目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

『汚れた顔の天使』と『惑星ソラリス』

汚れた顔の天使』での菩薩道の實践ー+『惑星ソラリス』に於ける「海」の解釈ー

 

 

 

 

さて自分は「現實」とはニンゲンの「意識世界」のことであるとさう考える。

そも「意識世界」とは「唯脳的」な世界であり其れ即ち所謂「認識論」に於ける世界観のこととなる。

 

大乗佛法などにもまた「唯識 - Wikipedia」なる世界解釈の方法論が有るが其れなどと似て居るのやもしれぬ。

でもって其の「認識世界」が「本能的錯誤」により齎されて居り要するに現存在は「眞實ー實相ーとしての認識をして居ない」との捉え方でありつまりは其れが御釈迦様の認識にほぼ重なるものとなる。

 

またかの哲學者カントは所謂「理性」による認識世界のむしろ不完全性の部分をこそ描き出して居たのだと思われる。

要するにニンゲンの認識世界には神の如き「完全性=全能性」を望むべくも無い。

 

ニンゲンはそも左様なケモノー本能の奴隷ーであるに過ぎぬと云うことがまずは壱つ有る。

ではどう其の認識上のケモノ性を排除し「正しい」認識に至るのかと言えばすでに其れは「哲學」の領域よりも「宗教」の領域での御話とならざるを得ぬ。

 

 

尤も彼カントは「定言命法 - Wikipedia」なる理性的道徳律を生み出した。

即ち理性體としての「現存在」は無条件に其の理性的道徳律にこそ従うのである。

 

むしろ例外無くさう「内なる理性の声」に従い生きる訳だ。

但し無論のことニンゲンの全てが「理性的」であることなどは無い。

 

ニンゲンでもさう「理性が利く」人は元來限られて居り其れは大體壱割以下の人人であるに過ぎぬ。

ではアナタはもしやソコに入ってるのか?

 

うん、何だか知らんがどうも入って居るやうです。

其れも多分百萬人に壱人居るかどうか位の話なのだらうが。

 

でも其のことを何でそんなに威張る?

はい、つい威張り過ぎました、どうもどうも御免なさいまし。

 

じゃあ御前は其の「定言命法」をズバリやれるのか?

やれますがやれません。

 

何だ、其のコタエ方は。

やれさうでやれずやれずなのにやれる、とのことです。

 

何だ、其の「のらりくらり」の様は!

どうもすみません、もしアナタがビンタでもして下されば其れにてシャキッとします。

 

バシッ!!

…痛っ。

 

なる程、理性を整えるにはまずはさう肉體を虐めることこそが大事なのか。

 

 

理性體としての「現存在」が無条件に理性的道徳律に従うのだとしても「本能」が壱杯ではソコに「理性」が入り込む余地など無い。

故に「理性」が入り込む余地を生じさせんが為にむしろ認識を限定する=「社會的自我」をブロックし「個的認識世界」への価値観のシフトを行う。

 

まさに其れが我が「限定論」に於ける「理性的転換」の様を理論化する部分となる。

でもアナタの認識論はむしろ「自閉症」をやれとさう述べる如きものだ。

 

いやだから「自閉症」で居ることの方がむしろ「イケイケドンドンヤルキー自我」=「近代的社會的自我」などよりも平和だし安全だし何ら破壊に至らしめる部分が無い。

 

なる程、するとニンゲンは「自閉症」で居ることの方がよりイイのですか。

何故ならそんな「ヤルキー文明世界」程危険な価値観はありません。

 

そんな「ヤルキー文明世界」は今後どうなりませう。

まあせいぜい持って後弐、参拾年ですので其れに就き考えて居る時間が有ったら「ほんたうに自分がしたいこと」をこそドンドンするべきでせう。

 

じゃあ「起業」だとか「金儲け」だとかそんなものでも良いのか?

まあ其れも本質的には「間違い」ですが兎に角やりたいことを是非やって置くべきでせう。

 

ならば👩に飛び付いたりそんなことでも良いのか?

そんな「酒と👩とギャンブル」に限り出來れば避けて頂きたい。

 

またつまりは「理性的」に生きた道程のみが我我現存在の履歴として此の世に残る。

逆に言えば「ケモノ」ばかりを生きた挙句に「ニンゲン」としての成果がまるで示せずに終わって仕舞う。

 

まさにさう云うのこそが「凡暗」としての「ニンゲン」の生き方となる。

でもソレをアンタも結構やって來て居るぜ。

 

はい、確かにソレもやりましたのですが反面「理性」の方もまたちゃんと磨いて來た。

だから自分の場合半分救われるが後の半分はむしろ救われ難い。

 

さうか、其れも何だか可哀想な人生だな。

御前にさう言われたくは無いわ、御前なんぞも結果可哀想な人生其のものだらう!!

 

でも我我はかうして「運命共同體」なので何処までも壱諸だよ。

うーん、でも何だかソレこそがイヤだな。

 

エッ?今何と仰りましたのですか?

ハッキリ申せば御前の顔を毎日見且つ御前の発言を毎日聞くのがイヤなのだ。

 

…確かにイヤだらうがもう決して離してはあげない。

なる程、するとこんな「腐れ縁」こそが「人生」なのか。

 

さうそんな「腐れ縁」にて永遠に合體することダケがこんな人生の意義なのさ。

「ガシッ。」

 

さう詩人の「理性」が「本能」を求め且つ詩人の「本能」が「理性」を求め続けて行く。

おおまさにそんな様こそがゲージツ家としての詩人の生き方のことだらうよ。

 

 

マトリックス (映画) - Wikipedia

 

さても映画では例えば其の『マトリックス』などはどうですか?

結局『マトリックス』は「面白い」ですが「社會批判」の面ではいま壱つでせう。

 

ドニー・ダーコ - Wikipedia

 

映画『ドニー・ダーコ』あらすじネタバレ結末と感想 | MIHOシネマ (mihocinema.com)

超難解映画『ドニー・ダーコ』タイムトラベルの考察【ネタバレ解説】 | ゾンビ飼育係の日誌 (gimmemackerel.com)

 

またこんな「難解映画」などもまた有るやうですがいまのところ左程視たいとは思わない。

 

 

惑星ソラリス - Wikipedia

ソラリス (映画) - Wikipedia

 

私の場合はタルコフスキー作品の惑星ソラリスこそが常にSF映画での難解な作品なのだとさう思う。

まあ其れは壱種究極的なソヴィエト版SF映画でせう。

 

尚此の映画では何でも複製して仕舞う惑星ソラリスの海が其れこそマトリックス - Wikipediaのやうに描かれる。

マトリックス」とは其のやうに元來「子宮」のことを言う。

 

また翻り現存在の認識世界も其の「子宮」が生み出すもののこととなる。

ですが其の「子宮」其のものが壱種の不具性としての「反理性的性質」を帯びて居る。

 

そんな「反理性的性質」としての認識世界を生きざるを得ぬことこそが生命としての「悲劇性」でありなんともならんところです。

でも「子宮」の無い🚹は「理性體」と化し其れに立ち向かうのか?

 

まあ天才はまさにさうなのだらう。

例えば天才SF作家のレム氏だとかまたクラーク氏などが。

 

またスタートレックで言えばアノ「スポック」氏などが。

確かに「スポック」氏などはまさに「論理的知性體」です。

 

でも半分地球人なので意外と感情的で且つ👩好きですね。

 

では惑星ソラリスの「海」とは生命を生み出す「子宮」の象徴的表現なのですね?

おそらくはさうであらう。

 

まあどちらの作品もDVDを持って居ますので此れ迄に五回位つつ視ても居るのですがね。

そんな「子宮」の本能と「理性」とは元來異なるものである。

 

故にか佛教でもまたクリスト教に於いてもそんな「子宮」の本能の部分を其の侭に受け容れる訳には非ず。

 

ですよね。

前前からギモンだったのですが何故佛教やクリスト教などの壱流の宗教は「本能」をむしろ抑えてかかるのか?

 

むしろ「本能」を抑えてかかるからこそ「理性」と云う瀬が宗教的な次元にて浮かび上がるからでのことだ。

曰く、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」。

 

惑星ソラリスの方はまさにそんな「理性」と「本能」の闘いの様を、と申すよりも「本能」が最終的に「理性」を圧し切り其のソラリスの海ー子宮ーの中に取り込まれて行くことを描く作品であるやうに思われる。

其れも弐拾年位視続けて來てようやくさう思えるやうになって來た。ーDVDの前はヴィデオ作品の方で其れを視聴して居たー

 

惑星ソラリス』はそんな超難解なSF映画作品でありまた古い映画でもあるので今の若い人は知らない可能性があるのであえて述べてみた。

 

 

さて對してソラリス (映画)の方は是非御勧めしたいSF映画となる。

此の映画の方は原作のレムのSF小説とはまるで別物で即ち難解では無い「SF恋愛ドラマ」となる。

 

だが「愛」の意義に就き深く考えさせられる良い映画となる。

尤も其の「愛」とは「性愛」のことであり「神の愛」であるとかさう云う次元のことでは無い。

 

ですがまさにかけがえの無い「性愛」に就き此の映画は語って居る。

そんな大變心に沁みる映画となる、SF映画としては珍しくも。

 

さて現在詩人はさう映画を視聴しつつたまに「タイガーマスク」などのアニメ作品を視たりする毎日を過ごして居る。

タイガーマスク」は「死ぬ迄に是非もう壱度視たい」アニメ作品なのでさう視て居るのである。

 

ところが「死ぬ迄に是非もう壱度視たい」映画作品もまたあり其れは小中学生~参拾代の頃に映画館やTVなどで見て忘れられない作品のこととなる。

 

 

汚れた顔の天使 - Wikipedia

【 #死ぬまでに観たい映画1001本 】『汚れた顔の天使』善人と悪人を繋ぐ絆チェ・ブンブンのティーマ (france-chebunbun.com)

 

例えば現在はこちらを視て居る。ープライム會員でも有料視聴となるーAmazon.co.jp: 汚れた顔の天使 (字幕版)を観る | Prime Video

昨日壱度視たが明日まで視ることが可能だ。

 

其の汚れた顔の天使をTVにて視たのが兎に角若い頃となる。

だから30~40年前に視たものとなる。

 

だが此の映画こそが此れ迄に視た全ての映画の中で最も感動した作品なのだ。

 

此の映画は、

 

1.クリスト教に於ける「良心」を示すもの

2.「普遍の愛」とは何かを問うもの

3.宗教的な理性の勝利を謳うもの

 

なのだと評することが出來やう。

 

故に此の映画を視ればクリスト教が正教であることをすんなりと受け容れることが可能となる。

また「宗教的な理性」に限らず例えば「道義心」であったり「徳義」であったりさうしたものと直接結び付くだらう「精神性」を保つ映像作品となる。

 

だから別にクリスト教には限らず佛教徒が視ても涙が自然と溢れ出やう。

でも重要な役回りとして主人公「ロッキー」と云うギャングの幼馴染みとしての神父様が登場する。

 

ジェームズ・キャグニー - Wikipedia

ギャングの「ロッキー」を演じるのは往年のギャング映画の大スターだったジェームズ・キャグニー氏となる。

 

其の「ロッキー」と「ジェリー」ー後の神父様ーがまずは🚞の貨物より「萬年筆」を盗む。ー其の萬年筆はかの萬年筆黄金期(1930年代物)での米國製の壱流品であらう。むしろワシが其れを盗みたい位だわな。ー

 

さうして其の盗みが発覚し「ロッキー」は逮捕されやがて感化院へと送られ其の後ギャングとなる道を歩むこととなる。

對して彼の親友は逃げおおせ後に聖職者への道を歩むこととなる。

 

でもって孤児のやうな少年達がやがてそんな羽振りの良い「ロッキー」をヒーローと見做し次第に惡の道へと進むやうになる。

だが神父は無論のこと其のことをヨシとはせず。

 

神父は無論のこと少年達を正しい道へと導かんが為に尽力する。

 

 

でもまた世の中には惡の手先が澤山居る。

そんなギャング全盛期の1930年代でもさうだが現在にせよそんな惡の手先は世の中に澤山居る。

 

むしろ今の方が世の中が惡くもなってる。

さうギャンブル浸けとなり酒浸りでしかも👩狂いなのだ。

 

また政治家連中の方がむしろ「惡」の要素が強くもなってる。

例えば彼麻生や彼トランプは明らかに惡人だ。

 

またプーチン習近平やアノデブも結局は惡人だらう。

キシダのみが善人だが彼には権力がそも無い。

 

そんな優しい奴はすでに黒幕共の操り人形だ。

どだいキシダは何時迄総理をやり続ける御積りなのか?

 

惡どい政治家=惡代官

でもまあそんなことはどうでも良い。

 

そんなこと迄語ると作文が余計に長くなるだけのことですわ。

 

 

「ロッキー」は惡どい他のギャング達に騙されさうになり結果彼等を撃ち殺して仕舞う。

ついには官憲に追い詰められ彼「ロッキー」は投獄される。

 

無論のこと彼に下される判決は「死刑」となる。

だがそんな「死刑」を待つ身の「ロッキー」に神父は懇願する。

 

どうか英雄として死なないで欲しい、少年達を更生させる為にむしろ「見苦しく」死んで欲しい。

其の懇願を彼「ロッキー」は鼻でせせら笑いつつ聞いて居た。

 

刑場へと出向く彼「ロッキー」の顔にはかのクリストの苦悩に近い表情さえもが浮かんで居る。

さうして刑が執行されるまさに其の時に彼は「叫ぶ」。

 

「オレは死にたくない、死ぬのが怖い!」

さう何度も繰り返し叫びつつまさに見苦しく彼「ロッキー」は死んだ。

 

其の「ロッキー」の死に様のことが新聞にも大きく書き立てられた。

嗚呼まさに其の新聞を読み少年達は彼への崇拝を止めた。

 

さう彼「ロッキー」こそがそんな「汚れた顔の天使」だったのだ。

 

 

ちなみに先日ポストに「幸福の科学」の機関誌が初めて入って居り其れを読んでみると「まず天使になりましょう」とさう書いてあるではないか!

