目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「メディチ万年筆」と「貴金属軸のプラチナの創立70周年記念万年筆」に就いてーそんな限定万年筆の「華」としての価値に就き語るー

 

 

メディチ万年筆」と「貴金属軸のプラチナの創立70周年記念万年筆」に就いてーそんな限定万年筆の「華」としての価値に就き語るー

 

 

 

 

あれから「アーム筆入れ」がさらに参つ出て参りしかも其れ等は全てが「大判」の品である。

また其の「大判」タイプの当時物「アーム筆入れ」にも弐種のサイズがあり即ちよりデカいタイプと現在自分が使う「大判」のサイズとが有ったのだった。

 

でもって今は紫色と赤の「大判」での小型サイズの方を共に使う。

其れ等を机上に置くと其処へ時により日射しが射し込みまるでステンドグラスのやうに美しく輝く。

 

しかも其のデザインがいずれも「希臘神殿風」なのでまるで机上に「神神」の世界が到來して居るかの如くに厳かな「美の殿堂」と化すのである。

怖ろしいことではあるがかうして「美の世界」はむしろ何処にでも有る。

 

さう其れは神の如くに偏在し我我の周りを取り巻いて居る。

されど我我自身の認識が乏しいが故に其の「美の世界」を己が目に捉えることが適わずさらに其の美其のものに寄り添うことが出來ぬ。

 

 

どだい毎日會社へ行ったり家事勞働して居ればそんな「美の世界」にばかり入り浸って居られやせぬ。

また🐱はエサを呉れと煩いわまたエサをやったにせよゲロを吐くわでもう其れどころでは無いわ。

 

おまけに出來の惡い子などが居ると余計にまた「美の世界」どころでは無い。

出來の惡い子が中間テストで8点しかとれなかったりまた寝小便をコイたりはたまた「不良」になったりどこぞの娘を妊娠させたりともう兎に角気が休まる時が無くさらに早稲田位は樂に行ける頭の出來であるにも関わらず地元の南山大學も受からない。

 

御前なんぞはもう大滝からでも飛び降りよ。

 

嗚呼だが此の「アーム筆入れ」が兎に角たった今美しい。

さうして形象の美が色彩の美がいまし詩人を取り巻きかうして静かに時を刻みつつある。

 

筆記詩人は徐に紫の「アーム筆入れ」の蓋を開ける。

すると其処には美しい銀製のプラチナ🖋が!

 

嗚呼其れはだがかのインクの出ない太軸のプラチナのことだった。

ではひとつ「念力」にてインクを出してみたい。

 

「ほーええええええーのーほいっ。」

うーん、何とか書けるやうになって來たな、何故か。

 

確かに。

確かに此処壱週間程で可成に良くなって來たぞ。

 

さうです、實はたった今筆記詩人は其の「念力による馴らし書き」をかのプラチナに對し行いつつありしかも其れが徐徐に成功しつつあるのだった。

ですがまだまだ其れは「イマイチ」です。

 

あくまで「イマイチ」ながら書けるやうになって來たのが「奇跡」的なことでなくて何なのでせう?

其れはまるでかってかのクリスト様が此の世に生き返った如くに「奇跡」的なことでせう。

 

曰く「壱念」の力。

其の「壱念」の力によりクリストは再誕しまた佛陀は此の世から完全に消えて御仕舞いになられたのだ。

 

其の「壱念」の力ぞまさに恐るべし。

 

静けき陽の光がまるで金の薔薇のやうに永劫に亘り机上に降り注ぐ。

 

 

多少インクの出に難があるにせよ其のプラチナの太軸はあくまで使えぬ訳ではないのである。

また此の頃の18金WGペン先はとても書き心地の方が良い。

 

其れは所謂ptペン先よりもずっと筆記感が良くなる。

 

さて本日は所謂ハイ・エンドなプラチナの限定万年筆の御話を致します。

 

前前回にプラチナの創立70周年記念万年筆ー1989年ーは良いとの御話をさせて頂きました。

 

尤もわたくしが持つ創立70周年記念万年筆は弐本のみで其れは緑色のセルロイド軸と銀製軸透かし模様の御品となる。

 

