NHKオンデマンドの方でスーパープレゼンテーションというおそらくは米国の番組を流していて、私は半年位前から屡その番組を視聴しているのである。
そこで強く印象に残ったプレゼンテーションが三つだけあり、その二つまでが女性のものだったのである。
そのうちのひとつが今週に入ってから視たものでその表題が『つながっていても孤独?』というものだった。
それはマサチューセッツ工科大学(MIT)教授のSherry Turkle女史のプレゼンであった。
この方は心理学者で70年代から現代のテクノロジーと人間心理の関係性について研究されて来て居るそうである。
そしてどうやら少し前位までは一貫してデジタル機器の進歩は人間の生活を豊かにするとそう考えられていたそうなのである。
それが現在は一転してデジタル機器が人間に齎す弊害の面を強く主張するようになったのだという。
其処ですなわち、デジタル機器でつながっていても現代人は孤独である、との説を展開されるようになったのである。
尚、私はつい先日万年筆一千夜の方で現代人がいつも繋がっていなければ不安なのはおそらく病気であるという様なことを述べた筈である。
また私は変わり者で元々孤独には強いタチなので携帯にもツイッターにも興味はまるでなくそんなものは人間にとっては非本質的な意味での技術革新から生まれいでているものだとも述べた。
さらに人間は内面を掘り下げていかなければ孤独に強い人間にはなれないということも遠まわしに万年筆のことを引き合いに出しつつそこで述べていたのである。
ところが先のプレゼンでSherry Turkle女史がまさにそのようなことを述べられていたのには少々驚いた。
もっとも私のような強い口調で現代のテクノロジーを批判している訳ではないのだが、現代人は諸々の電子機器で繋がっていても本質的には孤独である点、また一人で居られない人は逆に真の意味での孤独に陥る点等をはっきりと述べられて居たのである。
そうなのだ、一人で居られない人ほど逆に孤立するのである。
ここ東洋では昔からその孤独にならないために仙人や僧侶になる修行をして孤独に慣れ内面を深めそのことで真に人つまり人間性との繋がりを持ったものだった。
自らの内面を掘り下げて見つめ、人間存在に与えられた命や死の意味を問うていかなければ実は人との深い相互理解や共感を得ることは決して出来ないのだ。
だからこそ私は現代の人間存在にとって表面的なテクノロジーによるコミュニケーションに本質的な意味は無いと述べていたのである。
無論私が今ここで書いているような掲示板にもそうした部分が若干入り込んでいないとは言えないことだろう。
だが私の場合はここで手抜きをして書いている訳ではないのである。
真剣に書いて居る。
ただ、作文の方の調子が出ず変なことばかり書いて仕舞い余り面白くはない場合も時折はあることだろう。
それからたまに独善性が過ぎる場合があるのやもしれない。
無農薬有機野菜作り雑感
昨夜のスーパープレゼンでシェリータークルの講演を聞いた
http://blogs.yahoo.co.jp/kodaimai_prince/45118237.html
こちらにはそのSherry Turkle女史のプレゼンの内容が詳しく書かれて居る。
また、ここでのリンク先には字幕付きの英文でそのプレゼン自体も載っているから興味のある方は是非ご覧下さい。
行き過ぎたテクノロジーの進歩はむしろ人間にとっては有害となることが多い。
現代はテクノロジーが人間自体を支配しかっては当たり前に存在していた健全な人間関係のあり方を阻害しかねない時代なのである。
阻害と言えば行き過ぎたグローバル資本主義に於ける資本による労働の疎外、こちらの方もそれ以上に問題なのだがまあそちらの方はまたの機会に論ずることとして、兎に角テクノロジーの進歩には必ず負の側面が大きく存在しているものだということを今ここで私自身が是非プレゼンさせて頂きたい。
尚、それと共に最近私が奇妙に感じたことをひとつだけ述べさせて頂きたい。
先日ボストン美術館の日本美術展へ行ったのだがその時に地下鉄に乗って金山の駅まで行った。
その時に乗り合わせた地下鉄の車両内で何やら異様な違和感を感じたので何だろうと良く見ると椅子に座って乗って居る私以外のほとんどの人がスマホを持っていて熱中しつつそのスマホの画面ばかりを視ていたのである。
のみならず金山の駅では向こうから歩いて来ながらスマホに熱中していて我にぶつかりそうになる若者も居たのであった。
ちょっと待て、兎に角歩く時位はちゃんと前を見て歩きませう。
また車に乗ったらケータイもスマホもカーナビも視て居るのはやめませう。
それが人間存在の行動としての基本中の基本です。
実際テクノロジーの進歩はそんな人間の行動にとっての基本中の基本の部分まで破壊しつつあります。
実際地下鉄の駅でそうした電子機器に熱中していてホームから線路に落ち地下鉄に轢かれて亡くなる人が年間に何人もこの日本には居られるそうです。 2012/12/11