だが「エホバの証人」や「幸福の科学」に於ける「天使」とカトリシズムやプロテスタンティズムに於ける「天使」とはおそらく別物なのではないか。

 

4.自己犠牲の精神

5.天使と菩薩

6.クリスト教と大乗佛教の親和性

 

まずは其の「自己犠牲の精神」こそが美しくそんなラストシーンに涙がドバドバと出た。

さらに「天使」と「菩薩」はむしろ「まんま」だなとさう思った次第である。

 

さらに言えば大乗佛教徒ー法華経信奉者ー宮澤 賢治が何故『銀河鉄道の夜』にてまるでクリスト教徒のやうな「十字の★」やら「ハレルヤ」やらそんなものを盛り込んで居たのかと云うことが何となく理解されたものだった。

 

大乗佛教徒は特に浄土教信徒は正しくクリストの教えを世に広めんとしてかうして日日頑張るであらう立派な壱クリスチャンのことぞ!!!

すると「阿弥陀如來」様こそが神なのですね?

 

「神」?

 

うんさうだ、まさに其の「神」だらう。

ひょっとして「大日如來」様の方もまた其の「神」なのか?

 

まあ「神」だらうが「佛」だらうがどうでも良い話で、つまり壱番大事なことは「他を助く」との「菩薩道實践」の精神のことでせう。

 

なる程、するとたとえ「大乗佛教徒」であれ彼「ロッキー」の「天使」振りには涙が溢れてやまぬ訳だ。

さうだな、だから『汚れた顔の天使』こそがまさに「菩薩道」を實践せんとする映画となる訳なんだ。

 

いやあ流石は宗教詩人さんの御見立てです。

ところで今宵はまたどんな映画を御覧になるので?

 

アア其れは『エイリアン4』です。

さらに他のエイリアンモノなどもまた視てみます。

 

でも壱番凄い難解SF映画はあくまで『惑星ソラリス』とならう。

さう其の『惑星ソラリス』こそがみんなが死ぬ前に壱度は視て置かねばならん映画なんだから。

なんで常に「社會」はそも惡いのか?ーそんな「正義」無き時代と我我はどう向き合うか?ー

そんな「正義」無き時代と我我はどう向き合うか?ー社會の暗部を描くことだらう映像作品に就いてー

 

 

 

 

人類が地球に悪影響を及ぼしている想定外のこと (msn.com)

 

仰る通りに人類は「自然を加工」することでむしろ「文明」を築いて來て居るのです。

 

其の「文明」にも様様なタイプのものが考えられるが現行型の近現代文明の発祥地は西欧となり其の文明を精神的に規定するものが近代哲學です。

「近代哲學」は西欧に於いても批判されましたのですがー例えばニーチェレヴィ・ストロースによりー我が國の哲學者梅原 猛先生などは「そんなもんはダメだ」とほぼさう全否定されておりましたものです。

 

そんな半分愛知人のセンセイが仰るやうにさうダメなもんはダメですので22世紀迄は持ちません。

わたくしはそんな先生のほぼ「絶望的な哲學的精神のあり方」を正しく継承する者です。

 

其れも梅原 猛先生のやうに壱流の経歴の持ち主では無いが「悩んだ」と云うことだけはまさにかの藤村 操並みに悩んだのでソコはまあインテリの壱人と言っても良いことでせう。

でもってインテリの方方は以上のやうな問題に就きほぼ知っても居られやう。

 

無論のこと僕などもまた其のことを知る。

其の「知る」と云うことがまずは大事です。

 

其の「知る」ことから「悩み」が生じまさに其の「悩み」より考え方が變化し世の中に疑いを持ちます。

ところがアナタがもしも「洗脳」されて居たらどうしますか?

 

「洗脳」されて居たらむしろ何らの疑問も生じないことだらう。

だから其れがむしろダメなんだ。

 

ニンゲンはまず自らが「苦悩」し自ら「考える」ことでこそ精神的に成長するのだから。

なので其れが無い人はニンゲンじゃなくつまりはドーブツであるに過ぎぬ。

 

また世間にはまことにドーブツニンゲンが多い。

其れも拾人ニンゲンが居るとそのうち八人は「獣人」だらう。

 

後の壱人がボクでもう壱人がアナタだ。

そんなアナタはボクのゲージツに接して居るからこそ何とか助かる。

 

 

何度も言いますが「洗脳」は「宗教」がやるのでは無く「社會」がやるものです。ー但し「邪教」もまた其れをするー

「社會」とは何かと言えば其れは「みんなでやる間違い」のこと其のものだ。

 

なので「社會」とはそんな「全體主義」の履行者のこととなる。

だから「社會」とは常に距離を置くやうな「精神」をこそ醸成する。

 

まさに其れが我が結論なり。

 

其れも其の「孤立」に於いて「正論」を模索する方が「全體主義」としての「惡」を履行することよりも遥かにマシなのだし。

 

でも暴走族やヤクザやまた犯罪者の方方の論理はまた其れとも違う「肉體的な反抗及び爆発」のやうなものなのだらう。

ですが自分の場合はあくまで「精神的な反抗及び爆発」の範囲内でのこととならざるを得ぬ。

 

何故ならかう「軟弱」なのだし。

「軟弱」と言えばかの太宰 治ですが彼は凄いです。

 

何故なら彼太宰は「社會」と闘い続けた挙句に負け死んだのです。

でも結果「心中」していますが…。

 

いいえ彼大宰は「左翼闘争」に身を投じ家制度や金持ち連中と闘おうとした。

でも自分ちー家ーがそも大金持ちだったので結局其の自己矛盾の如き呪縛に捉えられ生活が破綻し👩と共に川へと飛び込んだ。

 

だが金持ちならそんな斜陽館にて👩をはべらし遊んで居るべきではなかったか。

また大宰は酒の方にもまただらしがなかった。

 

其れ即ち酒と👩にやられてさう居ましたのです!!

 

 

其れもこれも全ては「社會」が惡いからなのだった。

さう昭和も大正も明治も全て社會が惡かった。

 

じゃあ「江戸時代」は良かったのか?

いえまだマシだったと言うことに過ぎぬ。

 

じゃあ江戸時代以前の社會はどうだったの?

「江戸時代」よりもずっと惡かったことでせう、其れは!

 

其れは其れは…。

 

さて本日午前中にNHKの「世界のニュース」を視て居たら麻生氏とトランプ氏が會談をした旨が伝えられて居たが其の様やまるで犯罪者同士が「密談」して居るかのやうな感じがして随分と気持ち惡く感ぜられたものだった。

 

どうして「惡人」が其れもトップ級での権力の座に居座ることが可能なのか?

其の様やまさに「不条理」其のものであり此の世での様をまさに鏡のやうに映し出して居る。

 

1.老権力者

2.金持ち

3.馬鹿

 

なる程、此の参点に於いて彼等はまるで同じなのか。

 

ところで日銀が早う手を打ちませんと「円安」が止まらずまた物価高を招き庶民の生活が滅びる。ー其れも個人的にはイーベイがやれないー

兎に角壱刻も早う對策を!!!

 

 

映画『ありふれた教室』公式サイト (arifureta-kyositsu.com)

 

またこんな映画のことが紹介されて居た。

 

ドイツ発、学校の“不都合な真実”をえぐり出す『ありふれた教室』日本版予告 | cinemacafe.net

 

さて此の映画なのだが「高評価」を得る作品であるらしい。

あらすじは分かったが最終的にどうなるのかと云うことが分からない。

 

要するに「壱教師の正義」が「学校と云う社會」に於いて必ずしも通らないとの「不条理劇」の部分を描く映画となる。

だがそんな「壱教師の正義」はまさに「昭和」の頃迄は通って居た筈なのだ。

 

さう当時は「熱血教師」が正しい道へと生徒達を導くとの構図がまずは成り立って居た。

 

ところが21世紀にはむしろ其れが成り立たぬやうだ。

其れどころか此処🗾では教師其のものがブラック職業化し学校其のものがまた教育制度其のものが危機に陥って居る。

 

まずは21世紀がそんな「破壊」が進む世紀であり時代であることを我我民人はしかと認識して置くべきなのではないか。

また最初に貼り付けたリンクのところなどは「環境破壊」を「加工」と云う観点より捉えるものとなる。

 

或は「加工」こそがそんな「破壊」の元凶となるものなのか。

現代社會に正義は通らない」

 

まずは其のことが言えることかと思う。

では何故さうなって仕舞うのだらう?

 

4.全體主義

5.「偽善者」の蔓延

6.「惡」の蔓延

 

結局此のことが言えることかと思う。

 

尚「偽善者」だの「惡」だのと云う言葉は如何にもクリスト教的な解釈となるが佛法に於いてもまた其れが無い訳には非ず。

どだい「末法思想」に於いては法は滅しニセの僧や惡人が榮えまさに世は末となる。

 

そんな意味での「世紀末」的な様相を何故か此の21世紀は帯びて來て居る。

さて『ありふれた教室』の場合は最終的に此の映画の監督が独逸政府の「移民政策」を批判して居るかのやうだ。

 

7.価値観の多様化

8.人権尊重

9.正義の分裂

 

だがわたくしの場合にはあくまで現代社會の価値テーゼをこそ批判して置きたい。

 

まず価値観は多様で確かに良いのですが其れを「輸入」迄する必要はそも無い。

何故ならナントカ人はナントカ國が故郷であり其処にて自立することこそがナントカ國としての最高の価値だらう。

 

では🗾國は🗾國が故郷であり其処にて自立することこそが🗾國としての最高の価値なのか。

うんさうだね、其れもまずは亜米利加の言いなりとならぬことだな。

 

其れと「人権尊重」とのテーゼを普遍化することなどはそも出來ぬ筈だ。

何故なら「愛」は「限定」する場にこそ生じるものなのだから。ー例えば同胞愛や家族愛また國家愛などとー

 

でもソレは「神の愛」を説くクリスト教の教義ではまさかありませんよ。

 

 

じゃあワシはヤッパシクリスト教徒には非ず。

兎に角そんな「普遍性」などむしろ無い方がエエ位だわや。

 

さらに「人権尊重」とのことだがナントカ人と貴方の👪の「人権」の重みは果たして同じか?

例えば🗾人は「共産主義」が大嫌いなのであえて申しますがそんな中國や北朝鮮人壱人と貴方の妻や子の命の重みはまるで同じなのか?

 

…どう見ても實質的には異なりませう。

其りゃみたことか。

 

だからそもニンゲンなんてそんなドーブツのやうなもんだ。

其れを何を妄想しさう「神」のやうなことを述べるのか。

 

10.限定者

 

なのでニンゲンは単なるドーブツの「限定者」であるに過ぎん。

そんな「限定者」だからこそ「神」が必要となりまた場合により「佛」が必要となる。

 

でもって、そんな、

 

11.勘違い

 

をするからこそ「社會」がグズグズに崩れ要するにまともに回らんやうになる。

 

なので、最終的に奴等ホモ・サピエンスは、

 

12.滅ぶ

 

とのこととならう。

 

あらあーまた酷い結論ですー。

 

だからそんな「勘違い」にて「正義が分裂」するのだよ。

でもって最終的には、

 

13.社會が惡い

 

とのこととなり其の元凶は「金持ち連中がやりたい放題」で居ることとなる。

 

でも正しいでせう、僕は此の僕の考えだけは!

いやむしろ其れが壱番の間違いだらうな。

 

だが君の其の論理ではまるで「JOKER」みたいなものじゃないか!!

「JOKER」?

 

ほら、此の世での惡の起源を描く凄い映画のことですよ。Amazon.co.jp: ジョーカー(吹替版)を観る | Prime Video

 

此の『JOKER』を昨日視た。ー今回で五度目位ー

また其の惡人「ジョーカー」が登場するバットマンの映画の方も視た。Amazon.co.jp: ダークナイト (吹替版)を観る | Prime Video

 

尚自分は亜米利加の映画では「スタートレック」と「バットマン」を好む。

 

バットマン」の場合には主に「社會」のあり方こそが常に問われて居る。

バットマン」は単なる戦闘ヒーロー物では無く本質的には社會批判を前提とする映画となって居る。

 

では何故「バットマン」がよりにより出て來たのか?

さう其れは『ありふれた教室』と同じく「社會批判」をせんが為の映画だからなのだ。

 

どだい惡人「ジョーカー」は何故あんなに惡を平気でするのか?