プラチナ萬年筆 型録 70周年記念金銀軸モデル

 

其れは此のやうに「金唐草模様」及び「銀唐草模様」としての御品となる。

其の「銀唐草模様」の方は得られたが「金唐草模様」の方を得ることがならなかったのです。

 

ところが今思えば海外の高額な限定品に手を出すよりはこちらを弐本位ずつ求めて置けばむしろずっと良かった訳です。

ところが人間と云う者は其の時にはそんなことがまるで分からないやうになって居るのです。

 

たとえどんなに意識が高くあらうと大抵はそんなものでありまさに其のことこそが分からんのです。

まあさう云うのでの壱番酷いのが「環境破壊」だの「地球温暖化」での問題でせう。

 

だから其れはそもイカン、おおまさにイカンのだが其の時には其れがまるで分からんのよ。

 

なので自分は自分でもって当時より可成に意識の高い愛好家だと思って居たのでしたが今思えば半分位は完全に「アホ」なのでした。

「金唐草模様」は左様に大變高価な品ではあったがあくまで問屋で買えば税込みにて四割引き位の物ですので海外の限定万年筆に手を出す替わりに其れを蒐集することなどもまた出來た筈です。

 

尚「金唐草模様」の創立70周年記念万年筆はヤフオクにて売られて居るのを視た覚えが無い。

もしや壱度位は其れが有ったかもしれぬがとりあえずは我が記憶には其れが御座りません。

 

 

では何故此の創立70周年記念万年筆の「唐草模様」仕様がそんなに良いものであるのかと言えば壱言で言えば其れが戦前のプラチナ萬年筆の復刻版だったからです。

但し其れは完全な復刻仕様だとは言えず例えば吸入方式などは現代的なピストンフィラーとなる。

 

其れでも可成に本気でもってまさに其の「戦前の萬年筆」としての「本質的価値」が追求されて居るのです。

例えば軸材はエボナイト製であり其処へ貴金属によるフィリグリー装飾が施される訳です。

 

尚其のフィリグリー装飾のエボナイト軸であることこそが「萬年筆」としての壱流品としての価値=上澄みとしての価値其のものです。

自分はかってアンティーク・ウォーターマンの世界でもってまさに其の「上澄みとしての価値」を渉猟して参りました。

 

「壱流」とはまさにさうしたことであり「本物」のことです。

まあブランド品は其の意味での「本物」でせう。

 

ですがブランド品でもってチャラチャラなのは何やら趣味が惡いのですが。

個人的にブランド品は万年筆以外の物を持ちませんのでエルメスだのテファニーだのローレックスだのベンツだのそんな物の価値は基本的に分かりません。

 

また着て居る服なども主に参拾年位前の着古した物が多くつまりは自分は外見は構わないので兎に角此の中身ダケで勝負です。

ところが其の中身がまた存外にアホだとのことです。

 

アホと云うことはひとえにかって其の蒐集の現場に於いて「理性が足りなんだ」とのことなのでした。

 

でもって拾年程前でしたか、其れも正確には調べてみませんと何時頃か分かりませんのですが其れでも画像ダケは残って居ますので此の際とんでも無い御品を此処に披瀝させて頂きます。

 

つまりはコレがかってヤフオクに出されて居たのであります。

 

 

戦前のプラチナ金装飾軸萬年筆-01

 

さてもコレは何ですか?

コレは戦前のプラチナ萬年筆其のものだ。

 

しかも金の装飾軸でありつまりは「金唐草模様」軸での御品となる。

 

 

戦前のプラチナ金装飾軸萬年筆-02

 

うわああー、すごーい。

もしやコレは「ブランド」品なのですか?

 

いいやそんなチャラチャラしたブランド品などよりずっと貴い御品であらう。

何故ならエルメスだのテファニーだのローレックスだのベンツだのは今でも壱千萬程金を積めば即手に入らうが此れはもはや幾ら金を積んでも出ては來ぬ物なのだから。

 

では何故筆記詩人さんはコレを得られなんだのか?

