言うと極端な現実主義者である。

細々といつも動き回っているのが得意な人で、常に目先のことに気を取られている。
どうも物事を深く考えるようなタイプではない。


ただ私はそうした傾向をバカにしているのではなくて、逆に私自身がもしそういう人であればこんなにあれこれと思い悩まなくても良いので随分楽な人生だろうななどとほんとうにそう思う。

実際不眠症になる程に神経が細かいと大抵は自らの頭で考えることの出来る人なので夜布団の中でもあれこれと思い悩んで仕舞いそれが兎に角ツライのである。


しかしである。

しかし死を少しも考えようとしない人は一体どうやって己を死んでいくのであろうか。

宗教の意義も分からないような人がほんとうにそこで大人しく死んでいけるのであろうか。


究極的には、この世に死という大問題がなければ無論宗教などは要らないのである。

それがただの苦悩位だったらそれこそ藝術に慰められたりスポーツなどで誤魔化すことだって出来ることだろう。

ところが死という本質的な損失、自己崩壊の現象がやがては必ず訪れることが分かっているので基本的に人間存在は皆不安なのである。


現代人は、特に現代の日本人の場合は宗教に対する正しい教育を受けることなく大人になるのだからそこは余計に厄介なのである。

ところであのビートたけしは頭の良い人で、昔はタブーとされていた政治や宗教のことなどを盛り込んだバラエティ番組などを作って其の日本でのおかしな暗黙の了解の部分に一石を投じて来て居るように見受けられる。

ちなみに私はビートたけしのことをそう好きでもないがなかなかの人ではあると認めて居る。



結局宗教に頼るのではないのだが、死という限定されるという大問題を考えて行くときに宗教的な分野の存在がそこではじめて大きな意味を持って来るのである。

そうしたことは毎日ただ流されるようにして目の前のことばかりを片付けていたって決して分かりゃあしない。

もっともそこは宗教のことを踏まえた上でよくよく死という限定の大問題のことを考え続けていたのだとしてもスッパリとそれが分かるものではないにしてもである。



尚、現代、特に戦後の社会は死が隠蔽されつつある世界なのだと言える。

昔は爺さん、婆さんは家で亡くなったりもしたものだったが、今は全部病院の方で死んで仕舞うのである。


ゆえに死の過程のようなものがいまひとつ分かり難いのでいつかは本当に自分が死ぬんだという場面が実感的に思い浮かばないのである。


近代化された社会は常により明るくより長生き出来る社会を目指して進んでいくので其の部分とは逆のベクトルを持つ死の部分はなるべく隠してコソコソと爺さん、婆さんの遺骸を葬儀社に運んでそれで終わり、なのである。

だがより明るく、より長生き出来る社会を目指すと言ったって、それを果たしたところで自分が神になれる訳でもないのだし、また自分が神の子として認められる訳でもないのである。


そしてどうせ誰でもそのうちにおっ死ぬのである。

だがそのことは単なるマイナスのことなのだろうか?


近代社会がそれを兎に角隠したがるということは結局死への方向性ということ自体が社会にとってはマイナスのことであるという前提に基づいているのかもしれない。

けれどひとりの人間として生を全うしてこの世を去っていくのならば逆にそれは大いなるプラスの出来事なのではなかろうか。


だからおっ死んで、万歳である。

目出度くて目出度くて、仕方がない。


どこに葬式などして涙を流す必要があるのか。

もう目出度くて目出度くて仕方がないから皆で宴会である。

どんちゃん騒ぎで酒のガブ飲みである。


ちなみに私は死んでも葬式は出して欲しくない方なのである。

ただ、私は死んだらひとまずは宇宙と一体となるのであるから、是非皆で宴席を設けて頂いて、其処で私が宇宙に戻ったことを祝して下さればそれで良いのである。


その宴席にかかる費用は大体5万円位を考えて居る。

そこに10万円もかけるとすると元々地味な私はほとほとイヤになって仕舞う。

だからその5万円だけをこの世に遺して死ねばよろしい。
 
 
 
 
そこでは無論供える花なども要らんし筆記具なども要らん。葬儀の際に流すクラシック音楽なども勿論不要だ。

死んだら目も耳も手ももはや無い。

だから先祖供養の為に花や果物などそなえることはあれは大きな間違いである。


本なども不要だ。

あれほど親しんだ読書ではあったが、死んだらもう本など読めんわな。


死の問題ということは、生命にとっての最大にして最後の大問題なのである。

古来より様々な哲学者がこの問題について考え抜いて来て居る。



死とは何だろう。

死とは体験すべきもので考えるべきものではないのかもしれないが、それでも人間なら誰しもそれについて考えてみるべきものではある筈だ。


ちなみに私は若い頃から死について考えてみることが多かった。

基本的に重苦しい人間なので目先のことでうまく立ち回ることは出来ず何でも突き詰めて考え抜いていくタイプなのである。


ところで私がなぜ急に死のことをここで書き始めたかというと、先日ある公園に彼岸花が沢山咲いているのを見たからなのである。

八年前に父が亡くなり、その時に納骨で墓へいったのだったが、丁度その折に家の墓の際にその赤い彼岸花が一輪咲いていたのである。
 
 
 