其れはまさに「壊れて」居るからだ。

 

だが彼を壊したのはむしろ「社會」の方だった。

即ち世間の冷たさや非情な資本主義社會の様が映画『JOKER』には克明に描き出されて居る。

 

さらに此の映画の設定では彼「ジョーカー」は何と大富豪であるウェイン氏の子供となる。

要するに彼が使用人に手を付けた上での非認知嫡子となる。

 

すると彼「ジョーカー」は「バットマン」である「ブルース・ウェイン」氏とは兄弟であり「兄」と云うこととならう。

ところが映画にて描かれる彼「ジョーカー」の人生は悲惨其のもの。

 

彼が當たり前に持ち合わせて居たニンゲンに對する「信頼」や老いた母に對する「愛」は次第に突き崩され結果として彼は母を殺害するに及ぶ。

無論のこと其の行為は間違って居りそも正當化されるべきやうなものには非ず。

 

だが其処に「社會の不条理」とのことを強く感じさせる仕上がりとなって居ることだけは確かだ。

そんな厳しい社會との戦いに負け彼「ジョーカー」が次第にニンゲンとしてのまともな心を失い「殺人鬼」と化す迄の過程が静かに描き出される点こそが大層不気味だ。

 

善⇔惡

偽善(惡)⇔善(慈愛)

 

どうも此れらの「見境い」の部分が無くなり且つ狭まって來て居るやうに思われてならない。

さう20世紀迄は「善」は「善」で「惡」は「惡」だった。

 

また学校などでもさう教師が「正義」を通すことは可能だった。

我我還暦世代は惡いことをする度に熱血教師に殴られつまり御仕置きされ何が惡であるのかと云うことを學んだ。

 

だが今は其れをやれば教師の方がむしろ逮捕されて仕舞う。

 

まさに其れが21世紀の今では「善」と「惡」の区別が付かずまた「偽善」と「愛」の区別さえ付かぬと言うことなのだ。

 

 

逆に申せば2008年の『ダークナイト』の時点では単なる大惡人だった「ジョーカー」氏は2019年の『JOKER』で悲劇のヒーロー化されて描かれてもまた居る。

其の『JOKER』でまず殺されるのは心無い惡事を繰り返す証券マン参人となる。

 

其れは「殺されても仕方が無い」むしろ惡人のやうに描かれる。

また大金持ちのウェイン氏もまた「殺されても仕方が無い」人となり事實彼等夫妻は「ジョーカー」氏の信奉者に殺されて仕舞う。

 

でもって問題は果たして何処に眞實があるかとのこととなる。

其れは「もはやどうにもならぬ」社會の価値観其のものが問題とされて居るやうな気がしてならない。

 

即ちアノ「昭和の時代」に教師が惡い生徒を成敗するのは其れはまさに「正義」であったことだらう。

だがすでに其の種の「正義」は此の世の中自體に對し通らないのだ。

 

何故なら21世紀の合理化社會は其の種の「正義」をあえて「破壊」するに及んだからだ。

 

14.過剰な加工ー改變ー

15.拡張主義ーグローバリズム

16.今ダケ金ダケ自分ダケ

 

 

おそらく其処には以上の如き「改變」の作業こそが有ることだらう。

其の過剰なる金融資本の蔓延やもはや足りることを知らぬ進歩主義とさらに金満主義ー金の有る人だけがより金持ちとなる経済システムのことーがそんな「今ダケ金ダケ自分ダケ」との∞の欲望地獄ー無間地獄ーをこそ此の世に現出せしめ嗚呼ソコへとまさに此の世の全ての価値を、おお其の全ての正義と善意と良心とを「ブラックホール」化して吸い取って御座る!!!

 

じゃあ「資本主義」が結局「惡」なの?

あんな中國の方がむしろ正しいの?

 

そりゃ知りません。

知りませんが、たった今世の中に「ダーク」な精神が塗り込められて來て居る。

 

何だ其の「ダーク」な精神とは?

其れは麻生氏やトランプ氏の心の中に有ることだらう「惡い心」です。

 

じゃあ麻生氏やトランプ氏が死ねばもはや此の世は救われるのか?

いいえ救われはしない。

 

こんな腐った世の中を救うのは只壱人、さう彼「バットマン」のみ。

バットマン」!!

 

では早速今宵から其の「バットマン」のコスチューム・プレイでもするんですね!

いいえさうではありません。

 

わたくしがたった今考えて居るのはそんな「社會の不条理」其のものを「捨て去る」ことです。

なる程、其処にてようやく「佛法」での方法論を持ち出すのだね。

 

はい、其の通りですがでも「タイガーマスク」の方で毎回アノ伊達 直人の「天使」振りに實はいたく感動しても居ましてよってクリスト教の方もヤッパリ「正教」なのではないかとさう實質的には結論せざるを得ない。

 

アンタでも凄いわ、アニメやヒーロー者映画からそんな哲學的結論が得られるなんて確かに並みのニンゲンではないよ。

どうもありがたう、さう言って呉れるのはでも君ダケでは無いが。

 

「さう言って呉れるのはでも君ダケでは無い」

 

なんでそんなことをまた言うの?

いえ何せ性格がヒネクレテ居るものですからつい心にも無いことを申して仕舞った。

 

 

いずれにせよ「現代社會」とはむしろさうして「不安定」化し「破壊」を齎して行くものなのではないか。

さうさう、其の「不安定」と云うことで言えば現在「気候」の方がまさにさうでせう。

 

何だか4月だと云うのにまるで梅雨みたいなもので此れではなかなか遊びに行けないがもしや5月になってもこんなんなのか?

 

17.「破壊」の範囲がデカい

 

現代社會が齎す「破壊」は常によりデカくなりつまりはニンゲンがやりたいことをやればやる程に酷く「破壊」されるとのこととなる。

また其のことを「映画の世界」ー壱面では其れもまた映像表現=映像藝術の世界ーは予見して居るやうな気がしてならない。

 

故に最近の「映画」は明らかに描かれるテーマが「社會批判」寄りになって居る気がしてならない。

其の意味で『JOKER』や『ありふれた教室』はむしろストレートな「社會批判」をなした「作品」でもあり得ることだらう。

 

なる程、すると其れも「藝術」の壱つの使命としての「社會批判」であり得る訳か。

さうむしろ藝術は「ヒーロー」を創るものには非ず。

 

何故なら「ヒーロー」への熱狂とはまさに大衆的価値のことでせう。

藝術とはむしろ隠された世の「暗部」を描くだらう試みです。

 

では「ダークヒーロー」や所謂「アンチヒーロー」を描くことこそが藝術的な映画作品としての価値なのですね?

さう其処で描かれる価値観が交錯し屈折するであらう映像表現こそが藝術的なものとならう。

 

 

Amazon.co.jp: THE BATMAN-ザ・バットマン-(吹替版)を観る | Prime Video

 

でもってこちらの最新版の「バットマン」も視ましたが正直驚きました。

 

何とかの「ブルース・ウェイン」氏が「引き籠り」超人として描かれて居る。

エッ?そんな「引き籠り」の「バットマン」ですか?

 

其れも映画全體が暗くまさに救い難き「世紀末」と云う感じです。

ですが正直其の様や「ドキュメンタリー」作品と言えるものなのではないか。

 

實際2024年は何だか暗い年と云うか「時代」です。

だから「バットマン」が次第に「現實」化して來たやうな感じすらもがまたある。

 

またそんな「バットマン」はさうして米國流の「資本主義社會」が今後引き摺って行くことだらう暗い運命の部分を其れこそ敏感に感じ取り且つ描き出して居る。

であるから故にか此の映画の評価は可成に高いものとなって居る。

 

と言うことはすでに昔のヒーロー者映画のやうに単なる「勧善懲悪」モノつまりは「水戸黄門」的な善と惡の判断が曖昧化して居るのです。

「善」と「惡」ばかりか「漢」と「女」の区別さえも曖昧化して來て居る程だ。

 

ところでアナタは其の「曖昧化」をむしろ批判される訳ですね。

さう、「漢」は「漢」でもって「移民」は「移民」。

 

だから其の点に限り實はトランプ氏と似たやうな考えなんだ。

でも中國ー共産主義ーもまた嫌いでは無いから思想的にはあくまで決め切れぬ訳です。

 

自由主義圏⇔専制主義圏

資本主義経済⇔社會主義経

 

逆にハッキリ分かれるのが良いとの考え方ですがまさに其の「移民」の受け入れに関しては常に否定的です。

するとまさか「万世壱系」であるとかそんなものを今更持ち出す御積りなので?

 

ははは、こんな🗾人なんぞは中國人と朝鮮人と南方人種との混血ですよ、其のタダの混血。

だから「万世壱系」も何も無い。

 

そもアナタは右なの其れとも左なの、また作家なの詩人なの?

無論ドッチもイキます、わあっはっはっはっ。

 

 

ま、兎に角映画『ザ・バットマン』の映画としての暗さは相當なものが有る。

また其のことは「文明」の質的な變化を何より示すものなのではないか。

 

さらに言えば如何にアホな大衆であれ「コノ文明はもしやヤバいのかも?」とさう気付き始めたのではないかしら。

いやあ確かに、確かに引き籠りの🦇ニンゲンとは驚きの壱言です。

 

ところで映画の最後迄彼「ブルース・ウェイン」氏は引き籠りを続けるのか?

いや確か👩ーキャット・ウーマンーによりまた活動をし出した筈です。

 

した筈?

いえ色んな映画の筋がごっちゃとなりまして訳が分からんようにもまたなりましてね。

 

まあいずれにせよ如何に能天気な米國の映画作品であれ今や大きく變化して來て居るとさうも言えるやうだ。

また独逸は、其の独逸はむしろ🗾人以上に「潔癖」なんで元元「社會批判」の度が高く有ることだらう。

 

そんな🦇ニンゲンは惡の殿堂としてのゴッサム・シティを救えますか?

いやゴッサム・シティは救えたにせよ惡の殿堂としてのニューヨークシティなどはまさか救えないことだらう。

 

 

なる程、現實の資本主義社會はもう救えないのだと?

いやしかし現實の米國流資本主義などはどうでもエエから資本主義の枠を壊すなどして🗾の第壱産業を救わんと我我🗾人は2030年辺りからおそらく「飢餓」に陥りませう。

 

其れは怖い!!!

いやまるで怖くは無い、其の時ボクはすでに此の世に居ない。

 

でもおそらくは老人ホームなどで介護されて居ますよ。

…だからこそ飢えないでせう。

 

さう現役世代から食い物を奪い取りきっと「タイガーマスク」がそんなホーム老人を救いに來て下さるのだ。

なる程、食い物ばかりか「プレゼント」を澤山持って來て下さるんだ。

 

では其処にて欲しいものを今述べて置きます。

 

18.中國産の竹製爪楊枝

19.中國産の便箋

20.翡翠原石

 

となります。

 

でも何故「中國産の便箋」が好きなのか?

だって中國の紙は安物でも質が良く🗾の紙は漂白され過ぎて居てダメなのだ。

 

また中國産の竹製爪楊枝は強度があり「穿り」の能力が素晴らしい。

 

さても其の「翡翠原石」はズバリ糸魚川産で?

別にミャンマー産でも構いません。

 

さてももしやまた糸魚川翡翠を得ましたね?

其の案件に関しては現在壱切「ノーコメント」です。

 

個人的にそんな「社會」の不条理な様を衝くであらう映像作品がむしろ大好きです。

其の意味では所謂ヒーローモノの作品の中では「バットマン」=「🦇男」こそが壱番良いのではないでせうか。

藝術に関する試論ー3 藝術への「我が愛」+『未來惑星ザルドス』ー

藝術に関する試論ー3 藝術への「我が愛」+『未來惑星ザルドス』ー

 

 

 

 

「私は私であり人と違って構わない」

 

尚まさに此のことが多くの「天才」の認識となるさうなのだ。

また實はわたくしなども常にさう考えてやまぬ。

 

曰く、

 

あくまでワタシはワタシでアナタはアナタ。

アナタはワタシにはなり得ずワタシもまたアナタにはなり得ず。

 

其れはさう神佛が決めたことよ。

だからこそ侵し難き壱種の「聖域」としての価値なのだ。

 

「私が私である前にみんなと同じ」

 

まさに其れが此の「社會」が望む方での価値観とならう。

だがそんなもんに浸り切るとまさか「ゲージツ家」はやれはせず所謂「大衆化」=「衆愚化」する。

 

デカい(廣い認識での)個ー拡張される自我意識ー⇔ちっこい(狭い認識での)個ー抑えられる自我意識ー

 

まずはそんな基本的構造が其の「社會」と「個」の間には張り巡らされて居るのだと云えやう。

あえて其の其の對立関係をバランス化させるには、

 

所謂「相剋」しつつ「相即」させる意識こそが必要となる。

故に「社會否定」ばかりでもまたイケないのである。

 

だからと言って社會に盲従するそんな生き方なのでもまたダメなのだ。

何故なら常に「個」は「社會」の壱員となる。

 

また「社會」は「個」無しでは成り立たぬ。

要するに互いが互いを認め「思いやる」ことから始めるべきなのではないか。

 

とさう言葉として綺麗に収めやうとすれば此の問題はさう丸く解決されやうが實際にはそんな甘い物では無く「藝術的自我」と「社會的自我」とは常に闘争状態とならう。

つまりはそんな「カドカド」での戦闘状況に近い。

 

だがそんな「戦闘」をやりつつ何とか「社會」と折り合いを付けやうとして生きた藝術家ー天才達ーの面面に對し個人的に常に尊敬の気持ちを抱かざるを得ない。

つまりは基本的にやれぬことをさうやり切ることこそが藝術家ー天才達ーの使命であり運命なのだ。

 

 

「藝術家は美の使途」ーフランシスコ教皇

「愛と平和こそが全て」ーヨーコ・オノー

 

番組中にも登場する其のヨーコ・オノ氏は夫君であるジョン・レノン氏よりもどうも「過激」だったフシがある。

さう實は👩の方が👨などよりも常に過激である。

 

さう女性は「理性バカ」だが常に「壱念」が強く有る。

其の「壱念」とは最終的に「子宮力」のこととなる。

 

ジョン・レノン氏が若くして殺されたのはヨーコ・オノ氏の政治的闘争力に引き摺られ色色と言っちまった御陰でのことであらう。

要するに元來「藝術」と「政治的闘争」は無関係な筈なのにソコへと首を突っ込んだ御陰で彼現代のクリストは死んだのだった。

 

つまるところは、

 

「藝術は世界の大問題を解決せず」

 

との言葉に尽きて居る。

何故なら「藝術」とはあくまで「個」に於ける大問題であり基本的に其れは外側に拡がる問題などとは別箇のものなのだから。

 

藝術=内なる大問題との闘争⇔社會=外なる大問題との格闘

 

まさにそんな感じであらうか。

故に「藝術」が問題とするのはむしろ外の認識世界と内なる認識世界との「ズレ」の部分となる。

 

要するに藝術的な「天才」達は皆變人なので其の認識世界が個性的に偏向して居りみんな=社會の認識とはまるで違うのだ。

故に彼等「天才」に取り壱番大事なこととは其の認識世界の「ズレ」の部分に圧し潰されること無く「作品」を創造することでありまたあわよくば其れを世間に認めさせることでしか無い。

 

また自分にもそんな傾向が強くあるのでもはや其れは認めて置かざるを得なくなりつつもある。

即ち自らがそんな老藝術家の壱人として世に立って居ることをこそ。

 

其れも無事還暦を過ぎ「半分死んで」からはもはや隠しおおせなくなりつつもある。

 

じゃあ「世界の大問題」を解決するのは壱體誰なの?