さて何故でせう?

 

何やら呆として居る間にオークションが終わって仕舞い誰かに取られたものか其れとも売れずに終わったのか其の辺りのことがすでに思い出せん。

阿呆、とどのつまりはまさに其の阿呆其のものです。

 

戦前のプラチナ金装飾軸萬年筆-03

 

さてコレはまさしくプラチナ萬年筆の戦前の「金唐草模様」軸であり紛うこと無き「本物」となる。

また画像より判断されることが、

 

1.大きな萬年筆では無く

2.金装飾部が22金製であること

3.インク止め式の萬年筆であること

 

とのことが判断されやう。

 

 

さて元來アンティークでの欧米の萬年筆にせよ貴金属軸の御品は小振りな物が多く實はオーヴァーサイズの物は概して少なくなる。

ではあれ無論のこと非常に価値の有る御品なのだ。

 

何故なら時代はすでに移り變わり其の戦前の時代はすでに遥かな過去の物と化したが故に。

また其の戦前の萬年筆を其の侭に復刻することももはや不可能となった。

 

例えば金ペン先を鍛造化しさらに吸入方式をインク止め式として復刻するだけで其の品は非常に高価な品へと化して仕舞うことだらう。

なので其のことはもはややれぬにせよ、

 

4.プラチナ70周年の金ペン先は鍛金の仕方が違う可能性が高いこと

5.エボナイト素材を軸材として復活したこと

 

の弐点のみで充分に「戦前の萬年筆の復刻モデル」として通用する品だと言えることとなる。

ところが「金唐草模様」の創立70周年記念万年筆はほとんど数が出回って居ない可能性の方が高くある。

 

要するに売られて居るのを視たことが無くとどのつまりは余り売れなかったのではないかとさう勘繰るより他はなくなるのだ。

 

さてプラチナの創立70周年記念万年筆が世に出されたのが1989年のことだった。

ところが当時は「限定万年筆」の草創期であり世の万年筆コレクター連中はむしろ其の「限定万年筆」に慣れ親しんで居らなんだ。

 

例えばモンブラン社がメディチ限定万年筆を発売したのが1992年のことだった。

尤もペリカン社はさらに早くM800デモンストレーターを出して居た。

 

其れがおそらく1988年か1989年頃のことだらう。

 

 

ペリカン 万年筆 特別生産品 スーベレーン800シリーズ M800 グリーン デモンストレーター │ インヘリットペン (inheritpen.com)

 

其の初代のM800デモンストレーターが1992年に出されたと云うのはどうも違うやうな気がするのですがもしや自分の記憶がすでに阿呆化ー痴呆化ーしたのだらうか?

いずれにせよ其の緑の軸のM800デモンストレーターが2023年に復刻されたとのことながらもうさう云うのは是非止めて頂きたい。

 

何故なら初代物の価値が下がって仕舞いがちとなる。

尚現在わたくしが使う現代物のペリカン万年筆はまさに其の緑の軸のM800デモンストレーター壱本のみとなる。

 

「モンブラン 万年筆 パトロンシリーズ ロレンツォ・デ・メディチ」 | 筆記具専門店キングダムノート|スタッフブログ (kingdomnote.com)

モンブラン Lorenzo de Medici Limited Edition - モンブラン|Pen Cluster

 

此処でのキングダムノートでの記事に文句を付ける訳ではないが所謂「メディチ使い」の愛好家として記事の内容への若干の修正をさせて頂きたい。

其れは「メディチ万年筆」がすぐに売り切れたとの話に就いてである。

 

實際には「メディチ万年筆」は廿世紀末頃迄は地方の百貨店やまたナゴヤのパルコなどでも売れ残り置かれて居たものだった。

其れもまあ東京でのことは知らんが少なくとも地方や此処ナゴヤでは22萬5千円もの万年筆を買う馬鹿は少なく要するに其れに手を出す奴はほぼ金持ちの馬鹿か或は物欲に取り憑かれ抑制のきかぬ自分のやうな阿呆しか居らなんだのだった。

 