そこで強く印象に残ったプレゼンテーションが三つだけあり、その二つまでが女性のものだったのである。
そのうちのひとつが今週に入ってから視たものでその表題が『つながっていても孤独?』というものだった。
それはマサチューセッツ工科大学(MIT)教授のSherry Turkle女史のプレゼンであった。
この方は心理学者で70年代から現代のテクノロジーと人間心理の関係性について研究されて来て居るそうである。
そしてどうやら少し前位までは一貫してデジタル機器の進歩は人間の生活を豊かにするとそう考えられていたそうなのである。
それが現在は一転してデジタル機器が人間に齎す弊害の面を強く主張するようになったのだという。
其処ですなわち、デジタル機器でつながっていても現代人は孤独である、との説を展開されるようになったのである。
尚、私はつい先日万年筆一千夜の方で現代人がいつも繋がっていなければ不安なのはおそらく病気であるという様なことを述べた筈である。
また私は変わり者で元々孤独には強いタチなので携帯にもツイッターにも興味はまるでなくそんなものは人間にとっては非本質的な意味での技術革新から生まれいでているものだとも述べた。
さらに人間は内面を掘り下げていかなければ孤独に強い人間にはなれないということも遠まわしに万年筆のことを引き合いに出しつつそこで述べていたのである。
ところが先のプレゼンでSherry Turkle女史がまさにそのようなことを述べられていたのには少々驚いた。
もっとも私のような強い口調で現代のテクノロジーを批判している訳ではないのだが、現代人は諸々の電子機器で繋がっていても本質的には孤独である点、また一人で居られない人は逆に真の意味での孤独に陥る点等をはっきりと述べられて居たのである。
そうなのだ、一人で居られない人ほど逆に孤立するのである。
ここ東洋では昔からその孤独にならないために仙人や僧侶になる修行をして孤独に慣れ内面を深めそのことで真に人つまり人間性との繋がりを持ったものだった。
自らの内面を掘り下げて見つめ、人間存在に与えられた命や死の意味を問うていかなければ実は人との深い相互理解や共感を得ることは決して出来ないのだ。
だからこそ私は現代の人間存在にとって表面的なテクノロジーによるコミュニケーションに本質的な意味は無いと述べていたのである。
無論私が今ここで書いているような掲示板にもそうした部分が若干入り込んでいないとは言えないことだろう。
だが私の場合はここで手抜きをして書いている訳ではないのである。
真剣に書いて居る。
ただ、作文の方の調子が出ず変なことばかり書いて仕舞い余り面白くはない場合も時折はあることだろう。
それからたまに独善性が過ぎる場合があるのやもしれない。
無農薬有機野菜作り雑感
昨夜のスーパープレゼンでシェリータークルの講演を聞いた
http://blogs.yahoo.co.jp/kodaimai_prince/45118237.html
こちらにはそのSherry Turkle女史のプレゼンの内容が詳しく書かれて居る。
また、ここでのリンク先には字幕付きの英文でそのプレゼン自体も載っているから興味のある方は是非ご覧下さい。
行き過ぎたテクノロジーの進歩はむしろ人間にとっては有害となることが多い。
現代はテクノロジーが人間自体を支配しかっては当たり前に存在していた健全な人間関係のあり方を阻害しかねない時代なのである。
阻害と言えば行き過ぎたグローバル資本主義に於ける資本による労働の疎外、こちらの方もそれ以上に問題なのだがまあそちらの方はまたの機会に論ずることとして、兎に角テクノロジーの進歩には必ず負の側面が大きく存在しているものだということを今ここで私自身が是非プレゼンさせて頂きたい。
尚、それと共に最近私が奇妙に感じたことをひとつだけ述べさせて頂きたい。
先日ボストン美術館の日本美術展へ行ったのだがその時に地下鉄に乗って金山の駅まで行った。
その時に乗り合わせた地下鉄の車両内で何やら異様な違和感を感じたので何だろうと良く見ると椅子に座って乗って居る私以外のほとんどの人がスマホを持っていて熱中しつつそのスマホの画面ばかりを視ていたのである。
のみならず金山の駅では向こうから歩いて来ながらスマホに熱中していて我にぶつかりそうになる若者も居たのであった。
ちょっと待て、兎に角歩く時位はちゃんと前を見て歩きませう。
また車に乗ったらケータイもスマホもカーナビも視て居るのはやめませう。
それが人間存在の行動としての基本中の基本です。
実際テクノロジーの進歩はそんな人間の行動にとっての基本中の基本の部分まで破壊しつつあります。
実際地下鉄の駅でそうした電子機器に熱中していてホームから線路に落ち地下鉄に轢かれて亡くなる人が年間に何人もこの日本には居られるそうです。 2012/12/11