うん、だから現在其れをやれる何かがむしろドコにも無い。

 

だからハッキリ申せばもう無理なのだ。

なのでジョン・レノン氏はあんな「ユートピア思想」を語らぬ方がむしろ長生き出來たのだ。

 

また宮澤 賢治氏の場合にも「ユートピア思想」の営業マンなどをやらずに岩手の山にて石と戯れて居る方がずっと長生き出來た筈です。

すると社會的な意味での「ユートピア思想」をむしろ語ってはイケないのか?

 

さうなんだらう、其れもおそらくは。

何故なら大事なことは未來のユートピア建設のことでは無くたった今での「心理的幸福」のことなのだから。

 

また人類の未來はあくまで暗くおそらく2100年迄現行型での文明は持ちやしない。

ならどうするの?

 

もしや教會や寺にて祈るの?

いやさう「祈る」のは良いことですが其れでもって文明が助かる話ではそも無い。

 

じゃあどうするの?

 

うーん、まあ、むしろ何もやらずに今持ってるモノや人や立場をトコトン樂しむべきでせう。

 

 

精神分析をすると創造性を失う虞が有る」フロイト

 

ほらね、アノ精神分析の大家ですら「精神分析」が「藝術」に効くなどとはまるで思っては居なかったのでした。

だから場合により「藝術」は「政治」や「科学」以上に此の世での眞の部分を衝く可能性があるのだと言えやう。

 

何故なら「藝術」には常に両義性が宿るからなのだ。

 

例えば、

 

秩序⇔混乱

建設⇔破壊

美⇔醜

愛⇔憎惡

創造⇔無為

生⇔死

 

などのやうに。

 

藝術家はあえて其の両極端な要素を同時に見詰めることで創造的な次元を内なる世界に開闢させる。=内なる小宇宙の完成

さう諸価値を對比させ對置させることで「内なる宇宙」をこそ創造せしめて行く。

 

また其れと同じやうなことを「マリリン・マンソン - Wikipedia」と云う米國のミュージシャンが番組中で述べて居り愕然とさせられた。

矢張りと云うべきかむしろ「藝術」の根っこの部分は壱つなのであり其れが音樂や繪画やまた文學やさうしたものへと分かれ出でて居るのである。

 

では最近哲學詩人が説く「愛」とは果たして何に對する愛なのですか?

まあ強いて言えば其の「両義的創造性」への「認知」であり「思いやり」のことです。

 

すると所謂「愛と平和」の「愛」とは違うもので?

まるで違いませう。

 

何故なら「愛と平和」の「愛」とはあくまで「ユートピア建設」の為に此の世を纏め且つ平等に愛するとのことだらう。

ですがそんなもんは此の汚れた現實世界ではそも無理な話となる。

 

對してワタシが説くところでの「愛」とは言わば「藝術」に對する「愛」であり個的認識に對する期待を込めた「愛」なのだ。

すると所謂「藝術至上主義」的な「愛」のことなのか?

 

確かに「藝術至上主義」的ですが反面「生活至上主義」的なのでもまたある。

要するにまさに其れが「藝術」と「生活」と云う分裂する価値の統合のことなのだ。

 

 

はあするとたった今ウソ詩人さんはそんな離れ業のやうな現在を生きておいでになるので?

其の「ウソ詩人」ダケは全くに余計な言葉だわ。

 

あくまで「ウソ詩人」では無くこんなに偉大な人文ー哲學ー詩人なんだから。

 

うーん、だが今回はまた作文の参回分と随分書き込んだね。

さうなんだ、何せ自分に取りまた社會に取りむしろ壱番大事なところだからね。

 

でも何せ壱般人に「藝術」を理解させやうとすると常にかうして苦勞するんだ。

そんな「藝術」を何故アナタは理解するに及んだのか?

 

さあね、其れは多分「屈折」に次ぐ「屈折」を頭の中で繰り広げて來たからなのだと思うんだ。

だから逆に「藝術」こそが「當たり前」のものであり逆に當然とされる社會的な価値のやうなものこそが「變なモノ」に見えて仕方が無い。

 

 

さうか、だから「文明批判」の方もやらうと思えばさうやれる訳なのですね。

まあやらうと思えば其れこそ文明を「全否定」してやっても良い位ですわ。

 

でもってズバリ文明は後何年程持ちますか?

そりゃ分かりません、分かりませんが22世紀迄はおそらく無理でせう。

 

ですが先に述べたやうに基本的に「藝術」は「社會」とは無関係なものです。

またつまりは藝術家が社會変革を目指したり宗教を批判したりすることは無意味です。

 

おおっ、ついに「ヨーコ・オノ」や「ニーチェ」への鋭い批判が出ましたですね。

 

また藝術家は常にかの岡本 太郎氏のやうに「対極主義」であらねばならん。

其れはどうも其の岡本 太郎氏が大好きみたいですね!

 

いや好きでは無くワタシこそが其の岡本 太郎氏の生まれ變わりなのだ、わっはっはっはっはー。

岡本 太郎氏が死んだ時に御前はもう此の世に生まれて居た筈ではないか!!

 

 

ところで此のドキュメンタリー作品には「アラーキー」氏や「たけし」氏のやうな日本人もまた登場しますがもしやアナタは彼等が好きですか?

アラーキー」氏の写眞にはかって大きく影響を受けたが今は左程好きではありません。

 

また「たけし」氏の映画などもまるで視ないです。

其れにわたくしはもっともっと高尚な藝術作品の方を好むので出來たらまたそんなものに就き是非述べて行きたいものだ。

 

ところでそんな岡本 太郎氏のゲージツは高尚なんですか?

そんな「TAROマン」です。

 

ヘッ?

だから「TAROマン」なのだ。

 

どだいそんな「TAROマン」こそが第壱級の藝術作品でなくてどうする?

 

 

其れと此の作品の終わりの方で「シャーロット・ランプリング - Wikipedia」と云うワタシが大好きな女優が登場し度肝を抜かれた。

其の「シャーロット・ランプリング」が『未来惑星ザルドス - Wikipedia』と云うSF映画で演じた「コンスエラ」と云う女性こそが自分に取っての理想の女性なのである。

 

其の人は「理知的」で且つ常にとても冷たい目をして居るのである。

要するに自分以上に頭の良い👩にはもう何処までも惹かれるのだ。

 

だが最終的に「コンスエラ」はショーン・コネリーが演ずる「ゼッド」の妻に選ばれ偽りの「電脳的文明ユートピア」を破壊した後に洞窟にて原始生活を始める。

さうして彼等は共に自然に年老いやがては白骨と化す。The message of Zardoz

 

ですが彼等の息子は其の洞窟の住居で逞しく成長しやがて外の世界へと旅立つ。

わたくしは此れ以上に素晴らしい映画のラストシーンを他に視たことが無い。

 

其れは電脳文明世界の無意味さと知識偏重の罠とを同時に突く壱級のSF映画に仕上がって居る。『未来惑星ザルドス』予告編

 

 

また其のラストシーンに流れるのがベートーヴェン交響曲第7番なのだ。ーさう自分は壱ベートーヴェンファンであるー

【ベト7!】 ベートーヴェン 交響曲第7番・第二楽章 ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリン・フィル Beethoven (youtube.com)

 

ところがそんなイイSF映画作品に限りアマゾンの方には出て來ない。

また當時から此の作品がとりわけ評価されて居たのでも無い。

 

其れは壱つに此の作品が専ら「難解」であり所謂「壱般受けしない」性質を帯びて居たからなのだ。

だがそんなものに限り好きなわたくしは無論のこと最大限に此のSF映画作品を評価し掲示板やブログにて此れ迄に何度も取り上げて來て居る。

 

尚此のSF映画作品がむしろ自分にはピタリと合う。

わたくしは元來余り大衆的では無いのでまさに其れが合うのだらう。

 

SF映画史上屈指の問題作「未来惑星ザルドス」約50年ぶりの再公開決定! : 映画ニュース - 映画.com (eiga.com)

『未来惑星ザルドス』作品内容の理解を促すプロローグ(100秒)+予告篇【2022年11月4日公開】 (youtube.com)

 

未来惑星ザルドスは数年に壱度必ず視たくもなる。

無論のこと其のDVDをしかと持っても居り。

 

ちなみに其処にて描かれる未來世界はほぼ現代社會の延長線上に有るものとなる。

そんな未來に於ける「神ニンゲン」達は皆神の如くに高知能でありー或は遺伝子操作にてか?ーケモノの如き獣人の世界を支配しつつ生きる。

 

されどすでに彼等には感覚を突き動かすやうな「欲望」が無い。

有るのはむしろそんな「不死」の耐え難い退屈と人工的な「ユートピア」としての檻の様ばかり。

 

そんな社會體制に反逆した獣人のリーダーが彼「ゼッド」であった。

「神ニンゲン」達の中でも特に理性的な女性である「コンスエラ」をやがてゼッドは伴侶として選ぶ。

 

其れも「ユートピア」を暴力にて破壊尽くした後でさうする。

 

だがそんな「神ニンゲン」達はまさに現代にも居るのではないか。

「神ニンゲン」達は自らの手を汚さず主に民の生産力を搾取することで特権層=金持ちになってる。

 

のみならず奴等は地球を破壊し尽くす。

でもって自分等は高級な人種だとついさう勘違いをする。

 

此の馬鹿等めが!

むしろ御前等こそがサイテーのニンゲンだらうが!!

 

またAIなどを「神」だと崇めたがる。

ばか神は教會にしか居らぬわい!!!

 

嗚呼、神よ、神よ是非裁き給え、おおまさに此の腐った世界の偽善者振りをこそ。

 

全くどうにもならん世の中だ。

全くどうにもならんニンゲン達よ。

 

ホモ・サピエンスはそも血統が惡いわ。

すぐに群がりみんなでもってさう惡さを繰り返す!!

 

そんなホモ・サピエンスのケモノ振りと來たらもう宇宙壱だわ。

其れ即ち🐵以下でまた🐻以下で🐈や🐕以下、さらに🐖や🐎や🐄のみならず🐍や🐊や🐸以下なんだわ。

 

おおっ、ソコにはまた新たなドーブツ達が登場して居ますね!

でも🐸以下なんですか、此の利口なホモ・サピエンスの方方が…。

 

だからさう「洗脳」されてるダケだ、君等は。

何故ならホモ・サピエンスが🐸さん並みの「自然との協調性」を取り戻す為にはまさに弐~参億年程の時が必要となる。

 

だが其の弐~参億年の猶予期間はすでにホモ・サピエンスに對し与えられて居らずハッキリ申せば大體あと半世紀程しか奴等は持たぬ。

 

 

あれスッカリ忘れとった。

さうホモ・サピエンスを貶すのでは無く其の「コンスエラ」を演じた「シャーロット・ランプリング」が番組中で述べたことこそが大事なのだった。

 

「バラバラになりさうな自分を支えるもの」

 

彼女は藝術に就きまさにさう述べた。

此れぞまさしく至言であらう。

 

と云うことは彼女はむしろほんたうに高知能者か又は高い感度の持ち主だったこととなる。

尚御心配されずとも壱般人はそんな「バラバラ」にはまずなりませんので是非御安心召されよ。

 

「バラバラ」になるやうな人は上記で述べた如き「普通では無い人」=「天才」的知能者若しくは「天才」的感度者か「狂人」となる。

 

 

では此の稿の最後に創造の意義に就き少しく考えてみたい。

 

「創造的自我」の超越性に就いて

 

「創造性」は「現在」によるものでは無くむしろ「過去」の遺産である。

さう其れは遡る過去の中から紡がれる壱巻の書物の如きものだ。

 

全ては其の∞の過去より始まって居り或は其れが言語の成立以前に迄遡る可能性すらもがまたある。

「創造性」とはむしろ其の過去の感覚を掘り起こし其れを現在へと宛がう作業となる。

 

だが「創造性」自身に取り時間の経過としての認識はむしろ無いものなのだ。

さうして言わば「時を超越」しつつ其れは展開されて行く。

 

「時」ばかりか「場」も無い。

其の「場の意識」さえもが消え去り謂わば「絶對の時空」を其処に現出させるに及ぶ。

 

たった今我はベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタをユーチューブにて聴きつつかうして作文して居る。

ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタは藝術作品として最も「藝術性が高い」とさう評価される作品群となる。

 

ベートーヴェン ピアノソナタ 第28番 イ長調 Op.101 ピアノ:ヴィルヘルム・ケンプ 1951年録音 (youtube.com)

 

其れはまさに「過去」を回想するかのやうだ。

だが「過去」にもまた「未來」にもさらに「現在」にも其れは無い。

 

むしろ其処に有るのは「超越的時間」の如きものばかり。

 

 

「創造的自我」の両義性に就いて

 

創造⇔無為

 

「創造」と「無為」は常に變化に於ける両義となる。

「變化」無くば對立は生じず變化=諸行無常するから両義に分かれる。

 

逆に申せば「無為」=「消去」するに至れば變化=諸行無常せず。

「變化」無くばすでに其れは「生」でも「死」でも無い超越的次元を漂うのみ=「佛」のやうなものか?