但し頃合い的にはまさに当時は良い頃でつまりはまだバブルが弾ける前位でよって成金趣味の馬鹿共がエルメスだのテファニーだのローレックスだのベンツだのに嵌まりまくり其ればかりか倶樂部なるところへ出向き其処にて御立ち台の上で其れもパンテーを晒け出しつつ訳の分からぬロン毛の姐ちゃん達が踊り狂って御座ったのだった。

 

要するに当時は世間其のものが其の「成金趣味」に浮かれて居りさらに其の「成金趣味」は何処までも続くとさう信じて疑わなんだのだった。

 

だが我に限れば其の「成金趣味」に乗じて「メディチ万年筆」を手に入れ其れを使い捲った訳には非ず。

我はあくまで塾の先生として眞面目に子等を教え其の教授料として得た僅かな金を貯えさらに其れを文房具の問屋に持って行き四割引きでもってソレを得て居たのだから。

 

兎に角左様に当時は「限定🖋」に大枚をはたくとの其の習慣自體が無かったのである。

でもって無論のこと世界にもまた「限定🖋」に大枚をはたくとの其の習慣自體が無かったのである。

 

故に「限定🖋」其れ自體が可成にバブリーなものであり同時に「金権主義」との如何にも現代的な価値観として齎されるものだったのだ。

 

でもってプラチナの創立70周年記念万年筆が世に出されたのがあくまで1989年のことだった。

なので其の頃に26萬円もした其の「金唐草模様」の創立70周年記念万年筆が売れなんだのは至極当たり前の御話とならう。

 

尚「銀唐草模様」の創立70周年記念万年筆ですら13萬円もしたのだった。

 

が、其の後「限定🖋」の世界にはあれこれとまた御座ったのであるが個人的にたった今過去に戻れるのであれば「メディチ万年筆」を五本程得て置きたくさらにプラチナの創立70周年記念万年筆の「金唐草模様」×2と「銀唐草模様」×3程を何とか得て置きたいと思う。

 

どだいむしろ其の方が仕入れ値よりずっと儲かる訳なのだし。

 

そんな未使用の「メディチ万年筆」が五本もあれば其れをたった今上手く海外で売り捌けば五百萬程にもなりまっせ。

でもって他の「限定🖋」などはむしろ要らん。

 

要らんがペリカンの「オーストリア1000」だけは是非取って置くべきだった。

 

 

さて「限定🖋」にはそも「本気」での物とむしろ「惰性」での物とが有るのだ。

「本気」での物は最近になり🗾のメーカーなども幾本か出して來ては居る。

 

だが概ね「限定🖋」は壱種難しい品となりつまりはユーザー側からすれば「つい間違えて購入して仕舞い易い」物となり易い。

故にむしろ初めから「限定」して置けば良いのであるが我我人間は案外馬鹿だからなかなかさう理性を貫き「限定」することが出來ぬ。

 

なのでかうして参拾年後にどうのかうのと悔やむこととなる。

 

ちなみに其のナゴヤパルコにずっとー五年以上か?ー置いてあった「メディチ万年筆」を自分は見せて貰ったことがあり其の折に良い品であるとさう判断されたが故に其れを買おうと思い確か貯金して居たのだった。

 

ところがある日其の金を持ってナゴヤパルコへ向かったところすでに其の品は売り切れて居たのである。

そんな訳で物との縁もまたほんたうに難しいもので言わば「縁のもの」であり且つ常に壱期壱會のものとならざるを得ない。

 

穿った見方と言うかより本質的な論議をすれば「メディチ万年筆」よりも貴金属軸のプラチナの創立70周年記念万年筆の方がより素材の方は良くなる。

メディチ万年筆」との付き合いは個人的にもう長く弐拾年程となるが此の万年筆の樹脂部は素材が弱く即ち傷が付き易い。

 

またプラフィードもエボナイトペン芯に比せば良いとは言えぬ物となる。

逆に銀製軸のプラチナの創立70周年記念万年筆の方は余りに神神しく使えやしない。

 

プラチナ万年筆 創業70周年記念 銀製軸万年筆

 