おそらく生きて居るうちに感じ取ることの出来る死は多分に観念的なものであるに過ぎないことだろう。

死の意味と生の意味を問うこと、その観念の構築をどうなし得るかで人間のタイプが分かれて来る。


尚昔ある哲学者が、人間のみが「死を自覚する存在」であることを挙げている。

ここは人間のみが「笑うことの出来る存在」であることと照らし合わせると特に興味深いところである。

だが、最近私は犬や猫が死を全く自覚していない動物であるとは思えなくなって来た。

彼らは直観力のようなものは多分に持って居ることだろうから、それでもって感覚的に死の匂いを嗅ぎ分けてみたりしているのかもしれない。


そこは死を概念化出来るのが人間だけであるということなのであって、 実際の死の領域ではたとえば死がある種の匂いのようなものとなって予感されているものなのかもしれない。


いずれにしても、本来の死はごく自然なものである筈だ。

この世に生を受けたものはいつかは必ず死ぬことがごく自然で正しいことなのである。


だからそれに抵抗する方がむしろおかしいのである。

おかしいというのは、死を観念化し過ぎてそれを隠蔽したり忌避したりしていることの方が余程におかしいのである。


つまり近代以降の文明人における死のあり方はかなりにおかしい。


事実死を悲しいものだとする文化・宗教がある一方で、死を喜ばしいものだとする文化・宗教もまた世界中にある。

そしてそういうのはほとんどが前近代の文明の死生観の特徴として現れ出て来て居るものだ。


要するに、私は死自体をどうのこうのと観念的に弄り回す必要などは無いと今考えて居る。

本来無垢な筈のその死をどう捉えているかということにこそ常に深い関心があるのだ。


そして現代に於ける死は自然な死に導かれるものではなくより純粋な死に方でもないとそう考えるに至った。



だから私は死を考えると言っておきながら死そのもののことをあれこれと考えてみるつもりは無いのである。

そうではなく現代に於ける死とは何であろうかと常にそのことばかりを問い続けて来ているのである。


さて以前にも述べたことがあった筈ながら、釈尊は死の内容について語らずそれを定義づけすることなども示されていないのである。

そこからも仏教は死のための教えではなく生のための教えであるにほかならないことが分かる。


だから謂わば死そのものは誰にも弄り回せないのである。

死とは自然現象であり人間がこの世に生まれてくることと同じくして存在としての全的な変動、転換の痛みを伴いながらも厳かなものである。


ちなみに死は生の一部であるとする考えもまたあるのだがそうした立場に立てばまた死の意味合いも少しは変わって来るのかもしれない。

そこでは謂わばアナタの生き様がアナタの死に様に直結しているのである。


だが死に様なんてものは元々誰にも選択出来ないものなのである。

それにどう死のうが、それはひとつの厳粛な死なのであって、生まれてくること自体が平等であることと同じくして其れは誰にも平等に訪れる筈の現象なのである。


だからその点では人間は皆平等である。

皆平等に死んでいくことが出来るのではあるが、ただ、その死がほんとうに自然な死を迎えていることなのだろうかという疑問が随分以前から私には芽生えていた。


尚、哲学的な思考をなす能力と死について考える能力はほとんどイコールであると定義しても良いことだろう。

たとえばかのプラトーンは哲学を 「melete thanatou (死の練習)」と見なすと、魂の永遠性を信じて平然と死ぬことができるように心の訓練をすることこそが哲学をすることであると述べたそうだ。


が、今の私はこの考えに対してかなりの違和感を持って居る。

哲学的つまり観念的に死を理解しようとすればする程むしろ死の実体からは遠ざかっていくことにもなりかねないと今は思う。


私が自分自身に、そして現代人に与えられるべきものとして求めているのはより自然な形での死なのである。

それは近代社会の要求上から突きつけられる望ましい死のあり方などではなく天から自分自身だけに与えられたより純粋な死のことなのである。


要するに猫や犬に与えられる死と同じ死を与えられた方が人間はもっと純粋に死ねるのではなかろうかと考えて居る。

猫や犬に与えられる死と人間に与えられる死がなぜ異なるかというと、 人間は死を顕在化出来る、つまり観念的、意識的にそれを捉えることが出来るからこそ両者はどうも死に様が違うような気がするのである。


たとえば葬式へ出て、私が一番茶番だと思うのはご遺体に施すあのお化粧のようなものなのである。

もっともその一方では時折道路で野良猫などが車に轢かれてまさにバラバラ、グチャグチャになって死んで居たりするがあれなどはそんな修復のしようがないのだぜ。

まあその様やほんとうに凄惨でまさしくかわいそうだ。


ところが人間の場合は少しでも苦しそうな顔で死んでいるといけないわけなのであり、それをなるべく安らかな、いかにも生を全うしたという微笑みすらたたえたお顔に直さなくてはならない訳である。
 
つまりは遺体に接した人々が皆安心して見て居られるようなものでなくてはならない訳だ。



だがそんな粉飾はするな。

天から与えられたところでの厳粛な人間の死に加工を施すな。


実際こうした加工がこの世にはゴマンとある。

だからそこは死に観念としてのいやらしい加工を施していないとも言い切れないのである。

そんな作られた死を死ぬることは私の場合まっぴら御免で、出来れば其の辺の犬猫と同じようにごく自然に苦痛をあらわした顔でもって死んでいきたいものだ。                                                                 2012/09/27