 

でも超越的次元とは「神」のことで全放棄者である「佛」は超越的次元のものには非ず。

また突然難しいことを言い始めたな。

 

確かにさうですがまあ大乗佛教なんぞは皆半分クリスト教だよ。

アンタそんなことまで言っていいの?

 

アンタ場合により知り合いとかもココを視てるからもっと「穏やか」にものを言うべきではないの?

いやワタシはむしろ常にこんな「カドカド」ニンゲンです。

 

こんな「カドカド」ダケがもう頬擦りしたい程に好きなんだ。

 

創造⇔無為

神⇔佛

 

すると下のやうにも言えるのでせうか?

まあ言えるのでせう。

 

ですが其の「神⇔佛」に於ける弐項對立の問題は人類の精神世界に取り最難関での課題となるのではないか。

 

よって此の課題に関してはさうさうカンタンには論ぜられないこととなる。

其れもおそらくは洞窟などに籠り参年程熟考せねば導き出せぬ課題とならう。

 

じゃあやってよ。

はい?

 

やってよ、ソレを。

うーん、ではイヤだがやるか。

 

弐箇月後にでは其の答えを出しませう。

どうか樂しみにして置きなされ。

 

 

さて生きることとは變化することであり死ぬることとは變化しないこととなる。

 

生⇔死

また言うまでも無く生とは變化の過程であり死とは變化しない過程となる。

 

だがあくまで「本質的」には其の「生」も「死」もまた「創造」も「破壊」も等価なのだ。

等価であるからこそ其のやうな分離関係であり分裂関係が成り立つこととなる。

 

即ち此の認識世界とは元來そんな「差別」され得ぬ分別世界のことなのだ。

だが壱方の極に對し寄り掛かれば途端に其のバランスは崩れ妄想的な認識の世界が現出することとなる。

 

現代社會とはまさにそんな「妄想的な認識の世界」のことだらう。

 

ところが藝術はさうして藝術家は常に其の世界を其の侭に見る。

さう両義的にものを見詰めることでこそ花開く「美」の世界が有るが故に。

 

故に藝術家は現代社會の認識を直すことは出來ぬが藝術としてのものの見方を世に示すことだけは常に可能となる。

「創造的自我」としての両義的性格にはまさに其のことこそが期待されるのではなからうか。

 

また創造とは常に「愛」其のものであり無為とは常に「放棄」其のものである。

だが其処では常に「愛」と「放棄」とが相剋し且つ相即するのである。

 

生⇔死

愛⇔放棄

 

其の對立関係に於いて他方は他方を全否定することが出來ぬ。

ーさう「矛盾」関係であり「弐律背反」での関係性の中に認識其のものが埋没せざるを得なくなるー

 

また話が難しい。

でもだからダメだって云うことがまさに「論理的」にまずは分かるよね。

 

さうニンゲンの認識其のものでは矛盾がデカくなり「破壊」に勤しみ「破滅」に至るからそも「神」や「佛」がおわすのです。

 

 

「他方は他方を全否定することが出來ぬ」が故に本質的に此の世での分別認識に「区別」などはむしろ無い。

文明は其の「区別」無き世界をそも「区別」したがるからこそ不幸になる。

 

また文明はそんな「愛」と「無為」、そんな如何にも高尚な「生死」の問題などまるで考えては居ない。

なんとなれば金儲けに必死なのでそんなこと迄考えて居る暇がそも無いと來てる。

 

全くどうしやうも無い奴等だぞ。

君等は壱辺滅んでみるか?

 

いやワシは滅びたくは無いぞよ。

そもワシはもう時間が無いからかうして毎日樂しく遊んで暮らすのだ。ーそんな壱螽斯老人としてー

 

其の螽斯詩人曰く、

 

ー「創造」とは「愛」であるー

 

兎に角其の事をまずは御伝えせねばならなんだ。

 

ぎゃあ、でも🐈がまた子を産んだわ。

其れもアノグレートタイガーみたいな色のちっこいメスが。

 

 

だがあえて汝等に是非御伝えして置きたい。

僕が嗚呼まさに此の僕がかの「ベートーヴェン」の親類縁者であることを!

 

さうじゃないだろ、そんな「ベートーヴェン」のタダの壱ファンだ。

いいやさうではない、おおまさにそんな眷属が生み出しし後期ピアノ・ソナタの旋律のやうにいまし我は「昇天」せり!

 

全くまるで「嵐」のやうな自我の持主ですな。

さうです、嗚呼まさに其の「疾風怒濤」のことなのだ。

 

實際に何処までも不穏な影が伸び現存在の今と未來とを圧迫して御座る。

ならばまさに其れをこそ生き延びる迄のことよ。

 

 

果たして藝術とは何ですか?

 

…豚の鼻です。

其れは🌸の香りを知って居ます。ー大宰 治ー

 

 

藝術とは爆発だ!ー岡本 太郎ー

 

ゲージツとはこんな闘い(戦い)だ!ー高齢の自称詩人ー

 

藝術に関する試論ー2 天才達の頭の中ー

藝術に関する試論ー2 天才達の頭の中ー

 

 

 

 

Amazon.co.jp: 天才たちの頭の中 世界を面白くする107のヒント(字幕版)を観る | Prime Video

 

さて四日程前にこちらを視聴し「我が實存」を揺すぶられた感が強くしたものでした。

でもって弐度目はメモを取りつつまた全編に亘り視聴してみた。

 

其のメモを基に話を進めさせて頂きます。

 

でもってまずは基本的にわたくしは其の「天才」達の生き様や認識に對し常に親和的です。

其れはわたくし自身にも「半分」はそんな傾向が有るからでのことです。

 

またどちらかと言えば自分の場合「秀才型」では無く「天才型」のニンゲンです。

要するにコツコツやるタイプでは無く「直感」や「直観」が働くタイプですので。

 

ところが「秀才型」の面がまた無いでも無い。

 

秀才⇔天才

 

個人的には其れもまた両面を持ち合わせて居ることかと思いますのです。

まただから故に其の「天才」も半分位しか働かぬのではなからうか。

 

利口⇔馬鹿ー阿呆ー

 

またコチラの方さえもが實は守備範囲なのでしてであるからこそ大層困るのですが其れも基本的にはあくまで理性的な「インテリさん」なのですよ。

まあそんな個人的な悩みの話はどうでも良いので以下にて「天才」の認識に就いて是非語らせて頂きたい。

 

 

まずは番組中での「天才の認識」其のものに就き非常に良く分かりました。

ですがおそらく大多数の人人に取り其れはさうでは無いことでせう。

 

でもってまずはメモを読み返してみます。

何故ならでないと内容を思い出せないので。

 

 

其の「メモ」が何と便箋「九枚」にも亘る。

其れもMont Blanc149万年筆を改造したED万年筆にて書き留めたものとなる。

 

1.双極主義ー對極主義ー

2.子供ー好奇心ー

3.才能ー贈られた力ー

 

そこでまずは此の点に就き論じます。

左様に「天才」の多くは「弐項對立」的な認識世界を生きる。

 

尤もニンゲンは元來さう物事を見るのですが「天才」に於いてむしろ其のことが際立って居る。

其れは要するに「認識力」其のものがより優秀なのでさうハッキリさう見えて仕舞うのです。

 

またつまりはさうした意味での「分裂的」な認識価値を「統合」しつつ彼等は「現實」を生きて居る。

ところが大多数のニンゲンの認識はさうハッキリ分裂されぬので「統合」も何も無いのでありませう。

 

また「天才」の多くに共通するのが「無垢なる好奇心」の部分です。

其の「好奇心」こそが「創造性」を生み出す基となるが普通ニンゲンは社會的にくるめられることで其の「創造性」を失うものだ。

 

何故なら會社へ行きまたケッコンしさらに子などが出來ますと「創造性」を持つよりもむしろ持たぬ方が生き易くなることは必定です。

さう「生活至上主義」で行くのであればむしろ「創造性」なんぞは必要無い、むしろ其れは邪魔となることなのだから故に。

 

ですが多くの「天才」の価値観であり基礎認識其のものがむしろ其の「生活至上主義」=「社會的自我」以前のところに有るやうに見受けられる。

其のことをより単純に述べれば彼等はあえて「子供の心」の侭で大人の今を生きる人人となる。

 

また正直申して自分などもまた子供臭いところが多分に有る。

さうかと申してもう高齢者ですので其の實はジジイなのでもまたありますのですが。

 

 

原體験⇔経験

 

つまりは其れを同時に持つとのことなのではなからうか。

さて「子供」其れ自體が必ずしも「天才」となるのではないのです。

 

「子供」には「知的経験」及び「論理的能力」が欠けて居るので所謂「藝術作品」を彼等が常に生み出せる訳ではありません。

尤も「子供」にも藝術家は居ますが其の比率は大人の場合などとほとんど同じでせう。

 

要するにあくまで個人的にはむしろ両極に於ける「統合知」の部分こそが「天才」的能力の必須の条件のやうに思われてならない。

また番組中でとある詩人の方が「天より言葉が降りて來る」とさう申されて居たのがまさにピンと來た。

 

さう「詩」とはむしろ「純粋藝術」に近いものでさう詩の言葉が上から降りて來るのである。

自分の中で湧くと云うよりもむしろそんな感じで上から來る感じが常にする。

 

兎に角さう「降ろされ贈られた」ものである感が強くして居る。

またつまりは其れが所謂「ギフテッド」された感度により其れを掴んで居ることとなる。

 

其れがまさに「才能」ですが「天才」の多くが其れを「生まれつき」のものであるとさう述べる。

つまりは「経験」でもまた「努力」なのでも無い。

 

さう「努力」すれば誰しも多分早稲田大学位は受かるかもしれませんがそんな「秀才」なのともまた違うものだ。

また藤井君や大谷君の「天才」振りなどもまたどう見ても生まれつきでのものでせう。

 

 

4.逆向き思考ー逆説的な手法ー

5.創造的依存

6.両義に亘る強い感度と自己完結性

 

また「天才」の多くが「逆向き思考」ー逆説的な手法ーを好んでして居るとのこと。

正直自分などもまた明らかにさうである。

 

物事の「逆方面」を見たり考えたりする時にむしろほんたうの意味での「現實」の範囲に気付くことが可能となる。

ですが此の世の表面をなぞるのみでは所謂「本質的」に其れを理解することが適わなくなる。

 

さらに其の「天才」的能力=「天才的認識」の世界が果たして幸福なのか否かと云う段に及べばむしろ其れが必ずしもさうでは無い面なども出て來る。

何故なら彼等は常にさうして「永遠なる創造的旅人」でありつまりは「今ココ」に満足されぬ「創造的依存」状態に陥るだらう「病人」なのでもまたあり得るのだ。

 

でも佛教の教理などではむしろ「而今」などと屡語られるものです。

と云うことは「佛法」と「藝術」はまた目的とするものが違うのでせう。

 

「佛法」や「クリストの教え」は「救い」=「ほんたうの樂」を心理的に追求するものだらうが「藝術」はむしろさう「永遠なる自己實現」をこそ図るものとなる。

即ち中心とするモノが両者でそも違うやうに思われてならない。

 

尚「藝術」でもって本質的に心が救われることはまず無いことだらう。

其の代わりに常に其れは人人の心を癒し続ける。

 

また創作者は「作品」を生み出し其の「作品」は永続化することともまたなるのである。

 

 

尚藝術家は壱般に強い両義的感度を持ち合わせて居る。

即ち「心地良い」ものばかりか不安や恐怖などの「心地が惡い」ものに對しむしろ親和的な感度を有するのだと言える。

 

要するにさう価値の両面に亘り高い感度を持ち合わせて居るのだ。

故にか「美」なるものを眞に理解せんが為に見詰めるべきものとはむしろ「醜」の方となる。

 

また其のことがまず大多数のニンゲンにはやれぬこととなる。

されど要するにそれでは認識の上での幅が常に狭くならうからほんたうに美しいものをもまた見失うこととならう。

 

つまりは其の認識がデカいー廣いーとのことが言えるかと個人的には考える。

 

「デカい」⇔「ちっこい」

「廣い」⇔「狭い」

 

ですが其れもまた僕の場合は變わって居るのであえて両方をイクのです。ーさう両方がやれるー

 

宇宙⇔叢

 

まあそんなもんですか。

 

宇宙⇔自己

 

まあそんなもんでせう。

 

不確定性原理⇔僕

 

でもコレが関係するかどうかは何せ理系が不得意ですのでまるで分からない。

 

さらに「自己完結性」とのことですがまさに其れはボクの為にある言葉のやうなものだ。

するとアナタには何も足せずさらにアナタからは何も引けぬこととなりますが…。

 

實際にワタシに何かを足せますか君が?

實際にワタシから何かを引けますか君が?

 

…結果やれませんでした。

そら見たことか。

 

 

また「天才」の多くはむしろそんな「自己完結」するであらう認識世界を生きて居ることだらう。

 

さうか、では「岡本 太郎」氏にはどんな足し算でもまた引き算にせよ通用しないと云うことなのですね?

だって實際にさうでせう。

 

實際「岡本 太郎」氏に何もくっつけられやせんのだし「岡本 太郎」氏から何も奪えないでせう?

また其の「岡本 太郎」を「ピカソ」などにしてみてもまさに其の関係こそが成り立ちませう。

 

さうだなあ、でも大凡才のボクは何でも足せるしまた何でも奪えます。

さうか、さうだったのか其れは其れは御目出度う。

 

君は其の凡暗中の凡暗、つまりは屑石中の屑石でもって何の取り柄も無いタダの🐵のやうな生き物です。

また得意な動物の比喩に持ち込んで…。

 

ならば御前は👽ではないか!