其れもまるで戦前の神神の世界の所産での物のやうで兎に角畏れ多くて万年筆にインクを入れられやしない。

ちなみに両者に共通するであらう価値が壱つだけ有る。

 

其れは「メディチ万年筆」と「貴金属軸のプラチナの創立70周年記念万年筆」が共に戦前のモンブランと戦前のプラチナの復刻版としての「限定🖋」だとのことなのである。

要するにどうのかうのでは無くまさに戦前の萬年筆の復刻版なのだ。

 

さらに其処に於いて共通するであらう価値が有る。

其れは共に「オーヴァーサイズ」の万年筆へとまさに巨大化して居ることなのだ。

 

先にオリジナルとしてのプラチナ萬年筆の戦前の「金唐草模様」軸が小さい萬年筆であった可能性を指摘した積もりである。

また「メディチ万年筆」のオリジナルのモデルも小さい萬年筆であった可能性が高くある。

 

勿論我は「メディチ万年筆使い」として此れ迄にも様様な文献などで其のことを調べ上げて來て居る。

でもって正確なところは再度其の文献を調べ数値を挙げぬと言えないのですがとりあえず「メディチ万年筆」のオリジナルのモデルは「メディチ万年筆」程大きな万年筆では無いことだけは確かなことだ。

 

 

戦前の貴金属軸製モンブラン

 

おそらくは此れが其の「メディチ万年筆」のオリジナルのモデルとなる。

コレは昔ー廿年程前ーにヤフオクに出された所謂アンティーク・モンブランの御品の画像である。

 

兎に角極めて美しい御品となる。

だが「メディチ万年筆」と「貴金属軸のプラチナの創立70周年記念万年筆」もまた極めて美しい「限定🖋」なのだ。

 

即ち「限定🖋」の価値が其処にこそ宿るとでも言うべきなのか。

故に「メディチ万年筆」と「貴金属軸のプラチナの創立70周年記念万年筆」の価値は其の戦前のオリジナル・モデルに勝るとも劣らぬ部分を有して居るのだと言えやう。

 

ですので「限定🖋」が全部ダメなのでは無く中にはこんなに偏差値の高い要するに利口な「限定🖋」がまたちゃんと有るのだから。

「限定🖋」が全部馬鹿だと言うアナタがそもバカなんだ。

 

さうか、むしろオレはバカだったのだ。

さうですよ、あくまでアナタがバカでわたくしめはこんな阿呆です。

 

でもわたくしはちゃんと其の価値を見定めて居る分アナタよりは偉い愛好家ではないか。

うーむ、何やら結局負けたやうな気が…。

 

だからわたくしに勝てる筈なんぞ無いのだ。

今日のところは確かに負けた。

 

だが明日のことは分からん。

なので君が明日の朝目覚めると弐本の限定万年筆が消えて居ることに気付く。

 

嗚呼其れは「メディチ万年筆」と「貴金属軸のプラチナの創立70周年記念万年筆」なのだった!!

さう其の弐本を儂が搔っ攫い逃げたのじゃ。

 

かうして夜陰に紛れ君の机上からさうして其れを搔っ攫い逃げたのじゃった。

其れはならん、止めよイカン金輪際其れはイカン!

 

では早速庭に穴を掘り其の弐本を隠さう。

 

次の日の朝目覚めた筆記詩人は必死の思いで庭を探索したが其処にはもはやどんなものも埋められては居らず。

さう其れ等はさうしてより根性の惡い詩人βの方にすでに盗まれて仕舞っておったのだった。

 

 

PLATINUM プラチナ 万年筆 創業70周年記念 白金透かし 唐草模様 軟中字 [ネーム刻印] (youtube.com)

 

尚かうして「貴金属軸のプラチナの創立70周年記念万年筆」には「白金仕様」のモデルがまた在ったやうです。

まさに夢のやうな仕様で其れは正直申してすでに発売済みのプラチナの「創立百周年記念万年筆」などよりもずっと上でせう。

 

かうして何故か万年筆に限れば昔の物の方が良いのである。

其処からも万年筆とは過去形の物なのだなと正直思わされます。