いえさうでは無く👾の方です。

 

何せコチラのタイプの宇宙人の方がより理解がしにくいのでありますから。

 

 

だが其れはさうと君はそんな「自己完結型」のニンゲンでは生きにくくはないのか?

實際にーマジでもってー生きにくい。

 

ほんたうにもうどうしやうも無く生きにくい。

 

でも何だか可哀さう…。

 

…どうもありがたう。

さう言って呉れるのはむしろ君ダケだよ。

 

かうして半分「天才」に生まれむしろ自分の場合は其のことが大層「辛かった」のだった。

 

 

さて番組中ではかの「デヴィッド・ボウイ」氏のインタヴューの部分が都合参度に亘り出て参ります。

 

其の「デヴィッド・ボウイ」氏の発言内容は意外なことに最も眞面目寄りでのものだった。

さう彼「デヴィッド・ボウイ」氏の内面は奇抜な外見からは想像もつかぬやうな「生眞面目」で且つ求道的なものとなる。

 

番組中ではボウイ氏が「チベット佛教」の僧と出會い彼から「佛法」を學んだ件が氏自身の口から語られる。

デヴィッド・ボウイ」氏はさう所謂クリスト教徒では無くしてほぼ佛教徒だったのでせう。

 

また彼は『チベットの7年』と云う本を17歳の頃に読み佛法の世界へと開かれて行ったのだと云う。

壱時期は「出家」を考えたが逆に僧に「音樂の世界」で活躍せよとさう諭され其れを思いとどまったのださうだ。

 

諸行無常」ー諸行非常ー

ー此の世には「恒久的」に有り続ける価値など無いことー

 

まさに其のことをボウイ氏は語られて居た。

 

ところで所謂「創造性」とはそんな「精神性」と常に関わることなのだらうか?

関わりが無いとは言えないが創造者であるにせよ無神論者も居れば合理主義者もまた居ることだらう。

 

またかのダライ・ラマ氏などが番組中で「創造性」が誤った方向へ使われることの危険ー災厄ーの部分に就き語られて居たのが印象に残る。

 

例えば科学技術にもまた常に「創造性」が使われるが何故か其れは人文の領域でのやうな「穏やかな」ものを生み出さずむしろ「破壊的」なものを用意して行って仕舞う。

其のことは所謂「合理的解釈」に「哀しみ」=「悲哀」を感知する能力がそも欠けて居るからなのではないか。

 

對して宗教などはむしろまずは其の生きる上での「悲哀」であり「悲嘆」の部分にこそ寄り添う。

また哲學はそんな生きる上での「悲哀」であり「悲嘆」の部分に圧し潰されぬやうにどう理想的な生を模索するかと云うことをまずは考える。

 

 

7.政治と創造

8.知性的創造と本能的創造

9.創造的自我

 

さらに番組中で語られるのがまさに其の「政治」と「創造性」の問題となる。

だが普通「政治」は常に「創造」とは無関係な認識の位置を占める。

 

其れは「政治」が主に「社會」を駆動されることに使われる認識であり「創造」は主に個の次元にて「自己」を駆動させることに用いられる認識であり要するに正反對での認識となるからのことだと個人的には考える。

つまりは「政治」が回すのは「みんな」であり「創造」者が回すのは「自己實現」であり「自己の解放」とならう。

 

故に「創造的次元」が社會に對し開かれることはむしろ無くさらに社會的に社會の上での様様な問題が解決され得る訳なのでもまた無い。

むしろ其の問題への解決の方向性は「創造的自我」を持つ個に委ねられて居やう。

 

所謂政治家とは「社會」を駆動されることに使われる「駒」の如きものであり其れ自身には考える能力や新たなものを創る能力がむしろ欠けて御座る。

 

よってか常に政治家連中は所謂大衆に迎合し保身を図る。

そんなものがまさか民主制を健全に保ったりまた革命政権でも樹立し世界を變えて行ける筈が無い。

 

ー物事を變えて行けるのはむしろ「文化」の方だ。ーヴィヴィアン・ウエストウッド

ー神が通り抜けるのを待つ。ーU2 ボノ

ー「霊的な考察」が別の世界の存在を意識させる。ーヴィム・ヴェンダース

藝術に関する試論ー1 人文學の意義と天才科学者の伝記映画ー

ーさうマイナス領域を見詰めてこその人文學の意義ー

 

 

 

 

ところで自分は「若見え」の方となる。

 

「これで57歳?」…「67年生まれ」童顔男性が公開した10の生活習慣 (msn.com)

 

此の「作家」の男性などもまた自分とは8歳しか違わないのですがどう見ても参拾代迄である。

 

先日スギ薬局の駐車場でひょんなことから婆様と交流があり幾つに見えるかと聞いたら「52歳」だと言われた。

其れで婆さんの方は「80歳」だと云うと實際には「79歳」と可成に正確な判断であった。

 

自分は「人間観察」を可成にして來て居るのでまず見間違うやうなことはしない。

 

でもって何を言いたいのかと言えばまさにニンゲンは其れ其れで「定型的な常識」のやうなものにて全てを判断し得ぬことをこそ述べたい。

また自分はむしろ其の「若見え」の部分がイヤである。

 

何故なら内面がそもこんなにジジイつまりはまず人にはやれぬ程に様様な心的経験を積んで居るのでむしろそちらの方向をこそ人には見て貰いたいからなのだ。

つまり此の男性は「若く居られるやうに努力して」さうなって居る部分が有るが自分は単なる「自閉症スペクトラム障害」者なのでさうなって仕舞うのであらう。

 

また自分は「長生きがしたい」などともほとんど思って居ない。

其れもまあやれることだけはコレ迄にやり尽くして來ても居るのでもはや「悔い」は無いと云うそんな感じである。

 

さらに僕のやうに余りに物事が分かり過ぎると早う「御迎え」が來るやうな気もしないではない。

どだい精神的領域ー哲學や宗教的次元のことーにてほぼやり尽くして來ても居るからもう「彼岸」の方で哲人や宗教家の面面がすでに手招きしてなど居てつい其れにハイハイと引き寄せられる気になったりもまたするのである。

 

だからもう「全てを分かってる」からコレ以上は分かりやうが無い。

もう何も足せないし本質的には「御勉強」なども出來ない。

 

でもあえて「御勉強」をする。

其れは主に表面的知識に関する部分に限られるのだけれども。

 

「3つしかない」ノーベル賞科学者・山中伸弥が明らかにする、意外過ぎる「成功者」になるための裏ワザ (msn.com)

 

其の「天才」は案外世に居るのではないかと個人的には今考えつつある。

其れも「天才」其のものよりも「天才的」な人ともなればむしろ其の辺にでも居ることだらう。

 

だが別段自分は「天才」的能力を所謂崇めたりはして居ない。

何故なら自分にもまた其れが「半分位」あるのだから。

 

ならば無論のこと其の「天才」を毎日其れこそ24時間やれれば「自己實現」することにはおそらく近づくことであらう。

さすればもっともっと根本的に「人生を前向きに生きる」ことが可能となり要するにこんな變なわだかまりやら何やらに患わされずに済み要するにもっと精神的には樂になるのやもしれん。

 

ですがさう常に「變なわだかまりやら何やらに患わされ」つつ要するに限界を突破し得ずウジウジ、メソメソと未練がましく生きることこそが實は自分に取っての「理想の生き様」なのである。

逆にゲージツ家となりつまりは作家となり何かを世の中に對し発信し其れにて對価を得るなどするとわたくしの此の「美しき詩の世界」が穢れ行くやうな気がせんでも無い。

 

だからこんな半分ゲージツ家でもって丁度良い。

どだいなあにが五木 寛之だ、なあにが村上 春樹だ!

 

そんなもんはもうまるで読んどらん。

要するに作家なんぞはほとんど自分に取り役に立たぬ。

 

そんなアナタはアノ「岡本 太郎」氏ばりに独善的だ!!

いや同じ「對極主義者」ですのでさもありなん。

 

兎に角自分は其の「ゲージツ」だの「天才」だのには余り拘らず何故なら其れが「半分」しか無いからなのだ。

逆に申せばもしも自分がプロの大詩人として世に立つことは如何にも怖いこととなる。

 

つまりは其の役目、役割に嵌められて仕舞うことが何だかとても辛いことのやうに思うのだ。

またわたくしはプロだのアマだのそんなことにもほとんど拘っては居ない。

 

何故なら此処の読者の方方にはわたくしが世界に壱人だけの詩的感度の持ち主ー所謂「持ってる人」ーであること位は即分かるのであらうから。

だから其れダケでむしろ良い。

 

そんな大作家となり日日締め切りに追われヒーヒー言いつつ人生を過ごすなんて眞っ平御免なんだ。

だからわたくしの世界にさうあえて何かをくっつけやうとすること自體がどだい無理な話なのだ。

 

何故なら彼はそんな肩書きだの地位だの大金だのには縛られぬ「自由人」なので縛られることと言えばまさに「美の世界」位なもので御前等が其れを「社會」に縛り付けやうとしてもどだい無理な話なんだ。

 

 

でも彼は至って貧乏ですが…。

そりゃペンや石を常に買うから貧乏なのだ。

 

だから其れ等を買わなけりゃコンビニ🍱位はなんとか食える。

またCDを買い歌を聴いたり美術館へ行ったりしなければコンビニ🍱位はなんとか食える。

 

ですがもうすぐ名古屋市美術館東山動植物園の入場料が百円になります。ー市内在住の高齢者の優遇制度にてさうなるー

 

だが大問題が有り「名古屋市美術館」の場合は「常設展」が百円となるだけで観たくなるやうな「特別展」の場合はまるで割引きなど無い部分である。

但し「東山動植物園」の場合は「スカイタワー入場」込みで160円だからコレは如何にも安い。

 

其れもおそらく全國壱安い入園料となることじゃらう。

だからココへすき家の「特盛カルビ丼」を持って行き後は例の「伊右衛門」を自販機ににて買い「御🌸畑」のベンチに座り飲んで食えば宜しい。

 

すると入園料より「すき家の特盛カルビ丼」の方がずっと高いこととなる。

なので「すき家の特盛カルビ丼」の方もまた「高齢者割引き制度」なるものを是非設けて頂きたいものだ。

 

 

科学者についてのベスト映画 (starsinsider.com)

 

さてこんな科学者の伝記映画などを是非視てみたい。

 

テンプル・グランディン 自閉症とともに (2010) -

テスラ エジソンが恐れた天才 (2020) -

アレクサンドリア (2009) -

クリエイション (2009) -

ケロッグ博士(1994) -

'Radioactive' (2019) -

科学者の道 (1936) -

 

 

アンドロメダ (1971) -

地球に落ちて来た男 (1976) -

 

但し其の「アンドロメダ」と「地球に落ちて来た男」はSF作品なのですでに視て居ます。

視てみたいのはむしろ上での科学者の伝記映画の方となる。

 

尚「科学」もまたまさに其の「天才的」能力が創り上げる価値のことだらう。

ですが近代的な「科学技術」には所謂「罪深い」ものがまた多い。

 

何故さうなるのかと言えばおそらくは「人文學的な発想」が失われて仕舞うからなのではないか。

 

自然科学⇔人文科学

 

無論のこと其れは對極的価値でありまた其れも等価であることこそがむしろ望ましい訳だ。

ところが近代以降特に戦後世界では其のバランスが崩れ「自然科学」の方が優勢となりつつある。

 

ですが其のバランスが崩れると實はエライこととなりませう。

「自然科学」は「有」としての「現實」をのみ對象とする世界観のことですので認識上「片手落ち」となり易い。

 

つまるところは「無」としての人文學的な解釈やまた宗教に於ける人間理解が無くば現存在の認識は常に「壱方通行」に陥ることであらう。

尚わたくしがむしろ「有」だと述べるのはあくまで人文學的な解釈やまた宗教に於ける人間理解の上での「有」の範囲のこととなる。

 

つまりは「無」としての「有」のことをさう述べて居るのです。

いま少し平たく申しますと、

 

人文學的な解釈やまた宗教に於ける人間理解はむしろ好んで此の世に於ける「マイナス面」をこそ見詰めて行く。

さらに「文學」などでは小説でもって主人公の悲劇的生涯が描かれたり詩や哲學により實存的不安の様が語られたりもまたする。

 

「人文學」はさう金儲けにも進歩にも与せぬが「ニンゲンをマイナス面より」さう見届けて來て居る。

ですが所謂数理的解釈にて「唯物的」に世界を解釈するだらう「自然科学」の世界ではそんな「不幸」と申すか「苦悩」と申すか其のやうには世界を捉えはしない。

 

 

個人的にはむしろ其れが「大間違い」なのだと思います。

現存在はむしろそんな「不幸」と申すか「苦悩」と申すか其のやうなマイナス領域をこそ生き続ける者でありまさか「小さな神様」などではあり得ぬ。

 

またニンゲンに限らず動植物の世界であれむしろ其の全てが「不幸」と申すか「苦悩」と申すか其のやうなマイナス領域の所持者である。

また其のことをあえて文學的に表現すれば生命其のものにそんな「悲劇性」が宿されて居るのである。

 

ところが近現代文明はむしろそんな「生命の持つ悲劇性」のところにあえて蓋をし實際俺等は何でもやれるからやっちゃえ、てなもので兎に角なんでもやっちまいます。

要するに其処に「歯止め」が効かぬ訳だ。

 

問題は其の生の「悲劇性」に對する感度が現代人は大幅に鈍って居る可能性が高くあることでせう。

ですからむしろ彼等ホモ・サピエンスは「人文學」をこそ學ぶべきなのです。

 

ところがたとえ「人文學」をやったにせよ其れこそ金にもまた進歩にもならぬので次第に文明社會は「人文離れ」を助長させて行くこととなる。

だがまずは其れが「間違い」です。

 

また「自然科学」をどんなに深く學んだにせよ「ニンゲン」其れ自體の解明にはまるで繋がらない。

其れは「自然科学」が「ニンゲン」其れ自體を探求するものでは無く「物的現實」の世界を数理的に規定するものであるからに過ぎないからだ。

 

 

人文詩人さん、ではニンゲンはあえて「不幸」や「苦悩」をこそ見詰めて行かねばならんのか。

そんな戦前の「文學」みたいな認識世界は余りにも大時代的なものでこんな合理化社會にはまるでそぐわぬものでせう?

 

いやさうでは無い。

合理化社會にもまた「不幸」や「苦悩」が澤山ある。

 

いやむしろ「不幸」や「苦悩」のみなんだ。

 

どだい「岡田 有希子」や「藤 圭子」などもあんな🏢から飛び降りて死んだのだし。

また其れはしかしながら怖いぞー。

 

もう宇宙壱怖い話である。

さう言えば芸能人で自殺する人は結構多いぞよ。

 

人文詩人さん、ではニンゲンはあえて「不幸」や「苦悩」をこそ見詰め最終的には「自然科学」への崇拝を止め「神」か又は「佛」への帰依により是非心を救われるべきなのでせうか?

まあさうなりませうが其の前に「自然科学」による「洗脳」を是非解くべきです。

 

但し「自然科学」はまた頗る面白い。

面白いが其れが現存在としての認識上の「バランスを欠く」が故に危ういこととなる。

 

でも實際「オウム教」の方がずっと怖いじゃないか。

まあ同程度に危ないことでせう、其の宗教もまた科学も。

 

 

「人文詩人」としてまずは言いたいのがまさに其の「不幸」や「苦悩」、また「不安」と云った「マイナス面」を忌避してはならないと云うことです。

何故ならそんな「マイナス面」の凝視こそが生の實相を見詰めるに足る認識であり要するに「精神的眞理」へと至る道程となるからのことなのです。

 

唯物的眞理⇔精神的眞理

 

まずは此のことがさう分かれます。

またつまるところ「眞理」は壱つでは無い、むしろ弐極が有る。

 

其の両方を出來得れば見詰めて下され。

さすれば「唯物的眞理」は半分の価値でしか無いことがしかと分からう。

「Montegrappa」の金銀製八角軸の限定万年筆に就き語る 2ー「あくがれ」でありまた「理想」としての八角軸の万年筆ー

「Montegrappa」の金銀製八角軸の限定万年筆に就き語る 2ー「あくがれ」でありまた「理想」としての八角軸の万年筆ー

 

 

 

 

モンテグラッパ Montegrappa (ilduomo.jp)

 

でもどうも今の「Montegrappa」の🖋は至極普通と申しますか「牙を抜かれた」感が致します。

つまり其の「角軸」が多かったのはかってのことであり今やさうしたモデルが出されては居ないやうだ。

 

「Montegrappa」は「Montblanc」と同じ系列のグループの傘下に入りある意味では「高級路線化」された筈なのですが何かつまらん🖊ばかりにかうして結果的になって居る。

またおそらく今の「Montegrappa」の万年筆は壊れることが無いのでせう。

 

對して90年代の「Montegrappa」の万年筆で其れもピストンフィラーの物などは怖ろしく壊れ易く要するに未使用でもピストンが固着したり致しましたものです。

でも其の分其れ等は藝術的であり且つあくまで美しい。

 

要するに🗾や独逸さらに米國英國の🖋には決して出せぬ雰囲気と形態とを其の身に纏って居たのだと言える。

 

モンテグラッパ 限定生産品 デヴィッド・ボウイ ★(ブラックスター) 万年筆 Montegrappa David Bowie Blackstar Fountain Pen (ilduomo.jp)

モンテグラッパ 限定生産品 ミロのビーナス 万年筆 Montegrappa Venus De Milo Limited Edition 《送料無料》 (ilduomo.jp)

 

其の「ボウイ」の方はいっそのことアノ「Stella」のやうに星形の軸にでもすると面白かったのですが…。ー自分は亡くなったデヴィッド・ボウイ氏の壱ファンですー

「ミロのヴィーナス」の方はまた「大理石軸」ですか。

 

しっかしまあ藝術的と言えば確かに藝術的なのか。

其れに共に重量が重く且つ値段がバカバカしい程に高い。

 

アノ壱流メーカーの「Montblanc」社などもまたさうですが上級愛好家は「筆記思想」が堕落したとさう思っても居る訳です。

だから「變」な高級路線を敷く前の「Montblanc」や「Montegrappa」の方がずっと良かった。

 

但し今でも「Montblanc」の限定品には見るべきものがあるやうだ。

其のやうだ、と言うのは21世紀に入り限定万年筆には手を出して居ない自分には分からないからなのです、其の本質部が如何に變化したのかと云うことが。

 

 

尚以上に登場した🖋で何が欲しいかと言えば其れはズバリ、

Yahoo!オークション - 【美品】モンテグラッパ スターリングシルバー9...

のみです。

 

要するに此れの弐本目が欲しいのですがでも此のペンを長く使ったのでもう要らないか。

 

Yahoo!オークション - Montegrappa 限定万年筆 The Dragon 1995 Silver

 

でもって是非タダで貰いたいのはこちらとなります。

かうした「伝説の限定品」の類の品はなかなか魅力が有る。

 

Montegrappa Luxor Blue Nile Limited Edition 18K Solid Yellow Gold Pen LE 188 | eBay

 

こちらが初代の「伝説の限定品」となる。

90年代に丸榮百貨店の万年筆売り場で数本売れたとの話を聞きました。ーコレの銀製トリム版の方ですー

 

MONTEGRAPPA ETERNAL BIRD LIMITED EDITION FOUNTAIN PEN - USED ONCE TO TEST | eBay

 

其の「龍」と共に「鳳凰」の方がまずは「伝説の限定品」だらう。

此の種の高額で「變」な🖋は現在でもかうして高額にて売られ決して価値が無い訳ではありません。

 

特に外國人は此の種のペンを好むやうだ。ー尤もあくまで自分も好きですがー

また初代物の価値と申しますか此の種のゴテゴテの🖊であれ90年代製の物は概して評価が高いのです。

 

對して21世紀の限定万年筆に余り良い物は無いが其処は「Montblanc」が復刻版でのヴィンテージやアンティークのペンを限定🖋として出して居るやうに評価に値する動きなどがまた有りませう。

ですが問題なのはペンメーカーが惰性で出して居るやうな普通のモデルが拾萬もまた廿萬もして居ることです。

 

此のやうに万年筆の価値は壱律では無く正直申して「良い物と惡い物」とが混在するのです。

ところが21世紀の限定万年筆は何処の物でもまずは壊れないことでせう。

 

だから其れで良いのだとも言えやうがタダわたくしのやうに廿世紀末に「限定万年筆」を壱応やり切った者とすれば其の部分が何やら寂しくも思えます。

即ちあくまで自分の場合には「たとえ壊れても良いから藝術的で且つ個性的」な万年筆をこそ欲して來たのですから。

 

 

Montegrappa Limited Edition 1000 Chaos Ag925 Sterling Silver 18K Fountain Pen | eBay

 

こちらが例のシルヴェスター・スタローンが監修したゴテゴテ限定🖋です。

然し良く見るとむしろ此れが良いやうに見えて來る。

 

其れもシルヴェスター・スタローンと云う伊太利亜漢のエネルギーが感じられて惡くは無い。

伊太利亜は左様に「惡趣味」と「美的洗練」の様が同居するであらうまさに「カオス」の國なのでもまたあることでせう。

 

ちなみに1997年製の「アフロディテ」なる限定万年筆をかってわたくしは弐本持って居た。

Montegrappa Aphrodite Limited Edition Silver Fountain Pen -#469/1912 | eBay

 

かうして極めて美しく且つ極めて重い限定万年筆となる。

其のうち壱本は21世紀初頭の頃にナゴヤ市内の医師の方に御譲りしました。

 

其の方はとても喜んで居られた。

ですが此の🖋は吸入の方がピストン・フィラーでもって其れが壊れるのです。

 

が、其れもあくまでピストン・フィラーが壊れるのであり首軸さえ回れば所謂アイ・ドロッパー化することが可能となる。

イザさうしてアイ・ドロッパー化することが出來れば「万年筆」として使えます。

 

其れと此の🖊は其の素材がエボナイト軸と銀製のフィリグリー部(銀装飾)となる。

さうエボナイト軸と銀製のフィリグリー装飾軸はまたエボナイト軸と金製のフィリグリー装飾軸は万年筆の中では最も価値ある組み合わせとなるのです。

 

其れも「張り」では無く「無垢」なんです。

伊太利亜の金銀工芸の細工は其の意味で最も価値の有るものとなる。

 

尤も其れは🗾の工芸細工のやうに精緻なものでは無く「無骨」です。

ですがアメリカンの物よりはまだしもマシと言うべきなのか。

 

いずれにせよ其れ等には「夢」が壱杯に詰まって居りましたものです。

また其の「夢」は「西欧近代」に於けるものであり東洋の智慧や繊細さとはまた違うものでありました。

 

であるからこそ其れこそ明治時代以降此処🗾國は「西洋カブレ」化しても行ったのでせう。

されど其の「西洋カブレ」は「モノの世界」ダケに是非留めて置くべきことです。

 

個人的に自分もまたそんな「西洋カブレ」ですが「思想」に於いて自分はむしろ「西欧近代」に對する強硬な批判者ですので。

 

 

Montegrappa Queen of Heatrs Limited Edition Fountain Pen, 18K Broad Nib-Mint | eBay

Montegrappa Limited Edition Solid Gold Cigar Fountain Pen #0092/100 | eBay

 

こちらもまた「持って居る」限定品となるが「シガー(銀製トリム)」の方はとっくに壊れ現在は付けペン化して居ります。

但し「クイーン・オブ・ハーツ」の方は明らかに高級な限定万年筆です。

 

其れも「Montegrappa」ではおそらく五本の指に入る御品です。

余計な付属品が付いて居りますが其れとはまた別に限定万年筆として極めて出來が良い。

 

さらにピストン・フィラーも壊れずまたセルロイド素材を用いて居ないので軸も腐らない。

其の銀製の軸は素晴らしく且つモンブランの「メディチ」万年筆よりも若干大柄となる。

 

 

右端ークイーン・オブ・ハーツー 左端ーメディチ限定万年筆ー

 

此の画像で右端に「クイーン・オブ・ハーツ」が有り左端にモンブランの「メディチ」万年筆が有る。

メディチ」万年筆と「クイーン・オブ・ハーツ」はまた別物ながら其の代役位は務められさうな素晴らしい御品となる。

 

MONTEGRAPPA LA SIRENA MERMAID LIMITED EDITION FOUNTAIN PEN M 18K NEW IN BOX | eBay

 

こちらなども以前は持って居たが結構重くて余り持ち易くも無いので早早に手放しましたがかうして現在は値段が高騰して居るやうだ。

 

MONTEGRAPPA Reminiscence 80th Anniversary (1912 – 1992) Limited Edition Silver | eBay

 

90年代当時は此の80周年記念モデルこそが欲しかったがペン先の方が小さいので「Special Reserve」限定🖋の方を集めて行くことになる。

其の銀製軸の「Special Reserve」を多い時は参本も持って居た。

 

ですが現在は使って居らずまたピストン・フィラーはいずれも壊れ万年筆から吸入関連での部品を抜いてある。

 

MONTEGRAPPA Marostica Limited Edition of 1912 Pcs, The Game of Chess-Mint | eBay

 

個性的な□軸の限定品です。

今思えば此れも惡くは無く買っては居ないが今手元に有れば使うことでせう。

 

 

Montegrappa Limited Edition 888 Extra Otto Lapis 18K Fountain Pen | eBay

 

比較的最近の「Montegrappa」ではまさにコレこそが良い。

しかもかうして確りと角軸です。

 

金ペン先の方は「大型」の方でかって其れを自分も使って居りましたが惡くは無い物で例えばペリカンM1000などよりも好きな書き心地がして居たものだった。

ですが何故か時の流れと共に其れも手放して行った。

 

かうして万年筆はまことに分からぬものなのです。

其の時時により自らの評価も變われば好きなモデルもまた異なって來る。

 

但し個人的に決して變わらないのが、

 

10.大き目の🖊ーオーヴァーサイズの万年筆ーが好きであること

11.角軸の万年筆が好きであること

12.伊太利亜物が特に好きな万年筆であること

 

位なものでせうか。

 

ちなみに昨夜夜中にイーベイの方でL.E.Watermanの角軸を探して居りましたが何と弐本其れらしき物が出て來た。

ですが当時の萬年筆の角軸は女性向きの携帯用の如き物がほとんどで要するに大きな物がなかなか出ては來ない。

 

だが昔自分は「世界まるごとハウマッチ」と云う番組にて「理想的な八角軸」の大柄な萬年筆を視たことがある。世界まるごとHOWマッチ - Wikipedia

 

其の番組はまさに昔の番組で其れを見たのはおそらく80年代後半のことでせう。

其の折に欧羅巴ー其れも伊太利亜だったか?ーのとある骨董店でレポーターが金張りでもって八角軸の大きな萬年筆を見せて貰うのです。

 

其れが「Montblanc」製であったことなどもまた覚えて居る。

其のアンティークの「Montblanc」は「メディチ限定万年筆」以上に魅力的に視えた。

 

ですが当時はまだ「メディチ限定万年筆」など出ては居らずよって暫くはそんな古い萬年筆こそが「理想の八角軸」でこそあった。

其の後「メディチ限定万年筆」や「Montegrappaの八角軸の万年筆」と出合うこととなる。

 

「理想の八角軸」での万年筆はさうして次第に頭の中より抜き出され現實化して行ったのです。

「Montegrappa」の金銀製八角軸の限定万年筆に就き語る 1ー「あくがれ」でありまた「理想」としての八角軸の万年筆ー

「Montegrappa」の金銀製八角軸の限定万年筆に就き語る 1ー「あくがれ」でありまた「理想」としての八角軸の万年筆ー

 

 

 

 

さて使い始めたばかりの「Novelli Augusta」はどうも個體的に調子の良い物のやうで其の使用感が素晴らしい。

🖋は其の「個體的に調子の良い物」を得ることがなかなかに難しい。

 

尤も所謂「手作り万年筆」ではペン先部が「調整」されることでむしろ初めから書き易くしてあったりもする。

無論のことソコには所謂「職人技」が発揮されるのだが個人的にはむしろそんな「人為的な加工」のやうなものをまずは嫌う。

 

要するに自分は万年筆のコレクターとしてもまた其の「気難しさ」が壱級品なのでみんなが良いと思うことがダメなことでまた自分が頑固に自己流にてやることがむしろ良いこととなる。

おまけに彼が高知能者である可能性が高まって來たのでもう何を言うか分からん程だ。

 

そんな危ない筆記詩人はしかしながらあくまで万年筆に「美」をこそ見詰めて御座る。

彼筆記詩人は兎に角何でも感度高く事象を見詰めるので全然「普通」の見方をして居ない。

 

然し筆記詩人はついこないだ弐束参文にてタグ・ホイヤーの限定腕時計を売って仕舞った。

だから正直ヘコんでも居る。

 

なら「角型ー正方形ー」の腕時計でしかも緑色の奴はないものかとアマゾンにて探すもそんなもんが出て來る筈も無い。

ところが、だよ、ところが其れが「TEMU」の方には有るではないか。

 

だから其れを買おうとして居るところだ、値段は大體参千円程。

兎に角腕時計ではロクなことがない。

 

其れは自分と腕時計との相性が惡いのである。

どだい「時間」を勝手に決めて其の通りに動くのはまさに文明による暴挙であらう。

 

「時間」なんぞ本質的には「分解」でありそんな等速直線運動みたいなものではまさか非ず。

「時間」なんぞ「時計」とはまるで関係の無い働きで要するに其はかのアインスタイン博士がかって述べた如くに「相對的」なものだ。

 

だから「ブラックホール」に落ちると落ちたアナタには其れが壱瞬であれ我我地球人には永遠にアナタがソコへ落ちないやうにさえ見ゆる。

腕時計はだから何やらウザい。

 

だが嫌いでは無い。

例えばコレなんぞは素晴らしいな、實のところ欲しいなとは正直思います。

 

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「ロレックス ディープシー」24年新作腕時計、初の18ctイエローゴールドケースにブルーダイアル (msn.com)

 

また此の種の腕時計の記事なども見ないではない。

が、あくまで個人的に高級な腕時計には縁が薄い。

 

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さて此れ等は所謂「チプカシ」ですが此の靑文字盤と黑文字盤の同じモデルを弐つ同時に自分は使います。

 

1.安くて確か

2.百米防水付き

3.拾年電池付き

 

とのことで惚れ込んだ「チプカシ」でありすでに共に弐代目です。

何故なら我は腕時計を失くすことがあるのでさうなる。

 

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こちらを買おうかとも思ったがどうも面白くは無い。

 

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嗚呼、コレだ!

とさう思うのですが何せ値段が高い。

 

どだい腕時計は参千円位迄です。

何故なら壱萬も出せば良い🖋が壱本買えるので。

 

 

さて🖋の角軸は「洒落筋」での🖋趣味となる。

そんな🖋の角軸をあえて集めるやうな人はまず世間に居ない。

 

ですが今思えばまさに其のことを自分はして來ても居た。

また現在欲しい万年筆もほぼ其の全てが「角軸」となる。

 

どだい腕時計でもさう正方形や六角形の意匠の物こそが好きなのだ。

またインク瓶にせよ筆筒にせよ何でも其の「角型」こそが好きなのだ。

 

自分のパーソナリティ其のものにもしや其の「カド」が多いのだらうか?

まあさうかもしれぬ。

 

「コノ文明はそもダメ、アカン」などと云う人に穏やかな心の人=〇の人が居る筈が無い。

 

さて本日は昨夜から引き続いて🖋の整備を行って居たところである。

 

4.「角軸」の🖋の間で金ペン先を交換した

5.其れは「ファーバーカステル」と「モンテグラッパ」となる。

6.金ペン先は「Omas」及び「L.E.Watermanの7号ニブ」となる。

 

「Omas」の18金ペン先は現代の物となるが壱般に「上級マニア」の間で好まれるものとなる。

「Omas」の18金ペン先は細長く筆記感が「軽快」であり現代の万年筆の金ペン先とは向いて居る方向性がそも違う。ー其のやうにも感ぜられるー

 

其の「Omas」の18金ペン先を「ファーバーカステル」の方に半年程付けて居たがどうも上手く固定されない。

「モンテグラッパ」の方も「L.E.Watermanの7号ニブ」が今ひとつ合わない。

 

そんな場合にはペン先を交換すると良くなる場合がまたある。

 

また万年筆のペン芯は「エボナイト製」の方がより好ましいので現代の万年筆の場合はペン芯もまた交換する方が良い場合がある。

だがペン芯や金ペン先の變更は難しいので中級以下の愛好家は手を出すべきではないことだらう。

 

自分などもまた完璧に其れがやれる訳では無く但し時の流れと共に曲りなりにも其れがやれるやうになっただけのこと。

 

 

さて金ペン先の交換自體は上手くいった。

だが「モンテグラッパ」の方のペン芯が何と折れて仕舞った。

 

が、折れてもどのみち其の侭では「Omas」の18金ペン先の固定がやれぬのでペン芯は替えて置かねばならん。

とりあえずは何とかサイズが合うペン芯を部品の中より選び出しソコへ「Omas」の18金ペン先を宛がうと上手い具合に固定された。

 

ところがペン芯と18金ペン先の間に隙間が生じて仕舞った。

其のことは「万年筆」としては致命的なことながら「付けペン」として使用出來ぬ訳でもまた無いのである。

 

熱湯に浸けるなどしてペン芯を變形させ「万年筆」化する作業はまたいずれやれば良いことなのだ。

 

ではとりあえず「付けペン」にて書いてみやう。

 

…サリサリ。

うーん、とても良く合って居る。

 

其れがMサイズであり何故かヴィンテージ・テイストの感じられる書き心地に仕上がった。

 

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其の「モンテグラッパ」とはこちらのモデルとなる。

おそらく90年代に入手した物だらう。

 

故にすでに四半世紀程も使い込んで居る筈なのだ。

だが其の「銀製軸」はヘタるどころか益益美しく黑ずんで來て居る。

 

さう「銀製軸」の🖋はさう経年變化にて黑ずむ。

だが其れを磨いたりしてはならない。

 

むしろ其の「黑ずみ」の様が味となるのだ。

勿論磨けば磨いたで新品の如くにピカピカとならう。

 

故に経年變化が樂しめる「銀製軸」の🖋こそが「素晴らしい🖋」と言えるのである。

また其の「銀製軸」の🖋は伊太利亜に多く有り特にかっての「Montegrappa」には多く有った。

 

 

Yahoo!オークション - 未使用 モンテグラッパ Montegrappa 万年筆 ITAL...

 

此のモデルは「レミニッセンス」と呼ばれるモデルで其れを90年代の初頭だったかに初めて入手した時の感動をいまだ忘れられぬ。

此れは小振りの銀製🖋だが八面體であり何より御洒落である。

 

また「グリーク・キー」と云う文様が其の軸には刻み込まれて居る。ギリシア雷文 - Wikipedia

其のギリシア⚡文が中華🍜の中華模様と同じかどうか迄は我も分からねど。

 

「レミニッセンス」のペン先は小振りながらかっての🖋の強い金ペン先の筆記感を残すものとなる。

故に書いてみて現代の万年筆のまったりした感じの書き味では無くシャカシャカッと云う感じにて書くことが常に可能となる。

 

だが「レミニッセンス」は小振りの🖊なのでやがて好みには合わなくなり手放して仕舞う。

 

其処で手に入れたのがプレーンの銀製軸である先のモデルとなる。

さて此の「Montegrappa」の銀製軸をもうどんだけ使って來しことか。

 

されどいまだ現役でありいや其ればかりか現在最も大事な🖋ともなりつつある。

尚當時は確か弐、参萬で入手出來たと思いますが正確には調べてみないと其れも分からず。

 

ところが、である。

ところが此の🖋は「重め」なのだった。

 

さう「Montegrappa」の銀製軸は此のモデルに限らず「重め」なのだ。

だが自分に限り「軽め」の🖋が好きな訳です。

 

ではどうしたか?

首軸其の物を替えたのだった。

 

其れも同じ伊太利亜の「スティピュラ」の🖋の首軸に替えた。

すると其処から全てが良くなった。

 

ではついでに金ペン先も替えて仕舞え。

とのことでヴィンテージの「L.E.Watermanの7号ニブ」を付けて居たが其れが本日の作業にて「Omas」の18金Mペン先へと交換された訳でした。

 

 

尚通常タイプの「Montegrappa」の18金ペン先は「Omas」の18金Mペン先のやうにヴィンテージ・テイストがある訳では無くむしろ思い切りに現代の万年筆らしい書き心地がするものとなる。

無論のこと其れもまた惡くはないのでありますが此のオールド・スタイルでの「八角銀製軸」の場合は書き心地の方も出來得ればヴィンテージ・テイストへと統壱してみたいところである。

 

ではいま壱度其れでもって書いてみやう。

ううむコレは凄いぞ。

 

もうコレは「たまらない」書き心地がして居るぞ。

しかもプラチナでもパイロットでもまたセーラーでも無い書き心地だ。ー當然のことながらー

 

またモンブランでもペリカンでもゾネッケンでも無い書き心地だぞよ。ー當然のことながらー

其れはでも所詮アンタの改造🖋の話ではないか!

 

いいやさうでは無い。

さうでは無く紛れも無くむしろコレこそが「Montegrappa」の書き心地ぞ。ーさう彼はすでに「Montegrappa」との付き合いが長く凡そ参拾年にもなるー

 

當時より「Montegrappa」は自分に取り「あくがれの欧羅巴」其のものであり且つ「藝術の都伊太利亜」其のものなのだった。

そんなアナタが何故伊太利亜を訪れて居ないのか?

 

何故なら自由になる金を全部伊太利亜の🖋に注ぎ込んで居たからなんだ。

ひゃあ、其れは凄い。

 

どだい伊太利亜観光の旅へ出れば其処にて弐、参拾萬はまずかからう。

ならば其れをこそ伊太利亜の万年筆に注ぎ込まずしてどうする?

 

もしやアナタは🗾壱の伊太利亜🖋フリークなので?

まあさうかもしれんのう。

 

だからイタリアンの🖊との付き合い方ならばまずはワシに聞いてちょ。

聞いてちょ?

 

うん、聞いてちょう、とも言いますまさに其れが名古屋弁だわ。

 

7.個人的にさう「万年筆の完成期」にすでに入った

8.なのでか万年筆のことで何をやっても何故か上手く行く

9.「角軸」のことは何せまだ半分位しか書けて居ないので「長期休暇」が終わったら必ずやまた書かせて頂く

 

ではもう壱本の「ファーバーカステル」の方もまた其の折に語るのですね。

いやたった今語って置かう。

 

まずコレは凄いぞ。

さてもどう凄いのでせう?

 

コレこそは「究極の角軸万年筆」だ。

でも毎回そんなのばかりですよ。

 

だから毎回間違い無く「究極の角軸万年筆」なのだ。

 

 

ちなみに昨日「敬老手帳」が名古屋市より届きました。

うわあー、ジジ臭い話で。

 

馬鹿者!

まずは御年寄りを敬いつつ「万年筆道」に邁進せずしてどうする?

 

だから「寄付」こそが万年筆愛好家の壱大事となる。

そんな御年寄りの万年筆愛好家に對しまずは「寄付」をこそ其れも熱心に行うべき。

 

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Yahoo!オークション - 【未使用に近い】モンテグラッパ エンブレマ パ...

 

かうして「Montegrappa」は何かと角軸が好きなやうだ。

角軸と言えばかのOMASなども明らかにまたさうである。

 

さうして意匠に拘り「美的感覚」に優れる面こそが伊太利亜の🖋の眞骨頂での部分となる。

 

 

Yahoo!オークション - Montegrappa 限定万年筆 The Dragon 1995 Silver

 

が、「Montegrappa」の🖋はそんな角軸ばかりなのでは無くかうして「變」な物などもまた有る。ーしかも「變」なのに頗る高価でありますー

其の種の「Montegrappa」の變な万年筆に自分などはもうどんだけ悩まされて來しことだらう。

 

其れも大抵はセルロイドが腐るので万年筆としては命を終えることとなるがでも銀製や木製軸の場合には腐らぬので結果として生き残ることとなるのである。

其れもまた銀製の八角軸などは🖋としての「ハイ・エンド」な御品となることはまず間違い無からう。

 

尚銀製軸はピカピカにも出來逆に硫黄などを利用し硫化させるー黑化させるーことが常に可能となる。

其れも「湯の花」なるものを使えば銀軸を黑軸にすることなどもまた出來るのだった。ーかって南米製の「L.E.Waterman」のEDをさうして黑化したことがあるー

 

ではとって置きの画像を貼り付けて置きます。

此処での赤い首軸の金銀製軸モデルが「Montegrappa」の「Special Reserve」限定🖋です。

 

美しい金銀製八角軸の限定万年筆